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K会の「とげとげしさ」「排他性」は何かというと、
OR氏とそれに集まる人に、やはりどこか「焦り」「恐れ」や「満たされなさ」が隠れているのではないかと。

彼らは、自分のうちを深く内省しそこから自然の神の光を発するのではなく、「光っているように見せる」。
これでもかというくらいに、わざとらしく光を発する。

彼らの説く「太陽」は人工の太陽。
そして、それが本当の太陽の眼隠しになっている。


悪魔とは何かという話に入りたいと思います。

悪魔と言うと、角やきばの生えた人外の生物が、悪さをして高らかに笑っている姿が定着していますし、
皆さんの中ですと、「自分の背後にいて、自分をコントロールしている黒い存在」のように怯えてしまう人もいるかもしれません。
それは実はごく一部でして、
本当は、「神にとって変わろうとする人間のエゴ」および、「エゴのつくる苦しみ」なのです。

恐れや、不安を抱かせるものは悪魔でしょう。


本当の悪魔は、「神を手なずけて、利用しようとする人間の心に巣くうもの」。

彼は、敬虔で従順であるふりをしながら、
その敬虔で信心深いふりをして、他者を従わせようと画策していますし、
他者が自分に従わないのが許せない。
そうしながら、自分は神に近く、選ばれた人間だと思っています。

いわゆる、「律法学者」といわれる連中もそうでしょう。
魔術を行う人もそうかもしれません。

神の名をかたり人々を支配する独裁者も、
カルト集団の教祖も、
またそれに追随していく人々も、
結局のところ神を利用して、人を支配し、「権力」を手に入れようともくろんでいるのです。

その裏には、思想とか社会とか大きなもの以前に、
人間としてごく原初的な「劣等感」「自己嫌悪」が横たわっている場合が多い。

思想や学問や集団の力を利用してその「満たされなさ」の正当化は進みます。



彼らにとって、悪魔というのは、「自分の立場に都合の悪い存在」です。
教条を絶対視し、人間が生きる上で真に大切にすべき光を自ら閉ざしてしまっているのです。
「自分の閉じたエゴを脅かすもの」を彼らは悪魔として退けます。
それは大きなエゴにほかなりません。

悪魔と言うのは、逆です。
彼ら自身が自らを悪魔に定めています。
そして、内心では怯えたり、苦しんでいたりするのです。


神というものはとても不確定でいて、もろい、そしてすぐに見えなくなる。
信じること、希望をもつこと、愛すること、
これらに証明や確定さを求めることはできませんし、どちらか一方がわずかでもそれを破れば取り返しのつかないことになる。
私は、だからこそ、それは尊いもので、それによって、それのなかで人間は真に生きるのだと思っています。



神に願望をかなえるための力をもらうことは悪いことではないのですし、
真剣に願い、行動すれば、運命は変わります。
しかし、その願望が、利己的であった場合、その願いに邪霊も多く集まってきて、その人の人生は狂わされていくことになります。

近頃のスピリチュアリティおよび、カルト宗教の危険性は、
あくまでも、「自己本位」であることだろうと思っています。
縦の関係しかないし、それで完結している。

横のつながり、思いやりや、愛による素朴な連帯というものが失われがちなのです。
もっとも、横のつながりが強調されすぎてしまうと、また「煩わしい人間関係」や「友達地獄」のような自体も起こるのですが。

カルトというものは、どうやら、縦の関係も横の関係も支配的であるようです。



心をつくし精神を尽くし神を愛する。隣人を自分のように愛する、
という掟は普遍のものだろうと思います。

問われているのは、「対象」同様に、「愛」の在り方だろうと思います。

神と私たちが呼ぶのは、隔絶された不可思議な対象でなく、
自己の根底にある「真我」です。
私たちは、「神の似姿」であり、神の創造した宇宙とおなじ性質を有している。
無限の愛と光の海である神の、分霊をいただいているのが人間です。
しかし、自我=神ではありません。
「偽我」を、神としてしまうところから過ちが起こる。

偽我の語る「愛」は、「束縛」であったり、「支配」の形をとってやってきます。

様々なところでそれは混同されがちです。


愛の形として、やはり「自分のして欲しいこと」は何なのか、アンテナを立ててしっかりと自分自身に問いかけることではないでしょうか。
それは、自己の根源に関わり、宇宙の根源に関わり、またすべての人を駆け巡るものなのです。

自分の他者になしたことは、宇宙の網を駆け巡って、すべて残らず自分に返ってきます。
苦しみが生じるということは、自分の思いと行いにまだ清くないものがあるから。

自己の根底に住まう神と、それぞれの宇宙を有して人格(ペルソナ)を持っている他者に対しての愛の行い。
いかに宇宙にある網を使うかです。

自分に対してして欲しい最も善い思いと行いを、惜しみなく与えることです。


本物の悪魔は、自分を苦しめる他者ではなく、それに対して反発や苦しみを抱く私の心自身にほかなりません。
悪魔に打ち勝つ方法は、感謝と慈しみです。

先にそれを成し遂げることができた人が、勝利します。



心より感謝しています。





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2013.09.26 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲

コメント

悪魔と我欲が混ざる愛
その通りで、自分や他人を全く愛することができない人は、自分が悪魔に近づいています。

しかし、愛や感謝を持続していくことは、至難でしょう。
これに気づくのは不幸という神の警告が気づかせるのです。

悪魔は神の存在を認識しています。しかし、悪魔です。
悪魔が近づいてくるのは、我欲です。ある意味、悪魔も警告と同じです。

つまり、神への愛がなければ、内なる神を愛せず、自他の我欲が混ざった愛しか生まれないでしょうね。

でも、そこからが出発ですね。
2013.10.03 Thu l XYZ. URL l 編集
Re: 悪魔と我欲が混ざる愛
なるほど。
ありがとうございます。
不幸とは神からの警告でしたか。罰ではありませんよね。

痛みを真摯に受け止めることが神へ向かう方法。
心したいと思います。

いつも愛あるコメントに感謝しています。




> その通りで、自分や他人を全く愛することができない人は、自分が悪魔に近づいています。
>
> しかし、愛や感謝を持続していくことは、至難でしょう。
> これに気づくのは不幸という神の警告が気づかせるのです。
>
> 悪魔は神の存在を認識しています。しかし、悪魔です。
> 悪魔が近づいてくるのは、我欲です。ある意味、悪魔も警告と同じです。
>
> つまり、神への愛がなければ、内なる神を愛せず、自他の我欲が混ざった愛しか生まれないでしょうね。
>
> でも、そこからが出発ですね。
2013.10.07 Mon l confessius. URL l 編集

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