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空海が心の段階を10段階に分けていたり、

キルケゴールが実存を3段階に分けていたりされているのですが、

私も、及ばずながら、自分の思うところの魂の段階を簡単にまとめておきたいと思います。

あくまでも、試論なのでちぐはぐはあると思いますが。







第一段階:わがまま
己のエゴのままに生きる魂。わがままに振舞い、人を傷つける。自分が一方的に環境の被害者であると信じている。



第二段階:いい人

道徳に目覚めて、「いい人」になろうとする。それは、環境からの圧力であったりして、自発的なものとは言えないが、良心はそれを是とみなしてはいる。



第三段階:真面目な人
より高い徳を目指そうとする。

すなわち、倫理的に生きることが幸福につながるという自覚とともに、主体的に善であろうとする。

しかし、やはり、「自分が中心」の善を抜けられず、他者に対してもその「善」を要求する。

未だに彼は己のエゴイズムに気がつくことはない。



第4段階:求道者
人間を超えた真理、神なるものを求める段階。

魂は、自分の起源である神、真理を希求する。そして、真理の前でまったき者であろうとする。

因果の理法を理解し、善行によって自らの魂を徳高きものとしようと戒を守ろうとする。



神を求めながら、その「神」を己のエゴの範疇に押し込めてしまう。彼は己の罪や傲慢さを自覚していない。彼は、聖書に捉われ、宗派に捉われ、人に捉われる。





第3、第4は、いわゆる「律法学者」とも言えるかもしれない。神や道徳を他人に押しつけながら、人を裁く。

「善良な市民」と言われるものが、第2から第3にかけての段階にいる魂であり、彼らは群衆になると第一の悪人よりも厄介だ。世の中の人間の大多数がそこに属する。





第五段階:絶望
神を真剣に求めるものの、まもなく彼は絶望に至る。罪と絶望の自覚である。

彼らは、「善良な市民」を憎みながら、本質的には彼らとおなじ次元で生きていることを知るからである。

己への絶望、罪の絶望。すなわち、あらゆる人間はエゴや欲望を棄てきることができない。

一切が罪のうちに捉われていくのだ。だれしもが「わがまま」の次元からなんら離れることができない。

神との断絶を感じる。彼はどこにも神を見出すことはできない。神を希求しながら、神と断絶していくという皮肉、矛盾。

誰よりも善に向かいながら、悪に捉えられずにはいない。

ただ、彼はひたすら「裁き」に恐れおののく。神の許しを信じることができない。

どこに神があるのかすらも見出すことはできない。



彼のいる「地獄」は、第1段階よりも苦しみに満ちている。そこから抜け出すことはできない。

否、「善良な市民」一切が、自らが地獄で生きていることを自覚していないのだ。



彼は己を知ろうとするが、群衆の裁き、人と人のうちにしか見いだせない。



太宰治もそうであったし、尾崎豊もそうであったのだろう。









第六段階:赦し

ここで、飛躍が生じる。

彼の精神は、泥沼の中で、自ら自身の魂の奥底に向かう。そこで「内なる神」を見出す。光を己の根底に見出すのである。そこにおいて彼は自己を見出す。

断じて、「私が神である」ということではない。

一切は神の計らいであるという恩寵を自覚する。

エゴを棄てきることはできないし、未だにエゴに捉われているものの、それにもまして、神の恵みは計り知れないことを知る。

彼は、己を肯定する。そのとき、神によって肯定されている。



第七段階:恩寵
私は私を棄てる。一切を神の計らいに委ねる。

私が生きているのではなく、神が私を生きているという覚りにいたる。

真理は、時間の延長の先にあるのではなく、現在の深奥に永遠なる神が生きていると知る。

彼は、すべてを肯定する。

彼はここで、再び、利他の心に目覚める。慈悲と善行の心で生きる。

一切の罪人に許しとあわれみをもたらす。



第八段階:無我
一切が、空虚であると知る。

五感によって捉えられる世界は、一切が変化し、自己自身も蜃気楼のものであり、滅びるものであり、幻想であると知る。

すなわち、「自分はない」。

無によってある有、有によってある無を覚る。





第九段階:万物一体

「一切がひとつ」という覚り。

すなわち、自分と他者、世界、仏は同じものであるということ。一切が神のうちにあり、つながりをもっている。

しかし、それは「均一化」ではないし、「没個性」ではない。

自己の魂の根源は、宇宙とつながっており、その根源において、あらゆるものはそこから生じている。





第十段階:?
言語化は不可能な領域で、人間には見ようとする資格すらないだろう。

神が言葉をあたえ、世界は成立している。人間がそこに言葉を与えることはできない。







魂が段階を重ねるということは、「上に行く」ということや「立派になる」ということとは言い切れない側面も存在する。それらは、「我」によるものだからだ。

罪の自覚と、謙虚さに恵みを注がれていると言った方がよいかもしれない。



上昇や飛躍と言うよりも、魂の根源に向かうダイナミズムといってもいいかもしれない。



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2013.09.03 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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