上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
神さまとか、聖霊、指導霊というのはやはりいるのだけれども、
「信じよう」「見よう」とあがいてると、かえってよく分からなくなってるので、そこに縛られなくても良いと思います。

外側でなくて、自分の心のうち、因果の道理を丁寧に観察してみることです。


その社長さんの心の教えの本が好きで、ある、有名な健康食品販売店にお邪魔しました。
お話しながら、すごく楽しいひと時を過ごさせていただいて、健康食品も購入。
飲んだら、今朝はすごく身体の細胞が生き生きしていて、目覚めも違う!

その社長さんも神さまのお話をよくされて、宗教に近いことをやっている。ただし、お金は取らないけれど。


帰って、すこし心に引っかかりが。

あの、楽しいうきうきした「光」の感覚は、かつての幸福の科学でも体験したものでした。

だから、「また、信じたものに裏切られるのではないか」という恐れがあり、いろいろなことを考えていた。


幸福の科学のすべてがすべて間違っていたとは言い切れない部分はあるし、
それを言うなら、オウムのようなカルトだってはじめから狂気の様相を呈していたら誰一人として入りはしない。

だからといって、宗教がダメだとか、神さまのことを言い始めると、それは危険だと判断するのは、ステレオタイプな見方だ。

分からないことをあれこれ議論して、何も実践しない道理は空想であり、迷妄でしかない。
掲示板などで、いくらいいことを書いても、たぶんそれは「豚に真珠」になってしまう。


自分は、他人にどう馬鹿にされようが、幸福の科学を守るつもりだったし、多少世の中から奇妙に見えても、心の教えは守っていくつもりで、周りの人を幸せにしたかった。
でも、最終的には、道理で打破されたし、そして、教団や教祖自身が心の教えを忘れ、内部崩壊していった。
謙虚さを忘れ、高慢になっていった。

どこかで、自分たちのエゴが「神聖さ」を纏って暴走していったのだろう。


宗教や神を判断する基準は、奇妙とか常識に反するとか、そういうことは二次的なもので、
基本は、盗まない、人を傷つけない、邪淫をしない、嘘をつかないということ。

仏典や、古典に立ち返ってみても良いかもしれない。


「全体」を掴む必要はないし、「仏教もキリスト教も、真理はつまるところ同じ」ということも言おうとする必要はない。

自分にとって、心が穏やかで、安らぐものを選び、実践する。
それが、早い。
それが、「普遍」に至るための近道。
スポンサーサイト
2013.08.17 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

コメント

コメントの投稿












       

トラックバック

トラックバックURL
→http://relisophia.blog43.fc2.com/tb.php/90-fc135899
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。