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私は、今まで三人の師に裏切られてきました。

ひとり目が、母親。
とても、教育熱心で、たくさんの本を読み、成長の家の集まりにもよく連れて行ってくれました。
でも、最後には、世間の目や親のエゴが強く、私にとってそれは虐待以外の何物でもなかった。


二人目が、幸福の科学の大川隆法さん。
彼の本は片っ端から読みふけり、ユートピア建設の一員となることを夢見ていた。
でも、幸福の科学は、人の心や本当に大切なことなんかどうでもよくて、結局金と権力。
信じる人の気持ちを完全に踏みにじった。
反対するものはたとえ良心的な人でも、あらさがしのような霊言で叩きおろして批判。


三人目が、母校のカトリックの高校の社会科、宗教の先生。
学生時代、父親のように慕っていて、暇さえあれば先生の部屋に行って、話を聞いていた。本もたくさんもらった。悩んだ時は、いつでも電話していた。

でも、教育実習のとき、全く違った姿をみた。
聖書や資料集で生徒を叩いて、その本はヨレヨレになっていた。
生徒一人ひとりよりも、学校のメンツを保とうと、不都合があると隠蔽しようとする。いじめを肯定する発言。
それが、少しでも脅かされると、「何でこんなことで」と思うようなことでも激昂する。


ショックだった。
世の中に信じるに値するべきものはないと知った時、そこには絶望しかなくて、死まで考えた。

また、恨みや復讐の気持ちも。
心は怒りにうちふるえていた。

そして、「素晴らしいことを説く人はみなそうなってしまうのだ。自分もそうなってしまうのでは」という恐怖といつも戦った。

「すべてはきれい事なのだ。世の中は、狡猾で人を蹴落とし傷つけることができる人間が勝つ社会なのだ。人間の存在は間違いなく悪だ。だったら、自分も悪に徹してやろう。」と堕していった。

「そうでもしなきゃやってられない。」と。


でも、本当は許すことが私の魂の修行。

いまでも、心はそちらの方向に揺れることがある。


でも、裏切るほうより、裏切られる人のほうがマシ。

魂の苦難は、あなたを磨くし、そのなかで人は「ホンモノ」は何かということを分かっていく。
それはきっと、お金とか名誉なんかよりもはるかに大切なものなんじゃないかなあ。


人がどうだろうが、自分が大損をここうが、
人を数ではなく、「人格」として、仕えるものになれるよう、神に祈りたい。


今は、思う。
どんなにどん底にあっても、命を脅かされても、魂は無垢であれ、と。


大切なのは、人に依存することじゃない。

自分が真実だと思うことを、心の底からしっかり確認して、その道を歩むこと。
人は間違うし、裏切る。
だからって、自分もそうでいいというのは、悪魔の誘惑だ。

正しいのは、仏、神とその法則、生命のみ。
それは、あなたが祈り、しっかり生きることによってのみ確認できる。


「太陽の法」のすべてが間違っていたわけではないし、実在界もないわけではないことは、
心の修行を深めていくうちに、実感できる。

じゃあ、大川隆法に再び帰依しろというのは違う。

カルトにいく人間は、「それが正しい」と確信し感動を覚えたから、そこに飛び込んでいき、信じられないものまで信じようとした。

そして、苦しむ。


確かなものは、知らないことの中にではなく、
また、形而上の机上の論理のなかにでも、呪文のなかにもない。
善の実践と、瞑想の中にはっきり確認できる。

何が幸せのリアリティであるかなんて、人や世間が決めることではないし、他人にちょっかいをだすことでもない。

そのまま、満足して感謝して死んでいけたら、「大きな迷妄」に縛られて苦しみながら人生を終わるよりも、はるかに豊かだし、
細部に無限の慈悲を注ぐことで、はっきりとそこに神や仏を観ることができる。
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2013.08.15 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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