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ひとり、自分と向き合って、心を振り返りながら、自分の想いを観察していきます。
そうしながら、汚れを取り除いていくとき、とても幸せな気持ちになります。

人に笑顔で接する。
道端の掃除をする。
周りに感謝を捧げる。

やはり、「神さま」は、心を磨くこと、人のためになる行い、愛することのなか、祈ることのなかに見えてくるものだと思います。

私たちは、神さまからの分霊をいただいているのだということ。

そして、私たち自身の心の奥の奥の声を通して、語りかけてくる、ということ。



そんななかで、
「ああ、この感覚は幸福の科学時代に味わったことがあるものだなあ」とふと思うと、
私の中で、とんでもない心の痛みが訪れました。

その根本に、「大川隆法」がいるのです。
お前のいる場所よりも「幸福の科学」の方が次元が高い。
愛の神、エル・カンターレこそ戻るべき源だ、
と、彼らは干渉してくるのです。


「だったら、何だろう。
私のいる場所もまた、ひとつのマインドコントロールの下に置かれているのか?」
「私の手にした幸福もまたかりそめのもので、騙されていたに過ぎないのか?
では、真実はどこにあるのか」

と、暗闇に突き落とされたような気持ちになりました。


が、


少し落ち着いて、考えてみますと、
人を不安に陥れたり、都合の悪いものを悪魔と称して排除したり、いばったりするようなものが、果して本当に「善いもの」なのか。

あるいは、「どちらが正しい」「どちらが上だ」といういい争いの中で、得られる答えは仮に正しかったとしても、「幸福」でありえるのだろうか。

揺れ動く心の中で、私の視点は実に狭くなり、
光を見ているようで、事実上、心の平安はあり得ないわけです。


結果として、私たちは迷う。



ということを、冷静に考えた際、
やはり、戻るべきところは、我々自身の内側なのです。
「いかにしたら、私の心が平安で、幸せに暮らすことができるか。周りの人にあたたかさや光を投げかけてあげることができるか。」を考え、実行すること。


私たちがもとめた、「幸せになれる心の教え」は確かに真実だったのかもしれない。
だから、集まったのでしょう。
しかし、盲信に因る果実は・・・?


私たちの心は、「依存する対象」「依るべき価値観」を求めることで、苦悩します。

かといって、自分自身も信じることができない。


正しいのか、正しくないのか、
壮大なことを頭の中で考え始めることは、すべて誤謬です。

「迷いの中の是非は是非ともに非なり」です。



「他者がどうこう」、「人にどういうことを言われて干渉されるだろう。」
「他人になにをされた」「何何をしてくれなかった」
ということに心の焦点は当てる必要はありません。


裸の私自身の心と向き合って対話してみることで、見えてくるものがあるかもしれません。

そして、思いなすべきは、
「私がほかの人に何をしてあげたか」「何をしてあげているか」
というそのことです。

それを粛々とこなしていくうちに、
私たちの心のうちには、何物にも代えがたい豊かな宝が蓄えられる。


それが、本当に大切なことではないでしょうか。






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2013.07.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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