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インターネットというものが、私の見方、考え方に大きな影響を与えました。



世の中にはいろいろな視点があること。



簡単にはひとつにまとまらず、対立し、批判しあうということが常であるということ。



「仏法真理」、会で説かれている霊的価値観を日本中に・・・いや、世界中に広めることで、必ずすべての人が幸福になれる!と信じていた僕にとってはなにかそれが不思議に見えて仕方ありませんでした。



当たり前のように「正しい」と信じていた会に対しても山ほどの批判があり、こころに突き刺さったものも多くありました。

それを通じていろいろな情報も知りました。



ひょっとしたら、このブログを通じて書くこともひょっとしたら、新しい問題を生み出すことになるかもしれません。



でも、自分を偽らず、率直によいことも悪いことも迷ったことも書いていこうと思います。




「みんなが信じて幸福になればそれでいいんじゃないの?それでなにか間違っているの?」

と何も考えず思っていた僕にとって、分からないことばかりでした。



考えなきゃならない

というか、僕に考えさせることをはじめさせたきっかけのひとつに佐倉哲氏の会の考え方に対する批判の数々があります。



http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/index.html



さまざまな訪問者からのメッセージ、意見、批判に対する対応という形で佐倉氏の意見は述べられていきます。

意見は仏教、キリスト教、日本と世界、脳死、さまざまな分野に及びますが、新興宗教および、キリスト教、『聖書』に対してはかなり批判的な見方をしています。



佐倉氏はかなりややこしいことをおっしゃっておられ、初めて読み始めてから4年経ったいまでも、よく分からないのですが、

佐倉氏の主張は次のようなものでしょうか。 



「信仰とは本当は知らないことをあたかも知っているかのように振舞うこと」

「幸福になれるからといって、それは真理であるとは限らない」

「仏陀と会の総裁の言っていることは正反対である」というテキストの提示。


会員さんたちは頭を振り絞っていろいろなことを考えて佐倉氏の考えに対して、「それは違う」という批判を試みますが、すべて論破されてしまいます。



世の中って単純じゃないんだな。



難しく考えていかなきゃいけないんだな。



ということで、僕は「哲学」の考え方を学ぶ必要にかられたのです。



会でも、「霊言集」などに、古今東西のさまざまな偉い思想家、宗教家が出てきますし、

会の書籍にもところどころ、なんだか難しそうな過去の思想や文化の背景が語られています。



それをしっかり学んでいかないと何も意味がないじゃないか。何も語れないじゃないか。

「知は力なり」だ。

知っていなかったり、考えていなければ、何を語って何を主張しても論破されてしまう。

難しく考えて、その上で仏法真理が正しいことを証明する必要性がある。



という必要性のなかから、今の僕がいるわけです。





でも、今考えると



果たして議論によって真理を得ることができるのか。

常に他人を意識することで、自分固有の根源は開かれるのか。



相手を論破するためのパワーゲームのなかで、本当に大切にすべきものを見失ってるんじゃないかと思います。



ソクラテスの言わんとした「哲学」とはそういうものではないでしょうか。



また、会で語られる「神話」は確かに事実か、真理かどうかは分かりません。

現代では、その他にも多くのスピリチュアリズムが興隆し、超古代文明や、あの世の世界が「真実」だと信じたい人も多くいます。

ひょっとしたら、それを「何の証明もできない」「たんなる自分の欲求の表れにしか過ぎない」と一方的に切り捨ててしまう人もいるかもしれません。

しかし、それを信じようとする態度、幸福を手にしたいという人間の欲求は根本的なものです。

私はそこに着目したいと思っています。



最近、私は「幸福」とは、決して真理と同一でありえないようなナンセンスなものではないと思っています。

机上の空論でも、単なる観念上の空しいものなどではなくて、人生にとって何よりも大切なものではないかと。



間違いは、そのような証明不可能な「神話」を、科学と同列に扱い、本当は知ってもいないことを「思い込み」の世界のなかであれこれ理屈づけようとして、

「神話」を素直に「真理」として肯定しない人たちを独善的に裁こうとすることから始まるのではないでしょうか。




僕は、「語りえないものに対しては沈黙しなきゃいけない」と思っています。

「神話」を客観的な真理とすることはできません。

いくら言葉を尽くしても、分からないことって意外と多いものなんです。

そして本当に大切なものは語ることはできません。

沈黙のなかから、自分の人生にとって本当に大切なことは滲み出てきます。



「神話」は僕たちの人生にかかわる、神聖で繊細な部分の象徴です。

何も語らず受け入れるもの。

おおっぴらに軽い気持ちで語るものじゃないし、他人に理屈で押し付けようとするものでもない。




私の大学の古代ギリシアの哲学担当の教授が言っていました。

「幸福は決して科学できるものじゃない。幸福は哲学の対象にするものだ。」と。



会の名称は

科学と宗教の合一を目指す、

霊界の科学、現代の科学とは違う、神聖な科学、信仰の科学であるということ、

霊界の存在というものを「科学」とおなじように常識にしたいという運動、

みたいなコンセプトであったと思いますが。




この点について、私は、正しい「信仰」の文化は科学同様にもっと日本に浸透すればよいと考えています。

しかし、決して「科学」になってしまってはいけないと思っています。

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2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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