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悪意のある人が私を責め立てなくても、

実のところ私が、いかに卑劣で卑怯で弱虫な奴かはわかってるし、おそらくその底は自分ですら直視できないんじゃないかなあ。



いじめの現場を見て、影から笑ってしまう自分。

偽善者が嫌いで、「不謹慎な正論」でも「そうだ」と納得してしまう自分。

そして、思っていても、空気からつまはじきにされることを極度に恐れて、人前で本音を押さえつけて黙っている自分。

(勇気を出して赤面しながら、教職のプレゼンの質疑応答で、立ちあがって、ちゃぶ台をひっくり返すような質問をよくしたりもしたのですが・・・。)

あるいは、自分かわいさに、「やさしさ」だとか「福祉」だとかいった美麗字句を持ちだして現実を見ようとしない自分。



というか、誰だって、自分が「善人の側」についていると信じていたい心理はある。

「みんなの幸せ」のようなものが何の疑いもなく不文律として、共有され、それが目的として話し合いや分かち合いが行われることがほとんどだし、

それを守れない人間は、「この人おかしい」でつまはじきにされて、居場所がなくなるのがオチなのです。



その、向かっている「善」なんていうものも、あいまいで、

国家とか、会社とか、宗教とか、クラブとか、友人関係によって変わらざるを得なくなってきます。

悪なんてものは、「善と信じてやまないものの対立」のなかから生じるものでしょう。



「自分」というものが、本当のところよく分からなくなってきたりします。



そう、人間は、本当に何が本当の善であり、何が悪か知ることもできないし、行動することもできない。

しかし、絶対的な善に向かうことを義務づけられているのです。



不幸になりたくて悪を犯す人などおらず、やはり、悪を犯す人は何かしら幸福の一様態を満たすためにそれを行っている。





大学入学時に読んだ、アウグスティヌスの『告白』を読み返しています。

私の洗礼名でもあります。



カトリックの洗礼を受けて、数年してからというもの、より一層自覚することは上記に挙げたような「私がどれだけのロクデモナイ野郎か」ということ。



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ところが、アウグスティヌスの「告白」は、自分の罪の「懺悔」が救いだして下さった神への「賛美」になり、そして「感謝」になる。

悪の告白であると同時に、自分の善の告白でもある。

しかし、すべてを、賜物とみて、決して自分を誇らない。



毒麦の混じった教会。

かえって欠点をしのび愛し合うことによって聖性は増す。

腐敗を含みながらそれに耐えている教会の姿が聖というのだ。




本当の幸福(浄福)というものは、「道」であって、やはりアタマで考えるだけでなく、

身体の声や、心の声に耳をすませば自ずからやるべき善行が分かってくるのではないかと感じたりしています。




とにかく、私というのは、私一人で生きているのではなく、謙虚に「生かされている」という感謝の方向に投げ出すことが大切なのではないかと思っています。



そして、「自分自身の身丈」を正しく知ること。まずは、自分に与えられた恵みを知ること。足ることを知ること。

自分は、「神の御手の中の役割を果たす道具。」として捉える事。




幸福の科学のさまざまなアンチブログで、

大川隆法は「親からありのままを認めてもらえなかったアダルト・チルドレン」「自己愛性人格障害」「誇大妄想症」「躁鬱を繰り返している」といった病理が告発されており、それについていく信者も教祖と同じで、「自分が特別だと思いたい」という心理があると指摘されていましたが、

その真偽については私からはなにも言いませんが、

私にもその病理はあるのは否定できない、ということです。



自分も、「有名になりたい」とか、「特別になりたい」とか、「大物になりたい」とか、

地位や名誉や財産を他人以上に求めて、

あるいは、菩薩になりたい、如来を目指したい・・・など霊的ヒエラルキーで上になろうとも思っていましたし、「エル・カンターレ」の名声や偉さを広く世界に伝えたいとも思っていたような気がします。

それに「夢」とか「理想」だとかいった美麗字句を並べていましたが、しょせんそれは、失われてきた自尊心の穴埋めでしかなかったのだろうかとも思っています。




何かの拍子に、名声を得た自分が彼のように人を踏み台にして、多くの人から恨まれる的になりながら、そのまま突っ走ることだってあるかもしれない・・・いや、確実にそうなる。

自分が罪びとだということを「告白」しながら、「神」に依らねば、私は何もできない。

自分に厳しく言い聞かせたい。




「あなた方皆の中で最も小さいものこそ、最も偉いものである。」(ルカによる福音書9章)

「上に立つ人は仕えるもののようになりなさい」(ルカによる福音書22章)




多くの新興宗教が、「自分のところこそすごい!」と喧伝するけれど、なんだか、そこに隠れた名誉欲とかないかな。



何も要らないので、

自分が大きくなることを考えるより、

他人の意志の中で持ちあげられることなんかよりも、

はかりしれない大きなもの意志のなかで、必要な役割を果たせるように、「小さく」ありたい。



仮に、大きな仕事を与えられたとしても、私は、私の「小ささ」のうちに止まっているように祈りたい。


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2013.05.01 Wed l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲

コメント

No title
ファティマ第三の預言とノアの大洪水について。

第二次大戦前にヨーロッパでオーロラが見られたように、
アメリカでオーロラが見られました。
また、ダニエル書の合算により、
御国の福音が宣べ伝えられるのは、5月15日だと理解できます。
エルサレムを基準にしています。


2018年 5月14日(月) 新世界           +1335日 
            ダニエル9:2         イスラエル建国70年

2018年 3月30日(金) ノアの大洪水         +1290日 過越14日-15日 
2014年 9月17日(水) ダニエル12:11            +0日
2013年 5月15日(水) ダニエル9:24  マタイ24:14    -490日  第一次中東戦争から65年


天におられるわれらの父とキリスト、
死者復活と永遠のいのちを確信させるものです。

全てあらかじめ記されているものです。
これを、福音を信じる全ての方、
救いを待ち望む全ての方に述べ伝えてください。
2013.05.03 Fri l マタイ24. URL l 編集

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