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いまだに私には、

「本当に神はいるのか、いないのか。」

「魂は死後もあるのか、ないのか。」

「イエスは本当に復活したのか。」



いわゆる「低レベルな疑念」を持たない

クリスチャンの気持ちが分かりません。



なぜ、誰も「実はすべては壮大なまやかしなのではないか」と思わないのだろうか。



権威ある上に言われたから、「はいはい」なのだろうか。



繰り返し、「本当はわからないこと」を繰り返しているうちに、そう思い込むようになってしまったのだろうか。



いや、「そもそもの問い」なのかもしれない。



「神」と呼ばれるものについて問いかけることは、

人間の深淵とそれを越えるものへの問いかけと同義なのではないだろうか。



だから、永遠に「分かった」ということはないのかもしれない。



死ぬまで、問いかけが続くのかもしれない。



時間には、「クロノス」と「カイロス」の二種類がありますが、

どこかで、決定的な「カイロス」が訪れるかもしれない。

それは、私には分からない。




どちらにしろ、

神の裁きはもちろんのこと、赦しさえも、

私にとっては恐怖です。







そろそろ二年になりますが、

私が、カトリックの洗礼を受けたモチベーションは3つ。



・イエスに従うものとなりたい

・すべての人に仕える

・幸福の科学を離れて、なにか確かな信の礎が欲しい



ということ。




教会に組み込まれたり、

どの教義が優れているなどということは

心の底から避けたいと思っていた。



多くの過ちを犯してきた中世の教会。



本当にもう、政治とかイデオロギーとは切り離して、素朴でありたかった。



私は、ただひとり「単独者」として、「神」の前に立ちたかった。



ただ、私は「祈りの人」となりたかったのかもしれない。




しかし、それは避けられないようで、

中身を見てみると、大きな教会だと、右翼が怒鳴りこんできたり、プロテスタントとの確執があったり、いろいろ。










未だに、私に決定的にかけているものは、

「救われた」という確証である。



イエスは、すべての罪を許して背負って死んだという。



仏教でも、阿弥陀如来は、すでにすべての衆生を救ったという教えがある。



救われたみたいだけれども、やはり私は暗闇の中でそれを確証できずにいる。




私には、ますます自分が罪人であり、悪人だという自覚しか浮かび上がってこない。



人間は、基本的にみんな自分が善人だと信じて疑わず、

自分の信じる善を押しつけるエゴイストであることから逃れられない。



そういう人間を見てきて、私は実に嫌気がさしていた。



しかし、いちばん醜いのは誰か・・・自分でした。





信者が必ず知ってなければいけない、「カトリック教会のカテキズムの要約」を読み終えました。



入門講座は、よくさぼっていた上、分からなかったので、

分かるまで、いろいろなところで聖書を読んだり講座を受けたりしたのですが、やはり分からない。



カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)/カトリック中央協議会

¥1,260
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なぜ、教会がこれをありがたがり、讃えているのかわからない。



私の良心に驚くべきほど響かないのです。



カトリック教会が、「救いだ、権威だ」といくら力説されても、本当に虚しさしか覚えない。



生きづらさや、心の病を抱えていたりする人に寄り添っているか。

「信仰がどうのこうの」などと言われても、それは救いにはならない。




162.キリストの唯一の教会はどこに存在しますか

 ・・・このカトリック教会を通してのみ、救いの諸手段を十分に得ることができます。




166.

教会がカトリック、すなわち普遍であるのは、教会の中にキリストが現存されるからです。




171.「教会の外に救いはない」との主張は何を意味していますか。

・・・教会がキリストによって設立されたものを知りながら、教会に入らない人や、教会に止まらない人は救われることがありません。




173.

・・・キリスト者はたとえ殉教に至ることがあっても、自分自身を犠牲にする覚悟をもってキリストの道をあゆみながら、キリストによってもたらされた良い知らせをすべての人に告げ知らさなければなりません。




212.地獄とはどのようなものですか

地獄とは、自分の自由な選択によって大罪のうちに死ぬ人々の永遠の責め苦のことです。

地獄の主要な罰は、神から永遠に離れることにあるのです。




442.

信仰の徳は、神を信じ、その反対のことを退けます。たとえば、故意の懐疑、不信仰、異端、背教などです。



イメージで言うと、



神は教会にしかいない



教会以外に救いはなし



教会を拒むものは永遠の地獄



あ、だけど、それは自由な選択ですから。




よく考えてみましょう。



選択肢は、教会を受け入れる以外ありませんよね。



「自分で選んだ」ように見せかけて、本当は選択肢がなかった、「偽りのジレンマ」でカルト教団がよく用いる方法です。



・・・といっても、私の知る限り、そういう脅しのようなことをするところは基本的にないです。

信者、未信者、あんまり壁なく仲良くやってます。




ドイツのことわざに、「教会に近づくほど、神から離れる」というものがありますが。





古代の人々は、人智を超越した自然を恐れ、敬い、その奥に「神」を見出しました。

それは、理性に反する迷信として捉えられがちですが、現代だからこそ、大切にされなければいけないと私は考えています。




一神教は、おもに、砂漠など厳しい自然が人間を殺し、対立する地域からうまれました。人々の心を強く「神」に結びつけるために、「私以外に神はなし」です。



一方、日本の多神教などは、モンスーン型の風土から生まれ、自然との共存で、自然の中に「見えない神」が宿っていると考えます。



ところが、

神の声を聞ける特別な人種が現れて、それを盾に人々を支配し、価値観を定めます。

神への取次として、従順さや素直さ、そして財産を貢ぐことを説き始めます。

「宗教」の始まりです。



いつのまにか、本物の「神」そのものと、偽物の神を権威としてでっち上げた「宗教組織」が一体になってしまっているわけです。



疑われると困る。

自分たちの嘘がばれてしまうから。

疑いは地獄に堕ちると脅し、信仰や従順を説く。



この世を疎ませ、「いつか来るであろう」救いを説き、教会に縛り付ける。






教会や信者は、「間違ったもの」、都合の悪いものを断罪するために「神」や「教義」を振りかざす。



「祈り」の恰好だけして、心は全く自分を振り返っていない。



「本当か」と疑いを持つ私は、なにか「やばいもの」でも見るような目で、多くの断罪を受けます。

いろんな人から軽蔑されているのかもしれない。



酷い時には、「あなたは金属バットで撲殺されるべきですよ」などというものもあった。



笑えないギャグだなあと思った。





「何も信じられない」

「じゃあ、自分だけを信じればいい」



とよく言いますが、

その「自分」の信念でさえ、絶対的他者を経由しなければ獲得できません。



ほかのものを信じられないというのも、ひとつの悲しい生きる選択肢です。





「そんなにカトリックが嫌いならやめればいいではないですか」とも、よく言われますし、

私も、神父やシスターなんかに切迫した顔つきで「どうやったら、信者やめることができるんですか」と聞いたこともある。




「来なきゃそれでいいじゃん」という話なのですが、

非常に大切にしたいかけがえのない仲間がいる。



教会の導きがなければ今の私はいないということ。




信じられるものはなにかというと、

教義や神学ではなくて、

本当に素朴な「思いやり」だとか「支え合い」だとか。

あと、「居場所」というのもとても大きいのかも。



そういう彼らに限って、ほとんどキリスト教のことに関しておぼろげだったりする。



そして、「祈りの場所」として、欠かせない。



神の不在を感じつつも、どこかで、「問いかける場所」が欲しかった。



私の場合、四六時中、神について考えているので、ある意味それも「祈り」らしい。

まったく清い心がないのですが。




本当は、「愛」とか「思いやり」のなかにこそ本当の神や仏がいて、それこそが教えを知っていることより尊いのかもしれません。





あと、私は、「日本人」であることを優先したいのだなあと。



「私以外にいかなる神もあってはならない」は、本当に受け付けません。

そこの信仰に踏み込めないので、私はクリスチャンではないのかな、と。



神社や、お寺通ると必ずお参りをして、般若心経を唱えます。



告解で話したら、「それはコミットメントの問題で、議論の余地があるので、罪ではありません」と言われましたが。




諸宗教間の対話では、

信者は、「崇敬」はOKですが、神社でかしわでを打ったり、お焼香をあげたり、「南無阿弥陀仏」と唱えることや、お神輿を担ぐことも避けましょうと書かれていたりで、

どうもこうも、息苦しい感じがする。



「ダメ」と禁止されると、正直とても私は悲しい気持ちになります。




「私は道であり、真理である。私を通らなければ誰も神のもとにはいけない。」

「天下にこの方以外に救いの名は与えられていない。」



のは、もう多分キリスト教の根幹なので、崩せないし譲れないところはあるかもしれません。





私の捉え方。



「すべては、ひとつである」という考え方。



空海という平安時代の僧は、

様々な宗教が入り乱れる日本のなか、度々著書で「すべての教えは根源の水脈がある」と説いて、それぞれに役割があると説いています。



その「根源」が何かは、

私たち人間には認識できませんし、信仰する人によって様々でしょう。



ブラーフマンとか、

大日如来だとか、

父なる神だとか、

本知垂迹説だとか、

天照さんだとかあるけれど、

とにかく「わからない」けど、あるみたいです。



ただ、どこの地域、どこの時代にも、「本源的な原理、存在」「すべての救済の元締め」みたいなものが説かれていまして、

本来宗教とはそれに至る「道」であるべきなのか、と。



どの人類も、同じ根源をもっていて、ゴールはひとつ。



違いを認めつつ、手を取り合って、大きな道を歩んでいく方法を探れたらと思っているが、

自分と相手の境界線をどこに引くかで

なかなか困難なところはあるかもしれません。




「すべての宗教がインチキだ」といい、自分勝手に道を歩んで、悟った気になってる人ほどうさんくさい。



宗教の支えてきた文明が崩れ、最近では、宗教でない(宗教を否定する)精神文明の動きが勃興しつつありますが、功罪両面あるかもしれません。



事業などの成功者に限って、宗教に属してなくても、そういう科学的でない「みえない力」に心を傾けている場合が多かったりします。



お寺巡りや、パワースポットめぐりが流行っているのも、私は日本古来の霊性が復活してきたと思って喜ばしいことと考えています。



教会の在り方とは違う信仰の在り方で、

「宗教の私物化」だとか「異端」だとか、「カトリック失格」だとか、「地獄に行く」だの言われそうですが、

「わからないけれど、なんかいいな」的なのが健全なのかもしれません。




そういう見えない力が素朴なうちはいいのですが、

真面目になりすぎると、「宗教」や「哲学」になってしまう。



私など、哲学の世界で生きています。





表題にもある、「私自身の救い」についてですが、

キルケゴールの『死に至る病』を読んで、とにかく「これだ!これだ!」と衝撃を受けました。

自分の「ひょっとしたら思ってはいけない」思いを、その何百歩先まで進んでしっかり絶望を味わっていた。



キルケゴールという人は、父が神を呪ったことを聞き耐えきれず、婚約者も振り、牧師になる道も諦め、

デンマーク国教会を激しく攻撃していたそうです。



死に至る病 (岩波文庫)/岩波書店

¥819
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この本は、進んだ信仰段階の中にある自分が、絶望の中にある自分を見ているという体裁である。



キルケゴールは、「絶望して、彼自身であろうとする」

すなわち、「絶望しても神にすがらない」という道を選ぶ。

神に「挑戦する」絶望状態。



絶望は罪であるから、それに陥っている自分を罰しなければならない。



神が救いの判決を下しても、私はそれを不当とし、有罪の判決を望む。



惨めなままの自己自身であろうと欲する。



キリスト教徒にとっての最大の罪であることを自覚しつつ、イエスに全身全霊で、誠実に躓くこと。

こうした状態にいる彼は、ただ疑いのうちにいるだけでない。彼は絶大なる苦悩のうちにいる。



「自分はなぜ、他のクリスチャンのように素直に神を信じられないのであろう?イエスが自分の罪を肩代わりして死んでくれたこと、そして復活したことを信じられないのであろうか?

神が自分を創ったのだとすると、なぜ、神はこんなにひんまがった心根の人間を創ったのであろう。」







私にも、

「神が分からないなかで、何かに裁かれているような気がする」という、

「神との断絶」を深く味わいます。



ひょっとしたら、神が私に救いの手を差し伸べているかもしれないし、すでに救っているのかもしれない。それに気がついていないだけなのかもしれない。

しかし、たとえそうであっても、私はそれをすんなりと受け入れられないのです。



救われることが、何かぺろりと舌を出してパラダイスに胡坐をかいているような罪悪感があるのでしょうか。



神の中にしか本物の幸福はなくて、神を拒む者には永遠の地獄しかないと言われてても、なお、なぜか罪に止まっていたい。



キルケゴールは、とどまるだけでなく、神への「反抗」とまで歩を進めています。



自分の醜さもすべて受け入れて、自分であろうとする醜さ。



やはり、「絶望」しかない。






・・・「あまり、難しく考えすぎず、楽になりゃいいのに」とか絶対言いたくなると思うのですが(笑)






第三の道。



私は、マイスター・エックハルトと禅の思想で論文を書いたのですが、



「神対自分」の構図ではなく、



自分を消す。



そこに、神が入る。



自分を棄てることによって、自分を得る。



それさえも棄てる。



神も消える。



で、また日常のなかに戻っていく。




どこまでも、「いま・ここ」に止まること。



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2013.01.27 Sun l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲

コメント

イエス様、存在しますよ( ´ ▽ ` )ノなぜなら、個人的に会えますよ。パパ神様にも会えますよ。お話してくれます。あと、教会とは、イエス様を受け入れた人のことで、本来、建物をさしません。神様は一人やけどどこにでもいらっしゃいます。カトリック、オススメできないです。自分でイエス様を探求できます。なぜなら、神様やから!よく多くの人が、教会という建物や、そこに行く人をクリスチャンといいますが、違いますよ。本来、キリストばか、神様ラブの人たちをクリスチャンといいます。だから、もう、教会にいかなくていあですよ。人を通して、神様をみると、すべて、間違いです。なぜなら、義人一人だになしだから。だれも完璧じゃないからね。だから、主に自分で尋ねるといいですよ。イエス様、きてください。教えてください。って。はい( ´ ▽ ` )ノ
2013.04.28 Sun l とと. URL l 編集
Re: タイトルなし
ととさま。
コメントありがとうございます。
どのような立場のクリスチャンかお聞かせいただけたらと思います。

聖書は、自分一人で読んでいると実に恐ろしい書物なので(笑)、
やはり、研究者や専門家を囲んで分かち合いするのが私は好きだったりするのですが。


> イエス様、存在しますよ( ´ ▽ ` )ノなぜなら、個人的に会えますよ。パパ神様にも会えますよ。お話してくれます。あと、教会とは、イエス様を受け入れた人のことで、本来、建物をさしません。神様は一人やけどどこにでもいらっしゃいます。カトリック、オススメできないです。自分でイエス様を探求できます。なぜなら、神様やから!よく多くの人が、教会という建物や、そこに行く人をクリスチャンといいますが、違いますよ。本来、キリストばか、神様ラブの人たちをクリスチャンといいます。だから、もう、教会にいかなくていあですよ。人を通して、神様をみると、すべて、間違いです。なぜなら、義人一人だになしだから。だれも完璧じゃないからね。だから、主に自分で尋ねるといいですよ。イエス様、きてください。教えてください。って。はい( ´ ▽ ` )ノ
2013.05.01 Wed l confessius. URL l 編集

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