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今回も、創価学会員の昔の同僚と会って、いろいろと宗教談義をしてきました。



仕事の話やら、宗教、政治の話で何時間も盛り上がり対話もかわしました。

実は、自分はカトリックというのに、神田明神と湯島天神で「偶像崇拝」をしてきたところ。そして、そこで神道に関する本も買ってきました(笑)






今回は、別の地区の方で、私も含めて3人でいろいろと話し合ったのですが、創価学会にも地域によって色が違い、「体験」というものを重視しているということ。

自分たちは、そんな「勧誘」とか「折伏」はしないよ、ということ。

別に創価学会に入ろうがはいらまいが別にどうでもいいという話。自分たちは、信心を勧めることもしないよ、と。

でも、ただ、祈ってくれということ。



ということで、今回はそこまで怖い想いはしませんでした(笑)



自分も、カトリックの中では、異質とも言える、新宗教間との対話をして、「お前、それ危ないだろ」という目で見られているのですが、観念や思想の違いを越えて、「宗派を超えて祈る」という点では、想いは同じでした。



創価学会は「体験」を重視するそうですが、それを聞いていてなぜ、創価に限らず、新宗教がここまで力を持ち、人の心を引き付けるようになったのかということについて、すこし考えさせられました。



それは、彼らが「本気」であること、「真剣」であること、にあると思うのです。



そして、その結果、自分の運命が変わったという信仰の体験が、他人の心を動かしていくのでしょう。理屈や組織の規模ではないのだろうなと思いました。



ある人が言うには、自分の父は、お題目のおかげで命を助けてもらったし、学会関係で恩があったということでヤクザから殺されるのを免れて生きのびてきた。自分も幼いころ心臓を悪くしていたが、母親が熱心にお題目を挙げてくれてそれで助かった。本当は今生きていないかもしれない。生きているということ、生命があるということが奇跡なんだよ、と。



その経験を通して、お題目であったり、あるいは信仰のすごさ、「やってみないとわからない」、そして「これしかない」ということを強く伝えたくて、また、他人の幸福のためにも祈ることができるのでしょう。



私も、幸福の科学の会員の昔の(?)法友の方から、ネットを通じて、

「会員に傷つけられたことはいいんです。大川隆法総裁先生のお話を聞いてください」

「この教えは必ず幸福になれる教えだと断言できます。」

「君にも法を実践して本当の幸福を掴んでもらいたいんだ」

と強く勧められることがありますが、やはり、大変な人生の中でも実際にその教えや信仰、そして仲間によって助けられたり救われたり勇気づけられたような、強烈な体験や感動があるから言えることなのでしょう。



同時に、その「幸せになってもらいたい」「この信仰、教えをみんなにも伝えたい」という動機からくる、「伝道」の強さは、

私たち一般社会との軋轢を生みださざるをえません。

一般社会では、人生について真剣に語り合ったり、お互いの幸福を堂々と祈り合えるような場所がないのです。



これは、宗教の世界だけに言えることではないでしょうか。



でも、彼らは、一途で本気であり、真剣であるから、周りから批判や悪口を受けても「こいつらは、弱いところを持っている。かわいそうだな」くらいにしか思わない、若しくは、自分たちの本当に大切にしているものを傷つけられて、感情的になって怒っているのかもしれません。




一方、私たち伝統宗教の「祈り」は沈黙のうちで、自分の内なるものとの丁寧な、深い対話であったりします。

奇跡や神秘現象を求めるものとはまた違ったりするわけです。



新宗教の言う、何かを「本気で願う」「真剣に願う」といったたぐいの「熱い」ものとは違うので、宗教間の間でも、齟齬が生じてきます。

「神」や「仏」といった観念についても、どっちが上とか、そういう話になってくる。



少し、いや、だいぶベクトルが諸宗教によって違っているのはあるかなぁということを感じました。



創価学会では、現実から物事を変革していき、幸福を手にする祈りであるのに対して、

幸福の科学では、「大川総裁」の明快に説いてきたスピリチュアルな世界観を受け入れることから、守護霊・指導霊との祈りという形で祈りや心の反省が始まる。

(遅ればせながら、大川隆法著『不滅の法』に手を伸ばしているところです。)



ちなみに、創価学会は、幸福の科学に対して、規模的に屁とも思っていないとのことでした。




伝統宗教になると、一つの「文化」として、あるいは「理論」や「教義」として、あるいは、「儀式」として歴史のうちで固まってきたものができてきているので、

そういったことで言い争いになって「霊性」の部分がおざなりにされてきている部分はあるかもしれません。




私は、いろいろな、宗教の立場に立って、世界や物事を考える機会を与えられています。

それぞれがそれぞれに、明確な理由や、経験をもとに、物事をとらえたり、前に進んだり、批判し合ったりしています。



それをいろんな角度で見てきた自分は、ただ一方的に排除するだけでなく、何ができるか、安易な掛け橋となることはできないかもしれませんが、そういったことを考えてみたいと思っています。




伝統宗教批判、新宗教持ちあげではないですが、今の宗教学者たちが見ていない、一般人の視点からみた、宗教に関する一考察でした。

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2012.02.18 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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