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洗礼受けて、半年もしないうちにまさかのトンデモ発言です。

「なぜカトリックの洗礼を受けようと思ったのですか」と言ったことを聞かれて、自分としても一度はそういうことを文章にまとめてみたいと思いつつ、そのような機会がなかったので、綴ってみたいと思います。

周知の通り、うちは中学、高校時代と「幸福の科学」という新宗教に傾倒しておったわけです。
学校は中学高校とカトリックで、中学時代は1年生くらいまで昼休みの「カトリック研究会」なるものに出て、聖書など学んでいたのですが、正直分からんしつまらなくて、出なくなった。
「幸福の科学」の支部に出たりした方がさわやかな気持ちになれるし、教祖の大川隆法の本の方が分かりやすいことを言っているし、学校では教えてくれない霊的価値観のことも教えてくれる。第一大きな教養にもなった。

本気で、「この教えが広まれば、学校は、日本は、世界は、愛し合い、生かし合い、許し合い、みんなが本当の意味で幸福になれるユートピアになれる」と思っていたね。
ただ、中学生ながらに、大川の写真をご本尊にして崇拝するのは当時から違和感を感じていた。

詳しくは、何回も述べているので言わないけれども、学校の中でも「伝道」をして、先生なんかに雑誌や映画のチケットや本を(自費で!)あげたりするほど熱心な活動家でした。

ですから、今も世間から白い目で見られつつもそれに負けず、一生懸命活動している人の気持ちは痛いほど分かるわけです。
何も知らない人が、「なんで新興宗教なんかにハマっちゃう人がいるんだろう」ということを口にしますが、世間との熱の熱さの違いに「うーん」と唸ります。
だから、私としては、動物みたいに条件反射的に否定するんではなくて、宗教もしっかり一部の権利くらいは堂々と認めて議論させたらいいんではないかと思う次第です。そういって、「弾圧せよ」などと抜かしている輩どもが、かえってカルトを助長していると強く思っています。

そんなある日、カトリックで倫理、政経を担当している先生に本をあげたところ、「あんまりハマりすぎない方がいいぞ」と言われ、胸がドキッとする想いでした。そのあと、1~2時間にわたって、新興宗教と伝統宗教の違いを諭され、「ははぁ、なるほど」とすんなり納得。内容は簡潔に言うと「理性に支えられた信仰」「教祖に振り回されず、主体性をもつこと」「聖書も批判的に切り刻まれている。といっても批判のための批判でない。」「病気治しなどの現世利益でホイホイついていかない」「新興宗教は結局金や組織拡大だ」「世界の様々な問題とか直視して考えてないだろ」。
「当てはまるところもあれば、当てはまらないところもあるな~。でも頭に入れておこう」と思いました。
その先生とは今も連絡を取り合って、家族ぐるみで教会学校をやったりと、人生においても親密な関係です。

その後、みている限りでは、教祖の絶対化、人間よりも組織、高額な祈願の乱発、批判者を連れ戻そうと寄ってたかる在り方など、様々な破綻を、外から見ていてきたしているようには思いましたが。

その後、大学もまたカトリックだったんで、自然にそっちの方に流れていって、学問的には、哲学ベースに、自然神学や倫理神学の方にも行ったり。

後半時代は、教会学校でリーダーやるに至りました。
やるのに、神父様と相談。
「一点目。自分、幸福の科学やってたんですけれども・・・。」それについては何も否定されなかった(笑)
未信者が、信者の子供にキリスト教思想を教えるわけですから、ある意味ゆるいといったらゆるい。
「二点目。自分、アスペルガーで、集団でなんかやるのマジ無理なんですけれども。」
そっちのほうが問題だった(笑


そいで、イエスやマリア、聖書や教会について簡単に学びつつ、それを小学生相手に、噛み砕いて分かりやすく教えるに至ったわけですが、それが非常に自分の糧になった。

教会学校の仕事そっちのけで、本ばかり読んで、感動している最中に、よく怒られた(笑

「聖書」を読みつつ、「これは『生きている』言葉で、まさに命の泉」だという風に感じたのであります。
この「命の泉」にぜひ繋がっていたい、と。
イエスに従うものとなりたい、役に立ちたいという突き動かされるような想いが押さえられなかった。
イエスが神かどうかは、信仰に依るものであるから何とも言えないし、ぶっちゃけどれくらいのキリスト教徒がそれを真面目に信じているかも不明なのだが、
ひとつ言えることは、イエスは、神として高みに立って人々を導いたのではなく、自ら貧しきものとなって、当時のイスラエル社会でさげすまれていた人々、どん底にあって苦しんでいた人々、罪人たちの中に入っていき、その人たちにこそ救い、神の国はあると説いたわけである。
神でありながら、仕えられるためではなく、仕えるために来られた。
だから、最も人間的に生きた方と言ってもいいかもしれない。

俺は、その話を聞いてなぜか知らんが泣けてきた。
そういう生き方をしたいと思った。

多分、「自分の意志」というのもあるのかもしれませんが、「神」が自分を自由の内に招き、動かしたというのもあるかもしれません。


で、まあ、幸福の科学の信仰も棄てて、大川崇拝も辞めた自分には、宗教的にフラフラしている状態。
「そろそろ落ち着いてもええんやないか」とある教授神父にぼそっといわれ、入門講座へ。
一面にはそういう俗な面もあったわけです。

同時に、洗礼の準備をしながら、不遜にもこういう準備も心の中でしていました。
キリストに結ばれた瞬間から、俺はキルケゴール的な単独者となるぞ、と。

「そして、彼らのうちのあるものは早くすでに立派にキリスト教を『卒業』して今は立派に背教者をもって自らを任ずる者もあります」(『後世への最大の遺物』内村鑑三)
これだ!と思ったね。
よし、「背教者をもって自らを任ずることができるようになろう」と(笑
大きな声では言わないけれども。


うちがカトリックに安心していられるのは、普通にニーチェの話やら、生まれ変わりの話やら、無神論やら、果ては性の話まで、安心して堂々と話し合うことができたからというのもある。
といっても、周りは自分らが「宗教」やってるという自覚があったのかなかったのかすら分からない。
ミサや祈りはきちんとやるものの、ひとつの「文化」として、地域と溶け込んで、深く黙想したり、信仰や、自己に対する問いかけを真剣に問いかけたり、分かち合うようなことはあまりなく、どちらかというとひとつの「居場所」として機能していた側面があるかもしれない。
うちのみてきたカトリックってのはそんな感じでした。

そういう、自由で裁きあわない、押し付けない風土で、おだやかに共同体の成長を育んできた場所だからこそ、自分は自信を持って、かつ安心していられたのだろうと思います。


ところが、インターネットではひどいひどい、キリスト教系のコミュ。

うちは、幸福の科学の信仰は棄てていますが、よく、学生部時代の仲間なんかと会ったり話したりもして、一定の割合で尊重もしています。

ところが、それが問題らしいのです。
キリスト教的、カトリック的には「異端」どころではない、犯罪、地獄行き確定ですって。

「他の宗教の施設に出入りするだけであなた確実に地獄いきです」とか言われたんですが。正直、そういう在り方はどうかと思う。教会法にも定められているらしい。下手なカルトよりタチが悪い。知るかそんなもん。
信者どもはこぞって、脱会せよ、脱会せよ、でなければ、洗礼を授けた神父に懺悔して洗礼を取り消してもらえ、と強制してくるわけです。
神に懺悔しないと確実に地獄に落ちます。家庭があるのに浮気をしているようなものです、とね。

哲学が皆無に等しいが、うちのエル・カンターレが地球のトップだとか言って、諸宗教を宥和している幸福の科学のほうがまだマシである。
「万教帰一」を唱えて様々な宗教を認めている新興宗教「生長の家」もマシである。

カトリックがリベラルだとかいって、宥和を求める神父やシスターは金属バットで殴り殺されてもいいとか信じられないことを言う、プロテスタントの人もいる。

洗礼受けて半年経たないうちにカトリック、プロテスタント問わず、キリスト教がクソみたいに思えてきた。
キリスト教なんて信じるのやめてやる。
上等でぃ!喜んで胸張って背教者になってやる。
でも教会の共同体自体はすきです。「俺はこう思う」と言って、批判されたことも一度もないね。
仲間たち好きです。
神父様尊敬しています。
子どもたちもかわいいから。


教義や教会法に捉われて、それだけで「地獄に堕ちる」とかおかしくないかい?
天国がそんな心狭い人間の集まりなら、こちらからお断りしたいね。


地元の教会である女性の方から、こういう話を聞いて興味深く思った。
「宗教持たない人って、本当にどうやって生きているのかしらねぇ。」
趣味とか、酒とか、そんなことに流されて、ほんとうにいい生き方というものができるのかということ。

「宗教は人類の愚行である。アヘンである」と言う人もいるが、私の立場としてはそれには賛成していない。
「自分の立場しか認めず、それに一字一句でも反する者は粛清」という宗教であればないほうがいい。と思うのだが、日本人の自分がそれを軽々しく口にするには難しいものがある。
なんで、ジョン・レノンが「想像してごらん、天国なんてないと」と歌ったのかが宗教対立の中に巻き込まれて初めて分かった気がする。

「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命に対する要求である」
(西田幾多郎『善の研究』)

ある意味、宗教なしでも、平和に生きれるったぁ、生きれるが、宗教なしで人間は真の意味で生きているとは言えない。
といっても、日本人のほとんどは自らを無宗教だと思っているから、こういえば反発がくるかもしれない。
まあでも、どこかでかならず、「宇宙の不思議」とか「人間の存在の尊さ」に関する考え方ってあるわけで、そういうのに置き換えてもいいんじゃないかと僕は思っている。


どんなことがあっても、信仰のために、人を傷つけたり、傷つけられたり、もっといえば殺し、殺されるようなことがあってはならないと私は信じていますし、他人が「否」と言っても、おそらく私はその立場を堅持するでしょう。

もし、信仰のために死ぬのなら、多くの人の心の糧になるよう自分を差し出さなければならない。
最も、私自身にそれをできる勇気はないですが。


幸福の科学信者と喧嘩したり、プロテスタント信者からあーだこうだ言われたり、果ては、カトリックさんからも地獄行き宣言をされるしまつ。
幸福の科学側からは、「裏切り者」的な立場で叩かれ、縁を切らなければ切らなければで、その他から白い目で見られ、
自分がカトリックだと言えば、「あぁ、宗教全般嫌いです」的な人もいるわけで、
また、新興宗教ウォッチングに行けば、「洗脳されている」どうのこうの、と言われる始末。
いちいち、胃が痛くなり、吐き気がする。
まったく、宗教対立の渦の中ばかり生き抜いてきた疲れる生き方である。


で、
他人にはない、そういうダークというかタブーの世界の経緯を得てきて、いろんな人の言い分もわかる自分だから言えるのだが、

「大切なのは、思想じゃない。人だ。」

ということ。

耳にタコができるほど言い続けてきたけれども、やっぱり自分としての帰結はそこ。

どんな宗教にも、どんな政治的理念を持った人にも、いい人間もいれば、悪い人間、排他的な人間もいる。

そういう意味で、「キリスト教」とか「カトリック」なんぞという枠から、「自分」として精神的に「脱藩」したい。(江戸時代では脱藩は犯罪。)
といっても、一人で隠遁生活をし、共同体に属さないということではない。(してみたい気持ちもあるが。)


この広い空の下、
自分は自分である。

ただ、「常住の自我」にこだわるという意味ではない。



たまに、自分の人生を動かしているものは、何かということに意識が向く。

自分の意志、たしかにある。
自分の意志で自分の人生を決断して、決めて、切り開いていく。大切なこと。
でも、その背後に、自分の人生を見えないけれども、支え導いてくれる意志の力を感じることがある。

そして不思議なことに、前者を支える形で、後者はあり、そちらの方が、ゆっくりとではあるが、確実に、強く、常に、最善の方向に私を動かすのである。

それに、運命を任せ、私はそれに与えられた私にとって最善なる使命を果たせるように、努力、研鑽を重ねていきたいと思う。

仮にそれが地獄に至る道であったとしても、誰に何を言われようとも、私は自らの良心に嘘はつけないし、私を動かす力に静かに従い、ただ真っ直ぐに、回り道しながら道を歩むのみである。


「救いようのない馬鹿だ」と笑うやつは笑えばいいし、叩く人は叩きゃいいと思うし、「正しい道に戻りますように」と祈る人は祈ればよろしかろうと思います。

ただ、私を動かそうとしてもなんの得にもなりません。人生の時間の浪費です。他人のことなんか気に欠けるよりも、自分の道は自分で決める生き方が一番です。
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2011.09.05 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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