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2003.10.6(月)

3時起き。勉強をするも進まず。
朝、家庭科準備室でカバンの「不動心」を友人Nに見られ、「Are You Happy?」と笑いながら聞かれる。
「『黄金の法』の映画見に行くん?」とか聞いてくるところをみると、結構、幸福の科学も知名度が一般にも高いようだ。


10.7(火)

依然として脱力感が続いている。日記を読み返してみると、こういった心の原因は、私の心が仏から遠ざかっていたことに起因するものであったと思う。
悪魔は常に私をねらっている。常に私と仏を引き離して、単独になったところを攻撃しようとしている。
私のやる気がなくなるにしたがって、私の信仰も薄れていった。
信仰はどんなことがあっても絶対に捨ててはならない。これは、それを捨てた時、その人がどうなっていったかということを見れば、信仰を捨ててはいけないということが明らかに分かるだろう。
信仰とは、仏と一体であることを魂の奥底から自覚するという行為なのだ。
すべてを仏に委ねよ。仏は私たちの魂の親。
悪魔の言葉に惑うことがあってはならぬ。信仰こそ、私たちに、すべての光を与えてくれるものなのだ。
信仰ありての言葉。信仰ありてこその行動。信仰ありてこその思いである。
信仰こそはすべてのすべてなのだ。
信仰とは、自分を信じ、仏を信じること。
それが分かってから、とても心がおだやかになってきた。これはとても私にとって大きな進歩だ。
信仰とはすなわち自分の仏性を確かめること。
信仰とともにこれからも進んでいきたい。

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「信仰」に関する認識は、今の私から見ても真理ではないかなと思います。
ただ、信仰の対象として、当時の自分にどういったものが描かれていたのかは分かりませんが・・・。

あと、その当時の自分の言葉に疑問があるのは、「信仰」って自分のためになにか利益を求めるためのレベルのものなのかな?
そういうものなのかな、ということです。
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2009.06.19 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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