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C「ねぇ・・・
先生は自分の頭で考えることが大切っていったけれど、
二人のやりとりをみていると、本当に大切なものがなんなのか分からなくなってきそうだよ・・・。
何を安心して信じていいのか分からなくて、苦しい。」

B「いいかい、大切なのは何を信じ、従うかじゃないと思うんだ。
一度、頭をからっぽにしてごらん。
本当に求めるべきものは『僕』がどう生きるか。どこに心の安らぎがあるか。どこに心をワクワクさせてくれるものがあるか。どこに、深い自分と巡り合える静けさがあるか。

本当は、集まりとか、何に従うとか・・・そんなの関係ないって思いたい。
でも、人とのつながりは大切だけれどもね・・・。」

A「みんな、『私たち』のなかにあるわ!
いや、『私たち』以外のどこにもない最高のもの。

私も、本当は迷ったり、疑ったりしたときはあった。
でもね、やっぱりどう考えても、この教えは本物だ、って。
本当か、本当かでないかは分からないわ。
でも、『あの人』のすごさや、本物の情熱を見ていると、もう信じるしかない、って。」

C「それじゃあさ、ばうあー、もう関わらなければいいだけの話じゃない?なんでそんなにこだわるの?」

B「その通りだよ。
今までずっと、自分の心を隠しながら、誰にも話さず『それでいいかな』と思いながら生きてきた。
関わるたびにケンカして傷つくんだ。考え方の違いでね。
もうまっぴらだと思った。
文句を言いたいことは本当はたくさんあるんだけれども、大切なのは自分自身がしっかり生きること。
何の信仰も関係ない・・・一人の人間として、あがきながら生きてきた。
でも、僕はそれでいいと思っている。それよりも、ひとりの人として、平凡な周りとの関わりや友情を大切にしたかった。それで幸せだった。」

A「せっかく、主が降誕された時代に、もったいないっていう気持ちでいっぱいだけれど、そこまで言うなら仕方ないわ・・・。
いつか戻ってきて、正しいって分かる日が来ると信じている。」

B「(結局、自分たちが正しいことが前提で俺を見下してんじゃねえか。でもまあいいや。
もう無駄な戦いはしたくない。
お互いに自分の信じる道を平和に歩んでいければそれが一番いいんだ。)

・・・多くの人たちが、何かを批判するときに、あらさがしばかりしかせずに、本当に大切なものに対する問いかけをほとんどしていないように感じる。
僕は・・・文句ではなくて、いつも、『本当に大切なものは何か』『あれ?それ、本当なのかな』という批判の姿勢を忘れたくないなぁ。」

A「いいことを聞いたわ。それは私たちにも言えることだと思う。ありがとう。」

C「なんかまるくおさまったみたいでよかったね。平和が一番だよ。」




B「・・・でも!」


A「!?」

C「まだ何かあるの?」


B「僕は戦わなければならないんだ。

これは、神父さんも、僧侶も、大学の教授も、ジャーナリストも、学校の先生も、親しい友人も誰もできない!

なぜなら、誰ひとりとして、僕たちの目線を知らず、その目線に立って物事を語れないからだ。

だから、僕が戦うしかない。

これが、終わったら、僕はまた普通の一人の人に戻るよ。そして、自分の人生についてウンウンうなったり、周りの友達を大切にしたりするよ。

いいかい、大切なのは思想や集まりでなくて人間、ひとりの人間なんだ。レッテルを貼って見て差別しちゃいけない。
それを繰り返し、繰り返し言いたいんだな、僕は。」

A「で、結局何が言いたいの?」

B「『君たち』の起こした精神的な被害についてだ。」

A「だから、法をしっかり学んでいたらそんなの絶対にありえないって!もし、そんな人がいたとしても、それは主の教えとは違うことだわ。」

B「事実だ!
 Aさん、これをあなたたちはどう受け止める?正当化するか?それとも反省するのか?『君たち』の教えに従って。

 これらに対する『君たち』の反応をみて、『君たち』は危ない、と強く感じている。」

A「仏法僧への三宝への帰依は絶対よ・・・。現生の仏陀に従い、正しい教えに従い、正しい心のあり方を探究する人々の中に入り込み、これを乱そうとするものにどんな理由があっても許されるものではないわ。
でも、主は裁きの神ではなく愛の神・・・いちど過ちを犯した人でも謝れば許してくれる。」

C「なんか、怖い・・・。」

A「正しいことを強く守り抜くためには、そこまでの厳しさも必要なのよ・・・。」

B「ひとつめ、いこうか。

『君たち』の集まり始めたころのある幹部が、自分の良心に忠実に従った結果、『その人』を信じることをやめて、集まりから離れた。
そして、ひとつの本を書いた。
http://www.geocities.jp/nancywatts2008/

それに対して『君たち』はどういう反応を取ったと思う?」

C「自分の良心に忠実に動いた・・・いいことだね。」

B「彼らはね、『完全にサタンの憑依を受けた人間の書いた本で、その名前を出すだけでも気分が悪くなる。完全に事実無根の本である。手にとっても絶対に読むな。』と言ったんだ。」

C「え・・・ひどい。そんなにひどい本だったの?みんな嘘だったの?」

B「でも、裁判でその本にあったことはみんな事実であったと確証されたんだ。」

A「そんなことがあったなんて、知らなかった・・・
でも20年近くも前の話でしょ。今とは全然違うわ。集まりもとても大きくなってきているし。
組織が大きくなれば、それに合わない人が切られるのは当然のこと。自我が強すぎると、主のお仕事の邪魔になる。」

B「『自分たちにとって都合の悪い本は見せない、読ませない』
カルトの条件の一つだ。」

A「嘘よ、嘘!私の周りにいる人たちを見ていてとてもそんな風には思えない!

・・・悪魔は一部は正しいことを言って、信仰を揺らがせようとつけ込んでくるって言ってたわ。
私は、智慧の力であなたの誘惑をはねのけてみせる!」



B「もうふたつめ。・・・こういうことはキリがないんだけれどもね。

ある『君たち』の一部の人が、子どもを癌で亡くした親に対して『自己責任だ』と言い放っている。唯物論の現代医学を否定して、薬や、医者は信用できないと言っている、そういう教えがはっきりあるんだ。
それが、真実であろうとなかろうとどれだけその人を傷つけていることになると思う?」

C「ひど・・・」

B「あとは、精神障害者の方に対する差別だね。

もし、耳元で誰かがささやいている声が聞こえたり、考えがまとまらなかったり、すごく悲観的な考えが止まらなかったりしたらどう見る?」

C「心のバランスが崩れちゃったんだね。そういう病気だよ。」

A「間違いなく100パーセントそれは悪霊の憑依だわ。脳の一部がどうのこうのとか言ってるけれど、医者は何も分かっていない。
悪霊が作用しているのよ。でも、悪霊のせいにばかりしていてはだめで、波長同通の法則。悪霊は、その人の暗い悪想念にひかれてやってくる。
いままでの自分の行いや想いを反省して、間違ったところを改め、仏に罪を詫びるよう祈れば光が差し込んできて回復するわ。
それでも治らなければ、祈願を受けるとかすれば必ず主の光が通って完治するはず。」

B「・・・という風にね、なんでも『悪霊』のせいにしてしまう。
 なにしろ、あたかも散歩にでも行くかのように霊界があるということは常識になっているから。

『そんなデタラメな。わからないことでもない、ひょっとしたら真実はそうかもしれない。
いや、真実を信じなかった生き方をしてきたからこうなったのかもしれない。』という風に苦しんでいる人は考えてしまう。」

A「真実よ!」

B「どうやって証明できるんだ!?」

A「証明できないものしか信じないという考え方は唯物主義だわ。死後行きつくところは自分が死んだかも分からない無間地獄よ。」

B「・・・という風に、『あの世』を出せばなんでもまかり通ってしまう・・・。」

C「どうしたらいいんだろ・・・」

B「被害にあった人がそれを口に出せる場所がない。
なぜなら、『その人が悪かった』で片付けられてしまうから。
いや、そんなレベルじゃない。被害に遭って苦しんでいる人は『自分は悪霊の憑依を受けている』『こんな奪う愛の精神状態じゃ、悪いのは自分だ』と、自分を罰してしまうこともあるんだね。

そして、もし彼らに傷つけられ、批判などしようものなら、彼らから白い目でみられ、挙げ足ばかりとられ、粗さがしばかりされる。

そして、単なる被害妄想だ。自分の仏性を信じなさい、といったことでたしなめられる。

誰も、勇気を持って『あんな考えは間違っている!』とは言えない。
『真理を穢す人なんだから、苦しむのも仕方ないか。』と思ってしまうんだ。

そして、『信仰の深い』と言われて褒められている人ほど、苦しんでいる人をさらに追い詰めるような言葉を平気で口にできる。

そして、組織にとって都合の悪いことはさっきの本のようにどんどん隠していく。

『人』が大切じゃないんだ。自分たちの信じるものの権威のほうが大切なんだ。」


C「それって、いじめと同じ構造じゃない?」

A「待って、私たちは今いじめ撲滅キャンペーンをやっている。
いじめは悪だ、絶対に許さないという気概で戦っているわ。」

B「そのいじめ対策マニュアルを、『君たち』に対して講じたらどうなるだろうね。


『はだかの王様』というお話を思い出すね。
あれはあれで単なる笑い話だからいいけれども。

実験だ。足し算はもう習ったよね。」

C「うん。」

B「7+9は?」

C「え~と、16かな?違うかな。」

B「周りを見てごらん。他の子は一人残らず、15って答えているよ。」

C「あ、じゃあ、違うのかな?
・・・自分ひとりだけ間違っちゃった・・・恥ずかしい。
直さなくちゃ。」

B「いや、正解は16であってるんだけれどもね」

C「なんだ~」


B「計算問題なら、まだいいかもしれない。
周りの人が、みんなみんな、ある人をあがめて『素晴らしい素晴らしい』って言っていたら?
自分だけひとり、それをやらないことはできるかな?」

C「仲間外れになりそう・・・。形だけでもやっちゃうかな。」

B「さらに、それをやらなかったら、みんなから白い目で見られることが分かっている、としたら?」

C「特にやりたくない理由もないし、我慢してそうしちゃうかな。」

B「うん、普通はそうだよ。
 でも、どんどんどんどんそのレベルが上がっていく。
 そして、違和感もなく、自分というものは変わっていってしまうんだ。
 そして、思う、『今までの自分は間違っていた』と。」



C「・・・・なんだか、怖くなってきたよ。

これから、なんでもかんでも疑いの目で見なければならないの?」



B「僕は、目に見えないけれど、信じられるもの・・・いっぱいあるよ、そう言いたい。

手をつないだときの暖かさ、平和な心、子どもを抱きしめるときのやわらかさ・・・

それは、どこにでもある。
『彼ら』ももちろんたくさん見つけている。

同じだ。だから、つながっている。

でも、頭で考えることの違いで、それは人を生かしもするし、傷つけもする。
ただ、ばうあーはそれだけを心配してるんだ。
だから、絶対に平和のないところにはなびかないし、したがいもしない。

ひとつになんかまとまんなくていい。

誰にも無理して心を従わなせなくていい。

僕は、僕。君は君だ。

どんなにちっぽけでも、人が生きていることのなかには意味がある、
そう信じている。

それはどういう場所でかは分からない。

でも、誰かの考えることによってその都合で決定されたりするものではない、自然に任せたら、きっとうまいところにいく。

また、僕はひとりの人に戻ります。

最後に祈らせてください。

じゃあね、おやすみ。」




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ビクビクしながら、反応をこわがりつつ率直に考えたことを書きました。

自分の伝えたいことが、どれだけ伝わったかは分かりません。
ひょっとしたら偏っていたかもしれないし、「それは違う」という人もいれば、「その通りだ」と頷かれる人もあるかもしれません。煮え切らなくて当たり前だと思っています。

ただ、僕の伝えたかったことは、「偏見で見ず、何が根本的な問題なのか。自分の目で見てしっかり考えて」ということです。主張とか主義とか、その前にまず、「いちばん大切にすべきものは何なんだろう」ということを考えていました。

3人の違う立場の人を出してしゃべらせることで、自分としてもある程度客観的な見方を理解しつつ、物事を捉えることができたのではないかと思います。

ただ、「子ども」の素直な心がなければ、もっともっと嫌になるような言葉が飛び交っていたかもしれません。



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2009.06.10 Wed l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲

コメント

No title
こちらでははじめまして。
今さっとですが全部に目を通したところです。

子供がいる身でよく考えるのは、某教団でいう「与える愛」です。しかし、「与える愛」ひとつを実践するだけで、実際何年かかることか。そういったことを本を読んだだけで判った気になる、その単純さが怖いんですよね。

自縄自縛という言葉が彼らにはふさわしいと思います。外は怖いからシェルターに入っている、けど外は気が抜けるくらいみんな普通に生活していて…。

私の大好きな漫画の言葉にこんなのがありました。「皆正しい、けど・・・僕も正しいんだ」それを思うと、どんな人でもおろそかにできなくなりました。
2009.06.10 Wed l こば. URL l 編集

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