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内村鑑三の『私はいかにしてキリスト教徒となったか』を読んでいるが、
内村も西欧にあまりにもキリスト教の派閥が乱立していてどれにコミットすればわからずにノイローゼになった旨が記されていてホッとした。
というのも、ここ最近、信仰の危機に陥っており、誰にもそのことを話せない。というか、十年以上も私を悩ましてきた問題である。

私は現在、キリストを信じている、というと正確ではなく、キリストのヤバい愛に一方的に捉えられつつも、それを悟りし得ず、繰り返し放蕩を繰り返している者である。
中高生時代はK会というところで夢中になっていたわけですが、スケールの大きく明瞭に描かれた宇宙観や教えにすっかり惚れ込むものの、宇宙神の教祖に逆らったらどうも「俺、どうあがいても地獄に落ちんじゃねー」ってことで、喧嘩別れ。何が正しいのかわからずに何年考えてもわからない。
反動で哲学科に在籍していた大学時代はひたすら何をしても虚しい。
坐禅を組んだり、教会のミサに出るもののひたすら虚しい。
周りがキャーキャー盛り上がって幸せそうにしている中で、ひとり冷めてる自分。
カルトと洗脳と信仰ってどう違うの、とか思う。
特に、何たら教とかうちの組織は特別で、他のところは劣っているとかいうのはヘドが出るほど嫌い。
あれが正しくて、これが間違っていて、なんていうひたすら答えの出ない不毛な論争に明け暮れている間に何もかもが信じられなくなる。
今読んだらものすごくよくわかるのだが、哲学やキリスト教の文脈が全くわからず講義は全て素通り。

そんな中、神道と神社の本を読んで日本が大好きに。
ドイツに行って街の中心に教会があってそれが西欧の精神的支柱だと感じた。
だとすると日本のは山の中にある鳥居だよ、と感じ大切にしようと思った。
神道は宗教ではない。そして、キリスト教と矛盾するのか否かというのが自分にとっての大問題。
「悪魔の神殿」という人もいれば、「付かず離れず」という人も。
神道のルーツがユダヤの幕屋にある、聖書の神と古事記の神は一致するという文献を読んで、すごく嬉しかった。
やはり神社は大好きで、毎日必ず参拝しているし、そこには聖霊が生きて働いていることをますます感じる。

宗教の教義や神学云々の前に実際に、心の救いになったメソッドが、
原始仏教やヨーガ。かなり科学的、心理学的、実践的。
じっと心の動きとか脳と世界の関係を観察してみると、
「潜在意識」と言われる領域が確かにあるなと気がつく。
要するに、諸宗教で言われている「霊」「魂」「神」ってそういうことかと分かる。

アウグスティヌスとか空海とかプロティノスとかシュタイナーとか何でも読んで、
「全ての宗教は詰まる所、共通の唯一の根源を持っていて、表現が違うだけ。」というような確信に達する。
般若心経も覚えて坊さん以上に詳しくなった。
ところが、そんな思想とは裏腹に、私本人の人格はどうしようもないしどうにもましにもならない。世の中もどうしようもない。
というような視点から、キリスト教に触れると「ああ、こんな愚かでどうしようもできない私を救ってくれるのか!」という喜びに出会う。

神というのはどうも生きているナマモノらしいのだが、これといった体験もない。ただ、思っていたことが磁石のように引き寄せられたり、不思議と道が開けることがあるので、心と現実の関係って何か法則があるのかということを研究。
引き寄せの法則とか思考の現実化は、ヘレニズム時代のストア派の哲学と一致する。すなわち、宇宙の理法と魂を一致させるのである。ある意味では、理性的で静寂な部分がある。
一方で、ヘブライズム、すなわち聖書の神は、宇宙の創造神でありながら人格をもち、具体的に人間に呼びかけ、運命を導いていく。クールではなくてどこまでもホットでウォーム。
密教で言うところの大日如来も、浄土教の阿弥陀如来も、「宇宙に遍満する愛のエネルギー」でありながら、人格を持ち、人間と本質を一にする存在である。
難しい言い方をしてしまったが、生きている俺専用の神様が個人的に俺に触れて愛しているということを感じると号泣するようなことが多くなった。ハートフルになった。ありえない。

そして、私は日本人である。
神社と寺が大好きでそういう土壌に育った日本人である。
愛の究極にキリストがある。
そして、どうもやはりキリストを信じるということは、日本の土壌にある異教を切り捨てたり、劣ったものとして無関心に置く、よくわからんけど、みたいな空気がやはりあるのではないか。
それが私には耐えきれるものではなかった。

もちろん安易な折衷主義でも妥協主義でもないし、「シンクレティズム」(混合宗教)でもない。
そしてこれはよく誤解されやすい。
内村鑑三は迷信じみた神社の神々を棄てて、一神教に転向した時の清々しさを語っているが、私はそうじゃない。

無教会の流れに、T師というものすごい人がいたことを、四国遍路道中で知り感激し、飛び込んでいくわけであるが、
現在では教会の流れとは断絶し、交流もなく、完全に独立した良くも悪くも特別な存在で、ある種のユダヤ人的なものを想う。事実、イスラエルとのつながりは最も強い。儀式的形式的な教会を批判し、生きたキリストとの出会いを最も重要視する。
神秘学的に言えば、T師は旧約の預言者の一人の魂がが日本に再来したのだろう。内村鑑三の魂がエレミヤの再来であったように。
イスラエルの預言者たちは後の世にやってくるキリストを伝え、示す役割を果たした。
その群れにいる人々は、過去世では預言者の元に集うユダヤ人であったことは想像に難くない。英語も他の言語もできなかった人々がヘブライ語だけはスラスラ習得してしまったというのであるから。
旧約聖書の神という名詞には、エローヒムとヤーウェという二つの呼び名があるが、エローヒムが神の一般名詞に対して、ヤーウェは神の個人の名であり、どうも性格に描かれ方が違う。
砂漠の神は、モーゼやエリヤに成したように、ありありとした霊的な現象を起こす。もう一つ、激しい愛だけではなく、激しい怒りと嫉妬を人間に対して下す。

カトリック教会では、60年代に、閉鎖的で原理主義的であった教会を開き、対話と普遍を目指してきた。教会を毛嫌いする人は少なくないけれど、多分、そういう戒律で厳しかった頃の話。今は違う。
晴佐久昌英神父という普遍主義と福音の宣言を引っ提げたスーパースターみたいな人が現れて、高齢化の進む教会に唯一若者が増えている。
ちなみに、晴佐久神父は1957年生まれ。1957年生まれの精神的指導者を調べてみたら、K会の0川R氏とか、夜回り先生の水谷修氏なんかも近い。
占星術でいうと、1957年というのは、魚座が水瓶座に移行する時期だそうで、仏陀入滅から2,500年にあたるようである。
どうも、「魂の夜明け」が始まり、最大限に枝分かれした宗教や思想が、もう一度一つの根源に戻り、地球村が完成するのが何百年か後と言われている。

晴佐久神父が今度大阪に来るというので、これは新しい時代の流れが始まると、どうしてもと勇気を出して無教会の方を誘ったら「失礼だ」と言われ凹んだが、きっと根っこは派閥的なものだけではなく、三千年に渡る霊的な確執がそうさせたのではないか。
ユダヤ人の描くキリストの生命と、世界宣教の側からのキリストの福音はどうしても違ってくる。
だが、同じキリストの霊的肢体が無数の教派によってバラバラに引き裂かれていることは、私にとって耐え難い痛みでしかないし、そのうちのどれか一つを選ばなければいけないと言われても対話と一致以外に考えられないのだが、それが受け入れられないことは絶望的に苦しい。
集団として考え方や価値観が同じ方向性を向いている中で、私はどこまでも異質な他者であり続けているし、それまでの考え方を棄ててそれ一つに賭けるというのは不可能なことにしか思われない。悩みを分かち合える人間がいない。
いたと思ったら、身近ではなく、古典の人々。
彼らの魂と思考が今の所私の理解者であり、友である。
克服したと思っていた、ありとあらゆる矛盾が頭と心を悩ましている。

実際、私の信仰がどこにあるのかということは分からない。
きっと誰ともどこかで微妙に異なるのだろうし、
そして、どうも信仰というのは、理性や意志で選ぶものではない。
ヘルマンヘッセは『デミアン』の中で、
「世界という殻を破り、アプラサクスという名の自らの神と出逢うための戦い」を描いている。
いわば、今私は、新しく生まれ出るための戦いの最中にいる。




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2016.11.16 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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