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ものすごいはなむけの言葉です 笑
http://matome.naver.jp/odai/2136488343963748601
「ご卒業おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安を抱きつつも、大きな希望に胸膨らませていることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。(中略)みずからの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。何年かの後に、逞しく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいことはありません。今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。」

光と闇の融合、ポジティブとネガティブの調和がこの時代に必要とされてるということをますます思います。
中島義道さんの著作のほとんどが、人間の醜いところを徹底的に暴きだしているわけです。
こんなこと考えていたら、フツーの生活が送れなくなると思いながら、捨ててはまた買い、
隠れキリシタンみたいに次々読んでしまうわけです。
読んでて青ざめるのですが、反社会的な具合が気持ちいいというか。
なんでなんだろうということを考えました。

逆説的ですが、
「ますます信仰が増す」ということです。
親鸞の悪人正機にも似たものかもしれません。
自分が悪で偽善者で卑屈で傲慢で自己中なら、そのままでかまわない。
悪なら悪のまま救われる。


「そこまで受け止めているか」
「そこまで受容するのか」
っていうこと。

神様を信じていたり、スピリチュアルな人は、
優しく、明るく、笑顔が素敵で、人を安心させるのがうまくて…。
神様の前に謙虚で、清く正しく美しく、
「いえいえ、私なんかまだまだ」という言葉すらも、徳を放っている。
そして、人間の物差し的に神に近い。

それに対して、俗まみれ恨みまみれ煩悩まみれ、立派な人になろうと努力しても不可能、
人を裁きまくり、社会から疎外されていると思い込み、しかもそれにすら気がつかないで自分はマシだとか思って傲慢になっている人はもう恥ずかしくって、救われないような気がする。

ネガティブな部分や暗い部分を遠ざけて押さえつけて必死で見ないようにして…
なので、いざ、どうしようもないって時になると、
無理ポジにも限界が来て、ある日ポキっと折れてしまう。


特に
k教団で顕著だったのが、
悩みに対して、聞かずに「あれよめこれよめ」「それは違う」「お前の考え方は間違っている!」
みたいな対応。
これにはムッとするし、ムッとし返されるし、こっちが正しい、いやこっちが正しい、
みたいな泥沼にハマっていくわけです。

仮に、
もし、K会が、「受容」とか「受け容れる」という態度を身につけていたり、
教育制度があったとしたら、
教義が全く同じだったとしても、えらく共感を読んだんじゃないかなあと思ったりします。




不登校児を子に持つお母さまのおっしゃるには、
「正論」「立派」「聞いてくれない」
ってものすごくきついということ。

教師も大人も親も子どももとにかく、感受性を麻痺させて、正論や立派なことや、しっかり、「すべき」をシャワーのように互いに浴びせかけることが当たり前。
何か意見を言おうとするものなら、「でもね…」「そうは言うけどさぁ」で、遮られる。
監視社会になって、苦しみを言葉にすることすら許されない。

そういう社会だから、中島さんの全てぶっ壊すような言動は、共感を呼ぶのでしょうか。


キーワードは「受容」。
それも、徹底的な受容。
人は、受容されればされるほどそれだけ自由になる気がする。







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2016.10.07 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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