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イスラム教は、イエスの神性を否定し、預言者の一人として崇敬する。
そして、神を唯一であるとして、ひたすら絶対的な帰依をとく。
イスラームとは、絶対服従を意味する。
そしてムハンマドは、最後にして最大の預言者と位置付けられる。


マニ教という宗教が中東の世界宗教として広まっていた。
グノーシス派の流れを組み、キリスト教や仏教やゾロアスター教などを取り入れ、当時としては、科学的合理的な説明や神話を解いた。
マニは再臨のキリスト、メシアという位置付けであったようだ。

若きアウグスティヌスは、カトリック、そして聖書の不合理な説明にうんざりし、十年近くマニ教に没頭する。
しかし、霊魂の救いは得られず、回心して、カトリックの教父として大成するに至る。

今やマニ教はその形すらも止めていない。
古代の異端マニ教と、統一教会の一致を指摘する識者もいる。

アウグスティヌスは、一度ハマったものに対しては反動でか、何十年も徹底的に反駁を試みていたようだ。


言わずもがな、イエス=キリストとは、ナザレのイエスは救世主、メシアであるという信仰告白を意味する。


マルチン・ルーテルは、堕落し制度化したカトリック教会を批判し、
信仰のみ、聖書のみ、万人司祭、を打ち立てる。
ルーテルは、自らの罪に嘆く人であり、
また、パウロもそうであった。


日本においては、
空海が、三教指帰(さんごうしいき)や、十住心論で、
儒教、道教、小乗仏教、大乗仏教に共通の水脈の根元に、大日如来を見出して最高の境地を密教に据える。

親鸞は、阿弥陀仏のみを唯一神のように、宇宙の根本原理とし、
日蓮は、法華経と題目のみに帰依することを命を賭けて解いた。


新しい宗教が勃興してくるときというのは、
やはりどこかに、究極の世界と宇宙を覆う原理が確信として措定されなければ広がっていかない。

また、革命が起こるときもそうだ。

合理的で平和な思想は世の中をひっくり返すには力が弱すぎる。

明治維新の原理の一つに、非合理的な垂加神道の存在があった。


歴史の内の諸宗教を統合して、最高の原理を見出す動きは、今に始まったことではなく、常に焼き直しが行われている。

金星文明、レムリア、ムー、アトランティスといった壮大な文明の神話を語り、
エル・カンターレという地球の至高神を提示するということも、一つの時代の要請なのかもしれない。

歴史の中で残るもの、朽ち果てていくものの違いは何か。

教団の規模だけ大きいものや、空想じみた巨大なスケールの神話は崩れ去っていく。
また、知性のない大衆のウケを狙ったものも同様だ。

古典を読み込んでいくうちに、人類の深層に流れている霊的水脈というものと対話することができる。
数千年のときを超えてその対話ができるか否かが、真の宗教かそうでないかの分かれ目であろう。



現代では、
科学の発達により、
神の正体は遺伝子であるとか、
力への意志であるとか様々なことが言われ、宗教のカラクリが暴かれたように思われている。

しかし、霊魂、自我の根本的な問題に関しては、いくら物質的な構造が明かされても依然として謎に包まれた領域は永遠に残り続けるだろう。








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2016.06.22 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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