上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
急に叔父から電話
「祖母の容体がやばいから、島根に今すぐ帰って来い。来なきゃ、お前もう人間じゃないからな。」
てなことで、「死に目に間に合いますように」と祈りつつ、交通手段がないので、動揺しながら、喪服に着替え、電車に揺られる。

親に電話すると、
「え?容態良くなったから、帰って来たよ。」とのこと。
叔父がつきっきりで酔っ払って、「狼少年」やったそう。
一応、明日島根の実家に戻りお見舞いに行ってきますが、
危篤でなくほっとしました。


さて、私は個人的に「人は死んでも死なない」派です。
どっちかというと、「永遠の生命」が本体で、いま生きてるつもりの人生って、その先っちょみたいなもんです。
なので、死は別に悪でも悲惨でもない。魂が身体から解放されて軽く自由になる。
こういうことは、特定の宗教のドグマを超えて、ちゃんと科学的、学問的に研究が進んでいます。

祈りや波動を送る、という非科学的な目に見えない行為が、実際の医療の効果をあげることが証明されています。

死んだら、光のトンネルを通るだとか、天国に行く前に、
自分の他人にしてきたことを全部経験させられて反省が終わったら魂は清められて上の世界に行くとか、
すべての生命体は猫でつながっているとか、
古今東西同じことを違う表現で申しております。

猫じゃなくて根っ子でした失礼。

ローマの哲人キケロは、老人の死は成熟の結果としての良きことであり、仮の宿から、本当の家に帰るようなものと言う。
ソクラテスは、「死とは人生で最も良いものだ」と言い放ち、進んで死刑になっていき、死ぬ前にもお弟子さんたちと死後の世界や魂の世界について理性的に語り合っています。
キリストは、自分が死ぬ前、死を恐れ不安がる弟子たちに、遺言として、「安心しなさい。私の姿は見えなくなるけれども、必ずまたやってくるから」と励まし、実際にまたやってきた上、聖霊の助けを送りました。
聖人って、そういうところ、世間の空気一切読まず変人扱いされますが、そっちが真理だから、何千年も残ってるんだよね。

なので、死は、生の反対じゃなくて、本当の生への移行だから、安心していいのです、ということですね。

市井の人びとは、そんな偉い方なんか恐れ多いから、やっぱり、ご先祖様とか、旧友とかのお迎えがいいね。

中間生に入る前に、肉体持ってる時にガイドとかあったほうがいい。

お坊さんとかは、お経の読み方じゃなくて、こういうことをもっと学ぶべきだよね。
分かりやすい現代語訳とかお経につけとくといいんじゃないかな。
スポンサーサイト
2016.05.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

コメント

コメントの投稿












       

トラックバック

トラックバックURL
→http://relisophia.blog43.fc2.com/tb.php/255-f855b005
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。