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いいこと言うこと、それ自体は、結構簡単です。

で、いいこと言っている方も、言っている自分に酔います。

なんか、悟った気になります。

でも、そのいいこと?主張?、否定された瞬間、
「なんで、俺のありがたい話が受け入れられないんだー」
って、なって、不快になって、イライラして、
悲しんだり、怒ったり、
相手の粗を探し始めます。

「こっちは悪くない!
向こうに問題がある!」

「向こうは不完全、
こっちの方が上」
とか思っちゃう。



仏像ですが、
あれね、
見てると、耳たぶでかいんです。
で、目つぶってニコニコしてると。

あれ、仏様って、聴いてるんですよー。
衆生の愚痴でも感謝でもなんでも全て裁かずに。

「そうなんだー、それは辛かったねえ。それは良かったねえー。」と。




若い時、
わたしゃ、k会にきれた。
嫌になった。

全部正論ばっかなんだけど、なんか、イライラするわけですよ。


これは、知識とか偉大さとかよりも、技術とか姿勢の問題かも。


「相手の面子を立てる技術」


宗教でもなんでも、
別の考え持った人と対話する時、
自分の宗教の凄さばっかりアピールしない。

謙虚に、お互い学んで、ちょっと褒める、
という姿勢があると、いいですよね。

もちろん、謙譲と言っても、自分のところ貶めるのではなく、
自分の信仰には誇りを持って妥協せず。


人の話をじっくり聞いて、相手の話を裁かずに受け止めたり、共感する技術って、大切ですよ。
「うちの信仰は素晴らしいから、お前もこうするべきだ」っていうのはやっぱやだから、
極力、「相手はこうすべき、ここが間違ってる」みたいなのをぐっとこらえて、忍耐強く、
動機の部分に触れる努力をする。

教えを押し付けられた側は、
「あ、この人、自分のことには興味なくて、結局、入会目的とかそんなんなんだな」って悲しくなります。


多分、宗教は、内容以前に、
「いかに相手の立場に立てるか。」ということにつきます。


その、批判をしたり論争をふっかけてきている人は、
本当は、その議題についてじゃなくて、
別の動機がある。

その本当の動機について、
どちらも、そして、誰も意識化できていないまま、
糸が絡まっているというケースが、
宗教に限らず、人が二人以上いるところどこでも生じます。



宗教のアンチになる人で、良識を持った人は、一概には言えないかもしれませんが、
傷ついた心や大切にされなかった、
軽く見られて、憤慨したということがあるのかも。

そして、宗教を擁護したり盲信する側も、
どこかに、恐れがあって、いたずらに、幸福アピールをしたり、自分の正当性をアピールする。しちゃう。

お互いに、「自由」ではないよね。


上と下の関係、
利害関係、
どんなに立派に見えても本当の友情ではないです。

お互いに尊敬しあい、対等の関係で話が出来たら、
それって、本物なんですよ。


私が、宗教に求める要素の一つって、
哲学でも、時代を開く霊性でも、スケールの巨大な法とか、
それ以前に、
「ありのままの自分でいいんだ」と安心していられる、暖かい場所ということかなあ。


本当に、議論するんじゃなくて、相手の心の本当に欲していることはなにかって、想像することは大切で、
いくらしてもしたりないですね。




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2016.05.10 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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