上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲

性において、霊の内奥と肉体の深奥が交わり合う。

性の喜びというのは、あの世での愛の喜びの先取り。

肉体の快楽を得るということは、同時に、強烈な自我、エゴに気がつくことで、
霊的な清らかさを求めている魂にとってはそれは、強烈な矛盾と煩悶と罪悪でもある。

愛すること恋をすることは、
自分自身の魂と肉体と、向き合う他の性との魂と肉体を共に満たすことである。

魂のない性は、
相手を自らの欲望の対象としかみていないことであり、相手に人格を認めないこと。

肉欲のない性は、一体何か。
それはもはや、人格への尊敬。


いや、
修行僧が、女性を見て煩悩を募らせそうになる。
修行僧は、その煩悩に気がつきながら消すために、骸骨とか死体を想像して修行に励むという。

私には正直、それがよくわからない 笑

なぜ、異性を見て心惹かれるのがいけないのか、
それって、地獄だよね、と 笑


すげー美しいんだ。
男でも女でも、モテようと思って、着飾ったり、オシャレしたり、笑顔作ったり、ダイエットしたり、トレーニングしたりして、自分を高めることは。

それって魂にそういう性質があるからだよね。

恋をして、人と人との心がつながる時は、魂の喜びだったりする。









スポンサーサイト

2016.05.08 Sun l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲

コメント

性は人間の幸福と不幸の根底に横たわる問題だと思います。
好きな人に出会い、その恋が成就し、肉体的にも精神的にも満たされ、愛とは何かを体験的に知り味わい、やがて結婚に至り、子供が生まれ家庭を営み、家族が愛し愛される中で、天国的な幸福感にあふれる人生を送れたなら、その人は天国へ行くでしょう。

それだけで、満ち足りていて何もいらないかもしれない。
その状態が、足ることを知るという状態かもしれない。

釈迦から始まる仏教も、イエスから始まるキリスト教も極端だったたのではないでしょうか。
それこそ、中庸や中道とは言えなかった。
どちらも、異性は遠ざける存在になってしまった。
イエスが乙女マリアから、釈迦がマヤ夫人の腋の下から生まれたとしたところに、禁欲主義の流れが出てきた。
親鸞以降、お坊さんは妻帯するようになったと言いますが、神父シスターさんなどは、今も独身を通しますよね。

この禁欲主義の修正は、21世紀霊文明の鍵で=天上界の計画=と言ってよいのではないでしょうか。
2016.05.24 Tue l れもんの海. URL l 編集
Re: タイトルなし

そうだろうと思います。
神のつけてくださったものを正しく使うことが大切ですよね。


> 性は人間の幸福と不幸の根底に横たわる問題だと思います。
> 好きな人に出会い、その恋が成就し、肉体的にも精神的にも満たされ、愛とは何かを体験的に知り味わい、やがて結婚に至り、子供が生まれ家庭を営み、家族が愛し愛される中で、天国的な幸福感にあふれる人生を送れたなら、その人は天国へ行くでしょう。
>
> それだけで、満ち足りていて何もいらないかもしれない。
> その状態が、足ることを知るという状態かもしれない。
>
> 釈迦から始まる仏教も、イエスから始まるキリスト教も極端だったたのではないでしょうか。
> それこそ、中庸や中道とは言えなかった。
> どちらも、異性は遠ざける存在になってしまった。
> イエスが乙女マリアから、釈迦がマヤ夫人の腋の下から生まれたとしたところに、禁欲主義の流れが出てきた。
> 親鸞以降、お坊さんは妻帯するようになったと言いますが、神父シスターさんなどは、今も独身を通しますよね。
>
> この禁欲主義の修正は、21世紀霊文明の鍵で=天上界の計画=と言ってよいのではないでしょうか。
2016.06.22 Wed l confessius. URL l 編集

コメントの投稿












       

トラックバック

トラックバックURL
→http://relisophia.blog43.fc2.com/tb.php/244-7294a13b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。