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上祐史浩氏と対談したり、
大川隆法氏の講演会参加の予定。

昔は、ある種のジャーナリズム根性のようなものを持っていて、
手柄を立てたい、みたいなことがあったのですが。

大川きょう子氏とも、
種村修氏ともお話したこともありますが。

信者や興味のある人は「会えた見れた」で大興奮で人に話したくて仕方がないのでしょうが、
いつの間にか、そういうのがなくなってきたわけです。
もちろん対等な関係と思えるほど身の程知らずでもない。

自分のフォーカスが他人、ではなくて、もっと大きいところに向かってんだと思います。



みんなが、野次馬根性で「どんな話でしたか」って興味を持ってくる人
それに応えることや注目を浴びることで、ある種の陳腐な自己満足を満たしていたところがあるのだが、
注目されなくなると、孤独でたまらない、という惨めさ。

多かれ少なかれ、メディアってそんなものでしょうね。


ジャーナリズムも、宗教も、立派なところがある。
立派といっても社会的に。

要するに、いかに人目を惹くかってところに注心している。

自分の正当性をアピールし出してもつれ合いになり始めると、
なんだか、「自分自身の人生生きてねえな」って感じになる。

権力争いをしだすと、まあ、窮屈、息がしづらい。

トンデモでもいいから自己満足を追求して、孤独な姿ってのが、
人間一番輝いてるんじゃないか。



なんだかんだで、私は宗教が好きなんだなあと思う。
立派でもないのですが。

もう、宗教のことを考えるだけでドキドキしてにやけがとまらなくなってくる。
それが立派とか清らかとかネタとかそういうものさしではなくて、
学者が新しい発見をしてそれを分かち合うようなものに似ている。

ひたすらハイテンションで夜通し語りまくりたいわけ。

求道者とか道を求めている真面目な人とか言われるけれど、
ただ好きなのと、
確実に、劣等感とか心の傷だとかを自覚してるから、癒しが必要なんだろうねえ。

近頃は、宗教の疚しさも純粋さも含めて、一つ大きな流れのうちにあるんだろうなあって思う。
流れを見ているのが好きだ。
自分自身も流れを作りながら。




そのまま行けばいいのに、立派さとか、駆け引きとかの信仰になってしまうと、
不純。

純粋な気持ちをアピールし始めて、
私は正しくて立派ですみたいなことを、完璧な論理で主張し始めると、
それって嘘なんだよね。


御託を並べましたが、
まあ、純粋に楽しみです。

批評することも、いいなと思うことも、悩むことも、突き抜けてみることも。



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2016.05.03 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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