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信仰とは、教義とか考え方とか霊界の認識、神学を信じることだと思っていますと、まず救われない。
魂は永遠に安息を迎えることはない。
それどころか、他者の言うことに振り回され、自分自身を見失います。
自分は正しい、相手は間違っているってなると、神からの恵みは相当限定されてしまう。

自分自身の矛盾や罪に目を向けることができると、ちょっとチャンス。

神様とは、まあ、言って見れば、「親」ね。
本当の親。
あらゆる生命を愛によって生み出し、細胞一つ一つを気にかけてくださる、命の源。

この世界とは神の胎内。
もしくは、この宇宙は神の衣服。

人間の脳、理性は、この神の表象を探求するように作られている。
も一つ、
人間の脳はちゃんと生まれた場所にもどってくるように、信仰とか宗教の本能がインプットされている。

外なる真理の探求だけではなくて、内なる世界も追求するように、脳というのは作られている。
脳の奥深くには脳が消滅しても生き続ける魂とつながっている。

そして、魂は、無限の愛と光の海の中に生きている。
肉体を持つと、魂は言って見れば、辛うじて動く墓みたいなものに閉じ込められて、分離というゲームに参画する。


科学者や神学者が、この世界の中で発見できるあらゆる真理も、これ、衣装とか胎内のお話。

信仰というのは、
言って見れば、赤ん坊や胎児が、神という命の源である母親とへその緒でつながったり、もしくは、おっぱいを吸ったり、抱きしめられて安心を感じることに例えられるかもしれない。


神というのは愛。

「神は死んだ」
「神は妄想」
「神なんていない」

そういう叫びは、どうも、
「愛なんて存在しない。
誰か、僕を愛してくれ。
ほんとうの愛に僕を戻してくれ」
という悲痛な鳴き声にも聞こえる。


ちゃんと諦めずに求めていたら、必ず応えてくれる。


神学や霊界の認識をよく知っている子は、「お兄ちゃん」。
えばっちゃいけません。

本当に愛が必要なのは、ヨチヨチ歩きで泣いている弟、妹、
この世のことを知りすぎて得意げになっている子供たち。

信仰は、比較するものでも競うものでもない。

まっすぐに神様を慕う。
抱きしめられる。
抱きしめ返す。
愛されていることに気がつく。

で、その瞬間はいいけれど、また離れて愚かになる。

反抗もするし、神様を傷つける、
疑う、呪う。

それでも構わない。

やっぱり戻ってくる。
性懲りも無く、出て行く。

信仰のないやつだと恥ずかしくなる。

それでもオッケーだと分かり、恥ずかしながらも、父の食卓でパーティの食事を貪り食う。

神の前で清く正しくいい子だからって実は偉いことはない。みたい。
やんちゃ息子が帰ってきた方がどうも喜びが大きい。

それでいいじゃん。






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2016.04.23 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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