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自分自身を無にするという。

しかし、自分の意思で自分を無にすることや修行や修練によって自己を無にすることは、
罠に絡め取られた動物が足掻くようなもので、
自己もまた肉体や自我に縛り付けられておりそこから逃れるすべはない。

違う

否、である。


もともと、自我も肉体も無である。

無から生まれた塵でしかない。

無とは気づきである。


私は無であるとことに気がつくとき、
私は私を手放す。


しかし、現象において私は依然として私を保ったままであるが、
そのまま、
私が無であることにおいて、
神の存在が私を満たす。

一切は神の所有である。

存在するものは皆、無である。

存在しないものは無であるのだが、存在の背後にある限りにおいて、神の有である。


神は存在も、存在しないことも越え出ている。

無から有は常に生み出されている。

世界は常に創造されている。



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2016.03.10 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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