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http://www.all-nationz.com/archives/1034806317.html
聖書を読んで無神論者になる人は多い笑
マルクスとかニーチェでなく笑
私も昔、聖書読んで、息がつまるし、つまらないし文字は小さいし、ユダヤ人がどうとか知るかキョーミねーよって思ってました笑
聖書のやばい箇所全部調べて、「これやばい、あれやばい。テロ組織よりやばいんじゃね?」って笑
聖書は、道徳の本ではございません。
「神を信じろー!」という本かというと、それもうーん。

確かに、めちゃくちゃ高い道徳的な教えもあるけれど、
どちらかというと、「神の子でもあるにもかかわらず、道徳的になれない人間の弱さとかおぞましさ」を描写している。
で、人間って、信仰を持っているようでいて、持ってないってこと。
キリストの一番弟子だって、キリストが死刑判決受けたら、つい彼を呪ってしまったもん。
裸で逃げ出した奴もいた。
哲学者中島義道氏のあまりにも絶望的な人間のエゴイズムというか、運命というか、そういう一連の著作を読んで、
いや、読みたかないけれど、読まずにはいられなかったというか、
つい、買って痛快で繰り返し読んでしまうわけです。
西洋人もあんまり知らないで、聖書は素晴らしいことだけが書かれた神様からのラブレターだと思っている。
そうでなければ、「原罪」ばっかりが強調されて、
人間=悪だから、キリストを信じない限り救いはない、
地獄に行くみたいな迷信があったりする。
まあ、実際、聖書は神様からのラブレターです。
人格を持った、宇宙のプログラマー、サムシンググレートからの、
「全員、安心しなさい」っていうメッセージである。
信じるものは救われる、
信じないものも救われる、
善人は救われる、
悪人も一人残らず救われる、
大丈夫だよ、
というラブレターである。
全員にもれなく言ってるんだから、
「道徳のかけらもない悪人はお前は知らん!」とは言わない。
人間社会の理不尽で不条理な現実の底の底までも、すべて知ってるわけです。
でも、全員救われると言った。
中島義道さんだけでなく、
パウロも正義になれない自分に悩んだ、
親鸞も欲望まみれの自分に悩んだ。
道徳的な人間、愛にあふれる尊敬される人になろうとしても、
これはもうどうしようもないと失望した。
というか、テロや無差別殺人を犯してもおかしくない、
犯さないのはたまたまだという異常者の確信があったんじゃないかな。
善人どもの鈍感さにも怒りを覚えた。
どこにも救いはないと絶望した。
観念とか、
綺麗事じゃなくて、自殺するほど追い込まれていたかもしれない。
でも、そういう相対的な世界を超えて、絶対的な愛の次元からしたら、
それに触れるとすべてが変わってしまう。
エデンの園とか、神を求めるのって、
「母体回帰願望」みたいのがあるのだと思う。
神社でも、
参道=産道
お宮=子宮。
お参りって、要するに、生まれる前に戻って、また再生することです。
胎児の頃は、完全に安全で暖かな環境の中で何もしなくても幸せでずっと寝ていられた。
完全に無条件な愛の中でただ寝ていればよかった。
でも、10ヶ月たつと、胎内から出なきゃいけない、
で、100年近くの人生という過酷なレースに参加させられる。
ママと一体だった赤ちゃんは、強制的に、個人として引き離され、
「自分自身」にならなきゃいけない。
しかも、生きていくためには、純粋で清らかではあり得ない。
そして、二度とあの安心していた胎内や幼少期に戻ることは決してなく、
百パーセントしななければいけない。
その間、誰にも甘えることができない。
実存主義の実存というのは、英語でexistence
だけど、
人間の個人の存在って、宇宙から離れて(ex)存在している。
小学生低学年頃、多くの人が原体験として持っている、
「僕って死んだらどうなるんだろう。でも、絶対死ぬんだよな。
こういうこと、他の人は考えてないだろうな。誰にも話せない。
怖い虚しい。」
という頭が真っ白になるような、考えても分からない恐怖。
多分、あるはず。
それが、自我というものが自立し始めて、「神」から離れている自分に気がついた時。
それまでみんなと一緒にしていたけれど、ふと一人になって立ち止まって考えて、
自分自身がなんなのか分からなくなって、不安になるけれど、
そのまま日常生活を送っていく。
学校の授業中とか、みんなで遊んでいるとき、ふとした瞬間、
わけのわからない空しさや寂しさが襲ってきて、
どこかに帰りたくなる。
でも、それが、家よりももっと近いところなのだが、どこかは分からない。
成長するに従って、少年のときのそういう気持ちを忘れてしまう。
でも、ふと生きていて虚しいししんどいのだが、どうしたら満たされるのか分からない。
他のどの世の中や世界のものも自分の心を満たしてくれない。
でも、見えないようでも、
人間の心の奥底は、「神」、愛のエネルギーと繋がっているわけで。
人間
世界に孤独に放り出されたというよりも、
なんか、「この世界で魂の学びをしてきなさい」とか
「この世界をよくしていきなさい」
って、送り出されたような気がするんだよね。
あと、学校での道徳教育は必要。
道徳的でなくても無条件に救われるってのはあるけれど、
道徳的な努力がないと、その上で無理だーってなる過程がどうも必要な気がする。
「どうせ救われるから何をしても構わない」というのは甚だしい誤解。
現代人って、何が道徳の基準なんだろう…。
ほとんど、経済社会とか会社ではぶられないために形だけ守ってるみたいなので、
道徳心のかけらもない。
道徳的だと、偽善とか点数取りとか揶揄される。
なんだかんだで、
現代人の道徳は、漫画やドラマだ。
ちなみに、中学時代の僕の道徳の基準は、
車田正美先生の
「聖闘士星矢」とか「リングにかけろ」とかの漫画笑
ああいう男の生き様に、
いじめられっ子で殴り返せなかった僕は勇気を持てたわけです。
あと、「空手バカ一代」。
「空手に先手あり、されど私闘なし」
「力なき正義は無能なり、正義なき力は暴力なり」
「肉体を守るために戦うな、魂を守るためにこそ戦え」
手帳にメモってました。
学校の先生は、道徳の授業、実感のないテキスト読むんじゃなくて、
もっと生々しい体験を通じて考えさせるべきだよ。
ジャンプの漫画、
ワンピースとか、聖闘士星矢とか、暗殺教室、
いい話や友情や信じる心があるのは道徳。
太宰治の人間失格とか、
浅野いにおの「おやすみプンプン」なんか
陰鬱で破滅的なのは、文学。
宗教というものが描かれている漫画は、
手塚治虫の
「ブッダ」「火の鳥」とか。
「火の鳥」の宇宙論は、人間の生命が軽視されてて、とてつもなく宇宙生命が虚無で巨大な空間のように描かれていて半分ニヒリズムで、共感はできないけれど。
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2016.02.21 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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