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信仰を持つもの同士、信仰を深め合うことは簡単であり、またとても楽しい。
教会とか集まりはそのために存在する。


できれば、
学校や、会社でこそ、神の言は伝えられるべきだ。

これは困難なことだが、
実は最も必要なことだ。

そこが暗闇であればあるほど。


「聖書を読め!」ではなくて、
神の言とは何かそれぞれの魂はそこにとどまり生きることだろうと思う。

言葉すらいらない何かだ。
神の言とは。



自分の言葉をまっすぐ語る時、
また、あなたの言葉をまっすぐ聞きたい人がいるとき、
心と心を神が通じ合う。



心は、神の言を自分自身の中に思い出して涙する。



難しいのが、聖書は読めるが字義の解釈ばかりで心が素直でなくなりつつある時。


聖書のうまい解釈、よりも、
人生とか生活で行き詰まった時とかに一転させるような、
その人のための言を

生き返らせるその一言を。

悩んでいる人を明るくする一言を。



律法学者にはその愛の一言が言えないのだ。
ああ、私のこと!主よ憐れみたまえ。



誰かを救う言を私の口からしゃべらせてください。


私の心に、愛とか優しさをください。


勇気付けさせてください。

希望を与えさせてください。



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2016.02.12 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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