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「キリスト教を信じる」というと、私にとっては違和感を感じる。

他の宗教に対抗する、別の宗教や考え方や派閥に属すること、
という風なものでは決してない。

多くの、宗教的な人たちが、
宗教に属することによって、救いを求めたり得たりするような錯覚に陥っているのではないか。

群れることによって、何かしらの慰めや寂しさの紛らわしを感じさせてくれる。

いくら研修を受けても、
いくら祈願や祈りを重ねても、状況は一向に変わらない。

こういう文脈でいうなら、はっきり申し上げて、
「宗教の内に救いなし」
である。



自分自身の闇と向き合うプロセス。
苦しむプロセス。
そして、勇気を出して、一番向き合いたくなかった恐れと闘って、
もちろん、こちらも傷つくが、全てを吐き出して叫ぶプロセスが大切なのだ。

抑え込めていた本当の気持ちをぶちまけることで、
表面的でしかなかった友人は離れていくかもしれない。
あなたは孤独になるかもしれない。
後ろ指を刺されるかもしれない。
悪魔や地獄扱いされるかもしれない。

あなたは恐れて恐れて恐れ抜くだろう。

それでもいい。

自分の受けた苦しみを正確に、演技でもいいから怒りをあらわにすることで伝えること。

そして、本当に自分の望んでいるものを今一度確認すること。

あなたにとっての幸福とは何か。
あなたは何が得られたらいいのか。

自分が愛されて必要とされることなのか、心から信じあえる仲間なのか。

あなたの、望むビジョンは、本当にあなたのものなのか。



「きれい」「立派」「道徳的」「前向き」
でなければいけない、
と半ば強要的に信者に伝える宗教は、
「幸福そうなフリ」に疲れ果てる。

あるいは、論破したりしつこい勧誘がある宗教やその信者は、
実は心の奥では、その対象も自分自身も信じていない。

恐れから従っているだけ。



さて、本当の宗教とは、レリジョン
再び結ぶ、という意味がある。


偽物の自分自身に気がついて、本当の自分自身に結ばれるということ。

本当の自分自身は、無限に開けた存在であり、また自由と愛に溢れている。
そこに人の魂は神を見出し、それと一体化している。


自分自身であるということは、
自我にこだわることではない。

と言っても、自我にこだわるプロセスは絶対に必要な段階であり、
自我の殻の闇のなかで、魂は発芽のための栄養を蓄える。

早めに発芽を急ぐと、魂は大樹へと育ちはしない。


真に自己自身であるということは、他者の自己に対しても寛容であり、それを受容することができるということである。

とはいえ、私自身に関していえば、まず、自分自身のとげとげしさや恐れや卑屈さを十分に自覚している。
また、それは、必要なプロセスであり、いずれ取り除かれると考えている。



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2016.01.13 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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