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一神教において、神は人格である。

空海も、大日如来を人格として捉える。

仏像も、必ず人間の形をしている。

神を汎エネルギーや宇宙の法則として捉えていたことが私にもあった。
それはそれで、間違いではない。

人格神を否定して、姿形なき無限のエネルギーを主張する人もいる。


ところが、どうも、その神や仏は、理性では触れ得ないようだということがわかった。

私自身の固有の人格全てをそちら側に向ける必要がある。

親しく--乳幼児が、自分を抱きしめる親に対するように、呼びかけ、
また、呼びかけられるような類のものである。


それがなされる場所が、自己であり、魂という場所である。

魂には神の光が当てられており、
また、魂も鏡のように、神という太陽から当てられた光を、神に反射する。



神や仏というのは、もっといえば、宇宙というのは、人格を持っているようだ。


人間は、様々で多様な人格、そしてかけがえのなさ、尊厳、愛を持っている。

人格を持たない無機質な宇宙エネルギーから、このような、私たち人間のような人格が生まれるわけがない。
神が人格を持つ霊的存在であることは、私たちが人格を持つことから、帰納的に説明できそうだ。


心とは、肉体と霊がせめぎ合い、霊に向かう戦いの場所とも言える。


人間は、肉体を持ち信仰を持った状態でも、あるいは、純粋に魂や精神になった状態でも、
根源的な神や宇宙の実相を極めることはできない。

魂自らがそこに属して、またその一部であり、本質は一でありながら。


魂と神は、祈り信仰を持つ時、
顔と顔をあわせるように向き合う。

しかし、そこには、世界や肉体というおぼろげで汚れたガラス窓があって、
魂は神の全てを見極めることはできない。

人間の魂は、世界というガラス窓を通して、神の意図を見抜こうとする。


神は、巨大な自己である。

自己とは、小さな神である。

巨大な自己の相から見れば、全ての人間の魂は同じ自己の内につながっている。

魂の兄弟、というのはそのことである。


神を知るには、思想や考え方よりも、
まず自己自身を知らねばならないし、
自己以外に神につながる道はない。

知識や知恵を得ることや慣習に従うことは、この自己を極めるための助けとして、世界の内で機能する。




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2016.01.13 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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