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結局、そのメーリスは僕のせいで停止することになってしまったのです。

なんだか訳が分からなかった。


とにかく僕は会の、
まずは信者獲得、伝道、とにかく教祖様万歳などといったドグマティックな信仰に合わせることが出来なくなったのです。

そして、心を開くことができなくなった。

一番信頼していた会の信仰を持った人たちなのに…

次第にあれほど情熱を注いでいた会に対して擦れた目で見るようになってきたのです。

信頼していたものに裏切られた。

心の拠り所も曖昧なものになった。

何を信じてよいのか分からなくなってしまったのです。

そして、僕は今までの「信仰」といえるものを失いました。

しかし脳裏にはやはり、霊界の価値観、主の下生…
そういったものが消え去ることはなく
時折それは僕を迷わせました。


自分が悪いのか?
自分はひょっとしたら悪魔なのか?

自分は裁かれるのか?

三宝帰依の体制に従えず、そしてそれに反対する自分は仏に逆らうことになるのか?

…でも、やはり納得できないものは納得できない…


怖かったです。

できるだけ、会のことを忘れようとしました。


「自分を責めないで」と言われる方もいらっしゃるかもしれません。

…だけどそれは何か「会の絶対的な正しさ」を前提としたうえでの救済の試みのように思えたのです。

…僕は
会がどうしても好きになれません。

いや、本当は大好きです。
会に集まる人たちの輝き、親切、笑顔
心から愛しています。

ですが、会が素晴らしいと思うと
また同時に人を縛りつけることなどの過ちも見え、素直に支持することができないのです。


…もし、「人探」での宗教の話、メーリスでの事件がなく
私が会で何事もなく幸せを作っていけたらどうなっていたのだろうかと時々思います。

ひょっとしたら会員として学生部に入り浸り伝道に励んでいたのでしょうか。


しかし、もしそうだったとしても、その可能性はあったかと言われるとどうかとも思います。

きっと僕は心のなかに葛藤を抱え続けながら会に従っていたでしょう。



しかし、このつまづきは大変尊いものであったと思っています。

本当の自分に向き合うことができた。
自分の頭で徹底的に考えさせられたのですから。



私の中の大きなものが
、仏陀と教団への信頼があっけなく遠ざかっていきました。


きっと会は
「信じろ」と必死に説得してくるでしょう。
「もったいない」とか「誤解だ」「そこで信仰が試されていたのだ」という風に。

彼らはあれこれと手を変え品を変え、言葉を使ってくる。

でも僕はそのような態度が
とても恐ろしいものに思えるのです。

彼らがいちばん大切にしたいのは一人の人間としての人の心じゃない。

いや、確かに人の心を大切にする
しかしそれ以上に、自分たちの属している団体とその教義がいかにすごいかを認めたい、
結局はそれに尽きるのだ。

ひょっとしたら
このような心理は何かの集団に属しているならば誰しも少なからずあるものだとは思います。

大切なのは、それを消そうとすることではなく、正面から向き合い認めることではないでしょうか。


会の教えは確かに人を幸福にしうる素晴らしいものであると思います。

だけど、根本にそのような「エゴイズムの摩り替え」が生じているのではないでしょうか。

すなわち、「自分だけがよかれ」というエゴの気持ちを捨てたつもりが本当は
「自分の属している教団がよかれ」という気持ちに移行しただけなのかもしれません。


《あぁ、ここの教団もその本質はやっぱり「人探」で先生の言ってた通りの宗教なのかな》


人生に苦しみが多ければ多いほど私たちは人生の指針を探し求めます。
そして深く深く、その教えを説く教団に従うようになります。

そして、「ここの教えこそ最高」と頭が信じこんで固まってしまい、他の人の考えをみんなつまらないものとみなすようになります。

自分だけは正しいと堅くなに信じて固まってしまっているようです。


実際に会の教えはとてもポジティブなもので、私たちの普通の毎日の生活では決して得られないものがあることは確かですが。

「仏教の寛容の精神があります」というのも
「うちの宗教は寛容ですから正しいですよ」というある種の自己叙述的な免罪符になっているように思えます。



僕は自分の頭で考えることをしました。

だけど、信じるものがないという不安は時折僕を不安に陥れます。

信仰とはそれまで三次元の暗闇を照らす光であったのですから。

「伝道」なんてもはや頭の中にありません。

自分のなかにある、「エゴの摩り替え」にも気が付いていたからです。

「他人にこの教えに出会って幸福になって欲しい」という気持ち
確かに強くあります。

だけど同時に、自分たちの宗教の力を示したいという、
どこかで自分たちに帰結する部分もあるのです。




時は大学受験を控えた一年でした。

夜回り先生、尾崎豊、それに漫画の「あしたのジョー」といった生き方に憧れました。

生きる指針は何も宗教だけではありません。

受験の重圧のなかしっかりと生き、考え、様々な糧を得ようとあがいて来ました。

もがき、求め続けてきたのは会での学習同様でした。


信仰し崇拝し仕えるべき宗教は失いました。

けれども、「人探」での学び、体育祭、「便所掃除」などといったことを通して
僕の学校の最後の一年の生活のなかで僕の内面を見つめることが、僕のなかに確かな「宗教性」を育んでいったのです。

それは、会での「成功哲学」的、「道徳論」的な宗教性よりも
はるかに深くて、確かなものでした。
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2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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