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私が、宗教が嫌いなのは、
ひとえにそれが、「素晴らしい」からです。

どこもかしこも、素晴らしさを競っているようだ。

読んでいて、私の目が清くなるのを感じる。

言ってることは、正しい。

どこまでも立派で、反論できないから癪に触るのです。

ある人のとく一元的な価値が絶対だから。

素晴らしい宗教は、一切の素晴らしくないものを軽蔑し排除するという、
自分でも気がつかない、とてつもないエゴイズムを内包しているのです。

あまりにも素晴らしい教えや人間は、そのエゴイズムに吐き気さえ覚える。

嫉妬でしょうか?
自分自身が素晴らしくなれないことに対する?
いくら努力精進を重ねても。

嫉妬?
あるでしょう。
自分自身が、素晴らしく「見られない」ことに対する。

違う。
もっと深く見れば、
よく見られたいとかいうことも、煩悩のなせるわざで、われも彼も、同じ欲望の価値観から逃れることはできていないのです。

権力争いに載っかてしまった。
降りれば、
あなたはあなたでいられ、もはや自由です。







私が、宗教が嫌いなのが、
人間の罪や悪を見ないふりをしているから。
いや、己のそれを。

己の罪や悪を直視できずにいる。
ごまかしがある。

やはり、欲にとらわれている。

素晴らしい宗教には、心からの感動がない。


宗教を批判する、脱会者やアンチも実は同じ穴の狢。

「向こうは不完全。こっちは素晴らしい。」ゲームにはまってしまっている。

素晴らしい宗教に、実は信仰はない。

自らの罪を隠し、自分は素晴らしい人間だと思い込もうとする信仰には、恐れがある。
恐れゆえに、立派であろうとする信仰はもはや、信仰ではなく、律法である。

罪を解消できるのは、ただ、愛と信頼のみ。

信仰とは信頼。
罪ごと、見えぬが確かなものにかけて、投げ出すこと。

自己卑下も、尊大さも、信たりえない。

罪を作為なく直視すること。

一切の作為を棄てる。
棄てようとする意志も捨て去ること。








私が、宗教が嫌いなのが、
人から、個人の魂の言語や思考を奪ってしまい、画一化してしまうこと。

何とか教とか、なんたら先生の言葉を、自分のアイデンティティと同一化して、
宗教の枠の中に、自らを埋没させて、生かす。

彼らは、自分自身の考えというものを持たないし、
熟慮するということもない。



私はいかなる宗教も神仏も信じない。

そして、それゆえ、私は一切の宗教も神仏も信仰する。

宗教も哲学も、霊の影であって、それを対象として崇めることにはなんの意味もない。

一切の宗教は、霊で触れることが肝要であり、
また、霊によって語ることのみが、真理たりうる。







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2015.07.31 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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