上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
お釈迦様は、欲望を捨て解脱することを説く。

孔子様は、立派な人間になるよう礼や仁を説く。

ソクラテスは、魂を世話し、善く生きることを説く。


現代では、魂の成長、進化、そして、発展を説く人が多い。


全て、素晴らしい。

非の打ち所のない清らかで完成した目標。

実に、人間が目指すべき姿、追求すべき努力の目標。



キリストだけは、違う。

どっちが上でどっちが下で、どっちを信じるべきだとかではなく。

彼は、罪人のための神であった。
立派とは程遠い、ビッチや政府の犬や物乞いや、汚れ穢れた人の中に、奥に、ふみこんでいった。

神の愛は人間社会のしがらみの一切を超える。

彼が警告したのは、人間社会で立派にやっていて、傲慢な人びと。
清く正しく美しく見せかけている罪人。

理想論を地でいく。
しかし、絶対に上から目線で綺麗事は語らない。

自らも最も傷ついて見せた。


神の意志は、本当に人間には理解できない。

いや、あまりにも理解できるがゆえに、人間は神の無限の愛の前に、自らが愛の欠如した罪人だとつまづくしかないのだ。

キリストのように愛することができる人間など、いない。




リストカットを繰り返す子、
親の虐待や麻薬、いじめといった地獄の中で、
「立派に生きなさい」と上から目線で正論を吐き、それをしたくてもできない人を裁くことは、本当は人間にはできない。

ただでさえも、罪を犯さざるを得ない弱さの中で苦しんでいる。



神の光と愛はそれでも、その命と魂を肯定する。





スポンサーサイト
2015.07.08 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

コメント

コメントの投稿












       

トラックバック

トラックバックURL
→http://relisophia.blog43.fc2.com/tb.php/194-3b2c3b8b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。