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宗教の怖さ。

「これやっちゃいけない」というのが、
「取り囲んで、入会するまで帰さない」とか、「信仰の押し付け」。

取り囲む人も、取り囲まれた人は、最初はニコニコしているが、
「なんか違う」が言えなくて、胸の中にモヤモヤした嫌な嫌な気持ちを感じたまま逃げ帰る。
その感じは、例えるなら、レイプやセクハラを受けた時のような。
信じていたものに最後の最後で裏切られたような。

「お前の幸せを思って」と言いながら、
実は、自分の気持ちなどちっとも尊重などしていない。

周りには誰も見方がおらず、
しかも、全員が、「自分は正しい!」と思い込んでいるから、
こちらの意見がいかに正論であろうと、対話は成立しない。

いかなる論理も、相手には通用しない。
彼らの言いたいことはつまり「俺たちのいうことを聞け=教団に入れ」なのだが、それを幾千幾万もの綺麗な言い回しでごまかしていたにすぎない。



その宗教がそれまで、いいことや素晴らしいこと、勇気が溢れ、人生を切り開くエネルギーに満ち溢れている言葉で溢れているほど、
勧誘される人間のうちの矛盾と恐怖は大きくなる。


恐怖のうちに逃げ帰った人間は、その感情を誰にも相談できないし分かってもらえない。
言い表せぬモヤモヤを言葉に表すと、周りから疎まれる。




これを克服する方法は、単純。

あることにさえ気がつけたら、
全ての謎が解ける。

戦わなくて済む。



つまり、相手の中にも、自分の中にも、劣等感や恐れや恐怖がある、ということ。

双方に恐れはあって、お互いを引きつけている。
本心は幸福でないのに、幸福であるフリをしているから、同じようなフリをしてごまかす仲間を探す。

相手の不幸に漬け込んで、支配しようとする。
言葉では幸福を語りながら、心の奥底では恐怖が自分を支配している。

だから、押し付けがましく、不自然に立派で完璧で善に満ちている。
何かを隠すように。
バレないように。
自分の本心を決して語れない。

不自由のまま、自由のフリをしている。



もし、本当に信じる側が満たされていたら、
その人は、人をコントロールすることからは全く解放されているはず。

反動で、
アンチや無神論になる人もいる。

この過程は、依存から抜け出して自己確立をするための脱皮のようなもので、
実は必要不可欠。

自分自身、誤っていると心の奥底ではわかりつつも、他人に自分の評価を下されることに反発し、その他人の物差し自体が狂っていることを知っている。
それゆえに自分の衝動が、同時にどこまでも正しいと知っている。

この、カルトや宗教の束縛から自由になるために、自分自身の魂が汚れる痛みや苦しみ、
正しさと過ちが分からず、霊的な暗闇を彷徨う道のりは、
それが果実を実らせるまでに、その人の土を耕す。

全ては、霊的な成長の過程に過ぎない。


克服のためには、自分自身の魂を自力で進化させていくことが一番手っ取り早い。




自分自身が、幸せであること。






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2015.07.06 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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