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神社で、「お百度参り」をしてたの。

最初の何十回くらいは、

「神様が自分のうちのうちにいて、
神様のなかに自分は、今生きてる」
ということが分かって、
うれしい思いでした。

私にとって、
神様は、
パパやママと呼んでいいのかわからないけれど、
自分に最も近い
「天の御親」。

すべての人にとっての神は、
「わたしの神」。

愛と光。




次の数十回は、

「この神様」について
「考え」はじめた。


いろんな奴らが割り込んでくる。

「どういうことですか」
「説明してください」
「あなたの妄想です」
「神様なんていないよ」
「何の宗教の神様ですか」
「お前は○○教徒なのに、異教の神をより頼んでいいのか」
「そんな神より、もっといい、最高の神はこっちだ。」


親の腕の元から、
「そんなところにいてはいけません」
と引き離されるように、
私の魂は、
神のもとを離れ、どうあがいても戻ることはできなくなる。


心の中で、弁明や説明を繰り返しているうちに、
すっかり、私は道に迷ってしまう。



すると、
もう、どんどんどんどん神様が見えなくなってきて、
考えるのをやめようと思っても、考えてしまう。

思考が茨のように「多いしげる」。



お母さんの腕の中から引き離された子どもが、
最初のうちは、泣きわめいていたのだが、

次第に、いじめてくるお友達と喧嘩をしだしたりする。


親の元に帰りたくても、どうしても戻ることはできない。

というか、庭園で誘惑している別の子すべてが気になって気になって、戻ることができないのだ。


この魂は、

「神や信仰はは説明できなければいけない。」

「人に説明してわかって貰えなければいけない。」

「そうでなければ、いない。」

そういう、世界の誘惑から逃れられないのだ。



次の何十回。

敵どもが、軟弱な私の体に寄ってたかって覆いかぶさり、身動きを取れなくする。
振りほどこうとしても、がっちりとつかんで離さないのだ。


それを振りほどくために、
私は、神前で大声で何回も叫ぶ。

幸いなことに、山奥だったので、誰も来ない(笑)



一目なんてどうでもよくなり、
ただ、ひたすらに神の名を呼び求める。




「自我」を手放すタイミングはいつか分からない。



頭の中の「言い訳」が消え失せ、

心や体がふっと軽くなる。



口から、きいたことのないような言葉が次々と飛び出す。

お経のようでもあるし、
密教の真言のようでもある。



潜在意識が、

私に何かを伝えようとしているのだが、

それは、

けっして論理的かつ、説明的なメッセージではない。


おそらく、ほとんどの宗教がそこで挫折を見るのだろう。



それは、リズムや、旋律をもっており、

私の体を、思うが儘に動かし、踊るように体と心を解放した。


また、この世の在り方とは違う秩序で「彼」は「語った」。



おそらく、この世のどんな言葉を使っても、言い表せない「波動」のようなものがある。


ヒマラヤの頂上からの景色を写真で見るのと、実際にのぼるのとでは、
見えているものは同じでも、体験としては、言葉にできないように。





真理の言葉、
神のロゴスというものは、
論理ではなくて、魂に対して霊でもって働きかける「リズム」であったり「美しさ」であったりするのだ。



逆に、

神のロゴスが、
人間的な議論や、いいわけや、文字や言葉のまな板上に載せられてしまい、
魂で「感じること」と「動くこと」
をジャミングしはじめたら、
その魂は、行き場所を失い、やがて病気になり、そして死に至る。



心を開いて、
開いて、
脳みそにへばりついている魂を、もっと、解放して!






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2014.11.07 Fri l 未分類 TB(0) l top ▲

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