上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
神様は、ただひとつ、唯一絶対。


というと、眉をしかめる人もいるかもしれませんが、


「あなた」もただひとつ、唯一絶対。

すべての人が「唯一絶対」。



唯一絶対であってはいけないのは、思想、宗教、団体、派閥、組織など「人間」「地上的なものに属するものすべて」。


そこを取り違えて、
「俺だけがえらい」
「俺たちは選ばれている特別な人間だ。」
なんていう人が出てくると、おかしいことになる。


そういう、
「社会的な関係」に「私」は囲まれて殻や役割や肩書きとして生きているいるわけですが、

そういう、人間の中の関係の自分をすてて、

裸になった、ありのままの

「唯一絶対のあなた」じゃないと、

唯一絶対の「神様」に会えない。



それは、他人が判定することではない。



自らの心の「奥の院」「至聖所」において、
神様の前に、ただ一人立つということ。


そういうことをしていたら、自分のするべきことが、使命が
ほかのだれにも言えないけれども、「あ、これだな」ってことが分かってきたりする。



ただし、
そこにたどり着くまでにいろんな誘惑があるから、
挫折する人が多い。


世間体に、
金銭的や物質的な問題に、
今持っている地位や立場や、
馴れ合いの人間関係とか、

そういうことが「心配や不安」という形で、襲ってくる。


一番きついのは、
心から分かれあえそうだと思った仲間が理解してくれないこと。

反対ではない。
むしろ、優しくしてくれることが、「自分の橋」ではなく、
目的地ではない街へと続く「大きな橋」に続いていること。


自分の先生や、師までが、
「やめておけ」とまで告げること。


最大の誘惑が、
神様ではなくて、
神様を伝える役割ではあれど決して絶対ではない、
自分の尊敬する「○○先生」に認めてもらえるかということ。

(優れた師は、弟子を自分に依存させない。むしろ突き放すべき時には鬼のように突き放す。)


あとは、信じてついていこうとしていた「先生」が、おかしくなったり、こけちゃったりすること。

「先生」はいいかもしれないけれども、「集まっている人」がどうも訳アリなんじゃないかということ。
集まっている人のひとりが、「先生」の代理になりたがること。

そんなこんなで、
「他人のテストを代わりに解いてあげる」現象が続出して、我慢できなくなる。


そうすると、今まで学んできたものすべてバシャーンとひっくり返すような感じで、
「何を信じていいかわからない」となる。


「神様なんていなかったんだ」
「神様はいるかもしれないけれども、もう、自分なんか救えないんだ」
というニヒリズムまでいったら、どん底。


自分の魂をボロボロにされた恨みを、そこにぶつける人もいる。



すべては、厳しい言い方かもしれないけれども、
要するに、
「自分の問題を、他人に解いてもらいたがっていた」。

それでしょう。



つまり、

誰かと一緒に、自分の「魂の奥の院」に行ってほしかった。

誰かの「魂の奥の院」についていこうとして、断られた。


それで、境内で、一人ぼっちで迷子になって泣いている状態。


そのときこそ実はチャンス!

目の前に、奥の院に行く橋が架かっている。


渡ればいいんですよ!





妥協してしまうと、
「奥の院」の橋の手前までは行けるけれども、
そこで、神に出会えないまま、
「いい景色だった」で終わってしまう。

いや、それどころか、
その巡礼に「救い」はないのだ。



奥の院に入るための橋は、
あなた一人のためだけに用意されていて、
一人しか通れない。

それが「その橋」であるということは、あなたにしかわからない。

あなたは、はっきりとわかっているが、あらゆるほかの人にはわからない。



「仲のいい友達」とは渡れない。

一人で渡らなければならない。

「友達と離れ離れになるのが嫌だ」
「もっと、一緒に境内や町並みを見ていたい」

と、
その「あなたのためだけに神様が用意してくれた橋」を過ぎ去ってしまうことになる。




けれど、

それぞれの人が、
自分のためだけの「奥の院」にわたる橋を
一人渡り切れば、

あなたは、自分の魂の奥の院、至聖所にて神に出会う。

そこで、

すべての魂はひとつに繋がっているということをはっきりとあなたはわかる。


そこでは、

決して尽きることなく、汲みつくすことのできない
無限の命
無限の光
無限の愛が
虚空に遍満している。

すべてのことに、神の手が及んでいて、
すべてのことには、完全な意味があることを知る。


それは、
とても平和な状態であれど、
必ずしも、「忘我」とか「エクスタシー」であるとは限らない。

たとえるなら、
忘我状態が、オーケストラの演奏を聴いて、熱狂している観客だとすれば、


私の言っているのは、
「宇宙」というオーケストラの演奏をしている側で、
「自我」という自分の楽器の使い道をはっきり認識しながら、楽器を演奏しつつ、
今流れているオーケストラの全体の演奏にも酔いしれている状態。






みんながみんな同じ形、同じ方式ということはあり得ない。

それでいて、
みんながみんな、それを深めたら、すべては一つに繋がる。






難しいのは、
そこから降りるとき。

ずっと、そこに安住できたら楽なのですが。




「言葉」が通じない。

人は、「言葉」で「そうだ」とか「ちがう」とか判定する。

説明しようとすればするほど、通じ合うことはなく、
「言葉」にとらわれてしまう。




(続く)
スポンサーサイト
2014.11.05 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

コメント

コメントの投稿












       

トラックバック

トラックバックURL
→http://relisophia.blog43.fc2.com/tb.php/152-98de0a06
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。