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潜在意識はひとつ。

すべては宇宙の中で一つに繋がってる。


地球儀のどこの点を取っても、「世界の中心」であるように、みんな世界の中心でありながら、世界の中心でない。




その「ひとつの潜在意識」のことを、

神道では、天の御中主様といったり、

仏教では、大日様や毘盧遮那仏といったり、アンマラ識といったり、

キリスト教では、天の父といったり、

アラーといったり、ヤハウェといったり。


「対象」ではない。

呼び名とか、
学術的な「定義」があると、さらに遠ざかるもの。


生きている

・・・

もっといえば、
私たちや目に見える世界が「存在」しているように見えて変転する無常なあり方で「ある」
以上に、
絶対的に「ある」なにか
が、
私たちの世界の奥底で「ある」。


別のたとえをいえば、

わたしたちの世界や個人は、海のうえに生じては滅していく「波」のようなもの。

その奥には、広大な変わることのない「海」があるよね。


生命の根源であるその潜在意識は、

思想や哲学ではなくて、
生きている

というか、

生命そのもの。

愛や、光でできていて、

私たちの魂というのも、
また、そういうものでできている。


別のたとえで言うなら、

私たち人間が、赤ちゃんや子供だとすると、
私たちのすべてを受け入れて、抱きしめて養ってくれているパパやママといいましょうか、
性別を超えた、「愛の塊」が、
地上において、迷って泣いて途方に暮れている私たちを呼んでいるわけです。



それを知ると、

私たちの魂は、思わずうれしくなったり、
「懐かしさ」を感じて、泣き出してしまったりする。


もっと進んで、潜在意識の扉が開けると、

自分の見たこともないようなビジョンが見えたり、
「異言」なんて言って、知らない言葉を語りだしたりする。

いわゆる、
「聖霊が下る」という状態はそれです。


「般若心経」の
行深般若波羅蜜多時って、
ようするに、
「心の扉がひらけて、喜びに満ち溢れましたよ」ってこと。

一緒。




潜在意識は、

形がない。

空間も、時間もない。


ただ、

潜在意識は、愛と光の塊で、

何とかして、いろんな方法で、その人に一番合った方法で、アプローチしている。


ある人にとっての「絶対的な確実な真理」が、
ほかの人にとって合わないということはよくある。

そういう、「ズレ」を感じてしまうと、
その人はどこかうまく言葉にできない違和感を感じたり、苦しさを覚えたりする。

いかに、理屈が正しくて、客観的にものすごく好条件でも
自分の魂が「違う」と感じたら、やっぱりうまくはいかない。


逆に、
周りから、「やめとけ」とか言われて攻撃されて説得される茨の道でも、
本人の魂の声がピンときていたら、
本人はうれしくてたまらないから、「茨の道」がゲームでもしているみたいに面白くって仕方がない。

そして、次々と、いい人や条件が引き寄せられてきて、
すーっと、面白いように大成功していく。



成功した人の「二番煎じ」は、
ある程度はうまくいくけれども、ブレイクはしない。

「本人自身にしかわからない感覚」を捨てちゃっているから。




だから、言っちゃえば、

(元、学校と塾の教師の私が言うのもなんだけど)

学校や塾の管理教育って、あれは、「魂をつぶす」んですわ。



何かが狂ったり、
すべての不幸の原因は、

他人が、
「自分の魂の課題」を放棄して、
人の「魂の課題」に口出しをしだすこと。

親子関係にしろ、
先生生徒の関係にしろ、
宗教の伝道にしろ。


「私は私でいい。あなたもあなたでいい。」
それさえできたら、もうこの世は天国になれる。

それが、お互いの魂にとって、もっともよいこと。



神様の描いた寸分狂いのないシナリオというのは、
それぞれ
「自分の魂の分」として与えられているし、
「自分の分」を演じきったら、必ず、最高の結末が待っているわけ。



で、人様の魂の分とか信仰に、土足で入りこむ行為は、

マラソンを走っているランナーを別のランナーが「俺がおぶさってやるから」とかいって、担ぐような行為、
テストの最中に、席を立ちあがって、別の生徒に「俺が教えてやるよ。親切だろ。」っていって、答えを教えてあげるような行為で、
しかも、問題はそれぞれ違うのに、違った答えを教えるようなことだから、
絶対に許されないことなの。

自分は自分の道走って、自分の問題を解くように、神様は命じている。


自分は、聖霊に満たされたつもりでやっているし、「正しい」と思っているかもしれないけれども、
実は、それは聖霊を知らずのうちに冒涜している悪霊の仕業で、

それをしてしまうと、
不幸とか、困ったことという形で、反則に対する「ペナルティ」みたいなものが来る。


間違いを正すまで、次々と来る(笑)



こういうことを言う自分自身も、
よくあったものです(汗)


間違いが治ると、正解で、
神様から「いいこと」や「幸せ」がくる。



(続く)







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2014.11.05 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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