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「救いとは何か」ということについて、考えていましたが、
現時点での私の「そうではないか」と考えていることを。

救いとは、
「存在している」ということです。

つまり、「神から存在を与えられている」ということ。

Es gibt Sein.(There is being.)



つまり、あなたが存在しているということは、神が存在して、またあなたは救われているということの証なのです、
ということです。

救いから外されたら、あなたの存在はこの世界から消滅してしまうわけです。



当然、このような声がたくさん上がるかもしれません。


「神が存在するなら、なぜ私はこのような苦しみを味わなければならないのだ。」と。



Da sage ich,

そこで、私は言いたいのですが、
その苦しみこそ神があなたに「生き方や考え方を変えて幸せになりなさい」と言っている愛の声なのです。

苦しみが存在の中に存在することこそが、救いなのだ、と。


もし、身体に「痛み」が存在しなかったらどうなるでしょう。

骨折して、痛みを感じたら「これはいけない」と、治療をしますね。

骨折しても、痛みを感じても、「この痛みは邪魔だ」と何か薬で消してしまい、日常生活を過ごしていたら、取り返しのつかないことになるでしょう。


あるいは、

火事が起こった時、火災報知機がなります。

そのときに、火災報知機のベルを止めますか。あるいは、火を止めますか。



病気や、苦しみと言うものは、罪そのものではなく、罪を犯しているしるしとして現象として現れてきているものです。

罪とはなにかというと、「神の定めた理法に従わないで生きていること」。
幸せになる道理を知らずに、誤った方向へ向かっていること。
無明ともいいます。

そこから、「学びなさい」ということで、痛みや苦しみを与えてくれているのです。


学ばずに、同じ過ちを繰り返し続けているのであれば、神(理法)は、容赦せずに、その人に次々とその過ちを改めるまで苦しみを与え続けます。

・・・といういい方も不自然で、本当は因果の理法に従って本人の蒔いた種を自分で刈り取っているだけなのです。


苦しみは神の救いの証でしょう。




愚痴や不平不満が多くて「自分は悪くない」「自分は不幸だ」「治せ、藪医者」と言い張っている人は、
「そこで、もいちょっと学びなさい」と放置しておくのが愛でしょう。
感謝と他者のために気配りができるようになれば、病状はかなり良くなるはずです。

小学生中学生でも、勉強していないのに「テスト100点がいい」、「お願いですからそのおもちゃをください。くれなきゃ許さないぞ」「朝昼晩とお菓子しか食べません」という子どもに対して、そのことを聞いてしまう大人は愛のようでいて、違うものです。
子どもだと指導するだけでいいのですが、ごくたまにですが、20代、30代、40代になっても、そういうメンタリティの人がいたりして、反抗してきたりします。
下手な子どもよりたちが悪いので、「大人小学生」だと思って、長い目で見るのがOKでしょう。



ただ、「どうしようもない病気や障害」も本当にあります。
私は学生時代ずっと障害を持った方と遊んでいたのですが、どこをどうとっても彼らが罪だとは思えない。
本当に、感謝や楽しさのほうがはるかに多い。

本人の罪ではなく、「神の恵みが現れるため」の不便とか、使命とかいうものがありますので、
明るく優しく自分を誇って今世を生きて行ってほしいと思います。





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2013.12.04 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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