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「考えても考えても答えが見つからない」と言いますが、
それは当然で、論理的思考のすべてが、「不快からいかにして逃れるか」を目的にしているからです。

一流のスポーツ選手や、成功者の考え方を見ていると、
例外なく、「学問的」「論理的」というよりも、「うれしい」方向の直観に従って自分を決断しています。

そして、そのような人間には必ず、「ツキ」が訪れています。


思考や知識を集めても、妥協的な結論しか出ません。
「できるだけ最大多数の人が、五感を頼りに納得できるもの」が論理の世界です。

学問の世界では、批判は美徳です。
これを主張すれば、向こうの主張と対立する。その擦り合わせをしながら互いに真理へと向かっていく態度が重要なのです。
多角的な視点から、答えが見つからない問題を考えていくものです。


一方、
直観、インスピレーションには、奇異なように見えて誰からも理解されがたいものが、世界を変える原動力になったりします。
どこまでも主観的で、説明できないような、常識外れたアイデアが実は真実だったと知る。

前例がないことに挑戦し、失敗も成功と言い張る。

彼らは、どんなにどん底にあって周りの人が「もうだめだ」と言おうが、
「必ずさいごには成功する」と信じて、そして結局のところ、成功を手にします。


「信仰」というのも、そのようなものかもしれません。

「説明されて納得したから信じる」というのでは、人はいつまでたっても信仰の領域に入ることはできないでしょう。

神学があって、信仰があるのではなくして、
まず、信じることから探究が始まるのです。



私の感覚では、
「マインドコントロール」と「信仰」、あるいは、一流のスポーツ選手や実業家が自分に言い聞かせている信念の注ぎ方は、紙一重の違いだと感じています。
あるいは、ビジネスでも、親子の関係でも、あらゆるところで、この「信」のシステムは大切にされています。

ほとんど、方向性の違いといってもいいかもしれません。

神に向かうか、
我欲に向かうか。

ほとんどそれだけです。

人間は信なしでは生きられない。
尊いものである信を踏みにじり、人から本当の信を奪うカルトや全体主義国家は許されるものではないでしょう。


違いは、
「キラキラしているか」「さわやかか」
あるいは
「ドロドロしているか」「なんだか、良く分からないけれど嫌な感じ」か。


(自分が今まで長年試みてきたように)論理でいくら解体しようと、結論はでないでしょう。



どうしたらいいですか、というと、
「センスを磨く」
「嬉しい方向、ワクワクする方向」に向かえば間違いはない
と言うくらいしかありません。

心をきれいにしておくこと。
美しいものに涙できる心を持っておくこと。


そのためには、「これだと思う」上手くいっている人の教えや本を素直に学ぶことと、実行すること。

「人のために何かしなさい」といわれたら、「なんで?」とか聞かずに、やり続ければいいのです。
「いい言葉を話しなさい。悪い言葉を使ってはいけない」と言われたら、あれこれその場で考えこまずに素直に実行し続ければよいのです。
入門したての白帯が、師範に基本を徹底してやるように言われたら、「実戦で使わないから無意味だからやりません」などと言っていては本当の強さは身につかないし、しょせん何もできない人間です。


師を選ぶには、稽古を三年遅らせてでも遅くはないといいます。
愚直に従える師匠を見つけたいものです。


聖書に種をまく人のたとえがありまして、
「みことば」が心にまかれても、
それを受け取らないで腐らせてしまったり、
初めは喜んで受け取るが、忍耐がなく長続きしない、
あるいは、芽を出し成長するが、思い患いによって道をふさがれてしまったりする場合がある。
しかし、耐え忍んで信仰を実らせたら、その大きさはとても豊かなものだと。


信仰を死ぬまで貫いた人を聖人と呼ぶようで、私たちのほとんどはそうではない弱さを持っていますが、
裏切られても、やはり信じることをベースに生きていきたいと思います。




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2013.12.04 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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