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とかく、宗教ほど悪霊の影響下に置かれやすい場所はないでしょう。

救済力の大きい宗教ほど、悪霊の巣窟になり、腐敗していくという現象があるのは奇妙なパラドックスです。

つまり、どういうことか。
「救われたがっている者」がこの「世知辛い世の中」ではあまりにも多すぎるのです。


某SNSにおいて宗教系の話題で、ネット上で一番荒れているのは、オウムでも、幸福の科学でもありません。
キリスト教とS会は酷い。

「自分は環境の被害者だ。自分は悪くない。自分がこんなに不幸なのはひとえにすべて相手のせいだ」と思いこみ、神の救済を待ちのぞんでいるパターン。
あるいは、「誰も何もしてくれない。誰も自分を救ってくれない」と、自己の中にあるコンプレックスを教団に向けるパターン。

攻撃的、批判的なやり取りにどうしてもなってしまうし、
そこにいる人たちは、不満を抱きながら本当はそこから離れたくない。


自分の本心や、心からの望み、神からの声が、
くだらないやり取りのなかに隠れてしまい、「神などいない」と言いだす。




テレビで、虐待を受けた子どもを預かっている施設の様子をやっていました。

その前日に、娘を溺愛するイクメンパパたちが映しだされていて、私はすっかりデレデレだったので、余計、惨憺たる気持ちにかられました。


暴力を受けた子どもは、同じように他人に暴力をふるったり、自分に自信が持てず、人と話をすることすらできない。
あるいは、自傷行為を繰り返す。


でも、くるしみ、悲しみ、必死で戦っている人間に、
「お前の心が間違っていたから、お前は苦しむんだ。お前には悪霊がついている」というようなことを私は言えないし、
もし、そういうことを平気で言える人間がいたら、その人間こそイエスが最も嫌った部類の人に他ならないだろう。

そして、多くの心ある人は、
傷ついた子どもの心を理解して抱きしめてあげたいと思うでしょう。


しかし、また同時に、

そういう子どもが大人になってからも、やはり傷は残るし、対人関係で躓き、社会に対して恨みを持つかもしれない。
心ある人であればあるほど、彼らを軽蔑し、冷たく当たらざるを得ないのです。

もし、私がそういう大人に嫌がらせや暴力をうけたとして、仮にそういう背景を知っていたところで、情状酌量はできないし、きっと多くの人と同じように縁を切るだろう。
少し非情なところもある人間なんだなと思いました。

私たちは、全員で、彼らを追いやっている。


執拗に嫌がらせをしている人の裏を取ってみたら、子どもの頃虐待を受けていた過去が分かったりして、
他人に対してはいていた暴言のすべては、本当はすべて自分に向けられたものかもしれないと思ったものです。

彼は、自分の苦しみを他人にも分かって欲しいとそういうことをするのであろうし、どこかに救いを求めているのだろう。しかし、きっと残るのは自己嫌悪しかない。


彼らは、自分を病気にして、「無力な存在」と認められることで、「優しくされたい、理解されたい」と欲する。
しかし、その手段によって愛を得ることはたいがいが徒労に終わる。


そういう人たちを立ち直らすことができる本物の愛を実践できる人でないと、資格はないのかもしれない。

愛に飢えた人がいるのは何も現代だけでなく、有史以来連綿と続けられてきた常である。


人は確かに自助努力によってどこまでも幸せを掴んでいくこともできるのですが、
「どうしようもできない人間の無力」は存在します。


私の場合は、「神との断絶」から抜け出したところに住んでいますので、いくらでも自由は利きますし、
「あのどうしようもできない不幸があったからこそ、今の俺がいる」という強さのようなものはあります。

そして、苦しんでいる人が、「もしこれをしたら運命が変わる」というのも分かるけれども、
「これをやれ」という上から目線の押しつけになり、「意味分かんねえ。説明しろよ」となり、さらに道が遠ざかるのを恐れているので、いうのには気を使います。


宗教霊や悪霊は、
神を見ていないし、人によって自分の苦しみを紛らわそうとしていたりするのです。

人の集まりに騙されず、批判せず、傷つけられず、
それが何の得にもならないことを覚った上で、自分の足元と自分の幸福をしっかり作っていくことこそが大切なのではないかと思います。

そして、祈ることです。

「私」がその人を「いい子に」変えようとかでは決してなく、
彼らが、自我によって隠れた、汚れのない自分の中の仏性に気がつき、それを発揮していけるよう。幸せな道を歩めることを。



神は、
ぶっちゃけ、自分のところにいる立派な兄のことはどうでもよくて、
自分を裏切って苦しんでいるどら息子の方が大好きなのです。

人間の一番の不幸は、「信がない」以外にないのではないかと思っています。


もし、
人と人の間に、素直な信があって、
お互いの心が温かく開けあっているなら、
この世に一切の不幸はないだろうし、
きっとそれを「神の国」とか呼ぶのではないでしょうか。




(まとまらない記事で申し訳ないです。)

















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2013.11.22 Fri l 未分類 l COM(3) TB(0) l top ▲

コメント

幻想の世界の中で愛と悟りの法
相変らず、素晴らしいブログです。

愛一点の考えは、正しいと思います。
しかし、個の悟りという想いが大切だと思います。
愛を施すのは、神であり、神の体現者であります。
それは、悟りに応じてしかできません。

自己卑下、自己不信など、そこから抜け出すには、神の愛は根底にありますが、神が自発的に奇跡を起こして立ち直らせることは致しません。

個の苦から脱するのは、あくまでも個の努力であり、今世においての課題を背負っているのは事実です。

先日、私の職場は、我欲我欲の世界で地獄界になっていて(新しい上長に代わって以来、上長の女性の好みの好き嫌いで幸不幸が決まるような世界になってしまった。男性は論外扱い。)で耐え切れなくなった女性社員が私に相談にきました。

結局、幻をみて苦しんでいるのです。
所詮、三次元は修行の場であり、閉じた創られた世界で、全ては幻と同じです。
そういう霊的真実を懇々と話しましたが、無神論者であった彼女が、深く考え出し元気になってきました。
私がいうのなら信じられるそうです。
そして、早くも3日目に神仏に目がいくようになっています。

霊的真実に目覚め、転生の目的そして悟りを目指していくとういうことに気がつかなければ、苦悩から脱却していくのは難しいと思います。

K会も初期は、霊的真実を告げ知らせるということでした(但し、以降は堕落、法も堕落)。
これは、救済力があるのです。

人は霊的真実、自分の真実に気がついた時から変革していきます。

人を導いて救済していくには、根底に無私なる愛がいります。
救済していくには、愛と悟りの法が必要です。
2013.11.23 Sat l XYZ. URL l 編集
Re: 幻想の世界の中で愛と悟りの法

まことに、そのとおりです!
素晴らしいです。
ありがとうございます。

私もこの記事を書きながら、ふに落ちないところがありましたが、見事に補足していただいて感謝しています。

三日目に変わられたのですか。素晴らしいですね!

「道理」「法」をしっかり知って、それを実践することと、神の愛の「卒琢同卒」で、人は幸せの道を歩めるのですが、拒否する人が多く、「何で私はこんなに不幸なの」と自己憐憫に向かう人が多くて、「そうじゃないのですよ~」と話を聞いてもらいたいのですが、なんとももどかしい次第で・・・。


私の友人にも、過去の虐待やいじめや苦しい過去に捉われてそこから離れることのできないまま明日をなんとか探している人がたくさんいますが、
怖くてその想いから離れられずに苦しんでいたりします。


最近、私は残酷ですが、「苦しんでいる人は、そのまま苦しめばいい」と考えています。
法や信仰は、苦しみをごまかし、見えなくするための麻薬であってはいけない。(そういう宗教も多数存在しますが。)

神の奇跡は、神に心を向けないと起こらないですね。
むしろ、心の過ちの結果、苦しんだりすることの中にこそ、正しい道理があって、「おーい、君、その生き方違うから直したほうがいいよー」という神の呼びかけがあるのでしょう。

そして、自分の心の奥底の神の言葉に素直に従った時、道理を学ぶなり実践し、見出したときに、幸せがある。


「なぜ、神がいるなら、私はこんなに苦しむんだ。」「神がいるなら私を幸せにしてくれ。」
と、叫ぶ人が少なからずいますが、
「あなたの思っている神は単なる欲望。
その苦しみって、ひょっとしたら生き方変えなさいという神の愛かもよ」
といいたいのですが、届くでしょうか・・・。







> 相変らず、素晴らしいブログです。
>
> 愛一点の考えは、正しいと思います。
> しかし、個の悟りという想いが大切だと思います。
> 愛を施すのは、神であり、神の体現者であります。
> それは、悟りに応じてしかできません。
>
> 自己卑下、自己不信など、そこから抜け出すには、神の愛は根底にありますが、神が自発的に奇跡を起こして立ち直らせることは致しません。
>
> 個の苦から脱するのは、あくまでも個の努力であり、今世においての課題を背負っているのは事実です。
>
> 先日、私の職場は、我欲我欲の世界で地獄界になっていて(新しい上長に代わって以来、上長の女性の好みの好き嫌いで幸不幸が決まるような世界になってしまった。男性は論外扱い。)で耐え切れなくなった女性社員が私に相談にきました。
>
> 結局、幻をみて苦しんでいるのです。
> 所詮、三次元は修行の場であり、閉じた創られた世界で、全ては幻と同じです。
> そういう霊的真実を懇々と話しましたが、無神論者であった彼女が、深く考え出し元気になってきました。
> 私がいうのなら信じられるそうです。
> そして、早くも3日目に神仏に目がいくようになっています。
>
> 霊的真実に目覚め、転生の目的そして悟りを目指していくとういうことに気がつかなければ、苦悩から脱却していくのは難しいと思います。
>
> K会も初期は、霊的真実を告げ知らせるということでした(但し、以降は堕落、法も堕落)。
> これは、救済力があるのです。
>
> 人は霊的真実、自分の真実に気がついた時から変革していきます。
>
> 人を導いて救済していくには、根底に無私なる愛がいります。
> 救済していくには、愛と悟りの法が必要です。
2013.11.28 Thu l confessius. URL l 編集
神は愛、届くでしょう
お褒め頂きありがとうございます。

あなたが、いうのなら届くでしょう。
あなたは、愛深い人ですから。

今日も相談がありました。
職場で一人の人間(女性)の利害の為だけに、上長と結託して、悪辣の限りをつくして、実績を全て独り占めしたのです。
それに、怒り狂う、恨み心です。

その悪辣な女性への怒りですが、神は放置されています。
私は、現在何故、そのような環境に置かれているのかを人生の目的、人生の勝利者とは何かということを修行の観点から話しました。

そして、一番哀れなのが、その女性と上長であると。
イエス様のお言葉もお借りして話したところ、心が静まり安穏と平和な心に変わりました。

人は、人を裁かなくとも神の創造した法則によって自からを裁くのだと。
神は裁かない。

そして、悟りを目指すことが一番大切なことであると話たのです。

人を害する事が、死後如何に苦しむ事になるのか。
自分が人に犯した罪は、のたうつほどの苦しみが襲い耐え切れなくなると。
だから、恨みをはらすのは、止めるようにと。

その人は、心が変化してきました。
そして、今与えられたる環境は、神が、守護霊が己が心の弱点を気づかせて、クリアしていく為に与えたるものであると。
憎き人もその配役であり、我欲に捉われた人々が如何なる醜い姿をさらしていくかを見せて頂いているのだと。

神に不可能はない。神は与えようと思えば、何でも与えられる。
しかし、神は与えず。

ならば、自分の中にある神の心を見出せば、全て可能であり、実現しないことはないのであると。

こうして、その方は立ち直り、真実の心、清い心で生きていくことを決意しました。

あなたは、根底に愛の心がありますから、必ず相手に伝わると思います。

これからも良いブログをよろしく。
2013.11.28 Thu l XYZ. URL l 編集

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