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心の眼でしか見えない世界・・・イデアとか、実相とか、空とか言いますけれども、
神は、すべての人、存在を招いています。

それが「イデオロギー」になってしまうと、神の招きではなく、人や欲得の招きになってしまいます。

「伝道」には、
神の霊の導きによるものと、人の我が混じっているものが混在します。


魂が魂に語りかけることこそが神の教えをつたえること。

神の教え、真理はそれ自体は是なのでしょう。

しかしそれを伝える人が、真理のうちに生きておらず、欲得や見返りのうちにそれをして、
信心や思想を押しつける形になると、
そこに「偽善」が生じます。

「宗教や神が嫌い」と言う人の多くが、
そこに「偽善」があるのを見抜いているからでしょう。
宗教者の多くが、「自分は選ばれた人間だ」と思い、人を見下していることを彼らは察知する。

つまり、彼(彼女)は真実の愛を求めながら、それは存在しないと観念している。

神を求めながら、人に躓き、ついにあきらめてしまうわけです。


押し付ける人も、反発を覚える人も、
両者は、真に神の内に生きていることを自覚しているとは言えない。

波風が立つ中で、迷いはますます大きくなる。



目覚めた人は、
どちらからも、静かに身を引きます。
そして、無視するわけではなく、ただ呼びかける。








・新約聖書のルカの福音書を通読していました。

とにかく、病気治しや、悪霊の追い出し、そして奇跡が何度も何度も繰り返されます。
以前は、「人生訓」として読みがちだった聖書ですが、
イエスの病気治しなどの奇跡をたとえ話でなく、「本当にあった」として読んでみると、
当時のイスラエルの人々のイエスの存在のインパクトの大きさが尋常でないことがわかります。
現代の宗教者は長い祈祷によって祈願をして、それでも治るか治らないかですが、
イエスは、手を触れただけで、あるいは服の裾を触られただけで、一生治らなかった病気がすぐに治ったり、です。
叱るだけで、大波を凪にかえたりします。
あるいは、周りが笑う中で、死人を何人も生き返らせています。
これを、目の前で見てしまったとしたら、「やばい」。「伝えずにはいられない奇跡」です。

イエスの中に、はかりしれないオーラや神の光が注がれて満たされていたことは容易に想像できます。

大学や教会では、道徳や哲学思想での解釈になりがちですが、
イエスの力には、人間の理性が有無を言えない衝撃があったのでしょう。

群衆が押し掛ける様子は、まるで熱狂した観客に失神者が出るまでのビートルズのようなイメージです。



イエスの周りに描かれているのは、
救いを求めたかと思いきや、次の瞬間にはイエスに激怒し、そうかと思えば、こぞって神を賛美する群衆。

そして、イエスに恨みを抱き、わずかな言葉尻でもあればそれを捉えて、裁き、殺そうとする、律法学者やファリサイ派の人々。

私が感じたのは、「自分の真意を覚ってもらえず、宣教に苦労する孤独な、しかし力強いイエス」というものです。
だれしも、集団圧力や「他人にどう見られているか」ということには非常に恐れるものです。

イエスの視点も、群衆の視点も、律法学者の視点も、イエスを裏切った弟子の視点も、
だれの視点も私たちは持ち合わせているのではないでしょうか。


もうひとつが、詳細が描かれていないお弟子さんのユダの像。
彼は、悪人ではなく、ごく普通の常識的な神経の持ち主であったのではないかと想像できます。
イエスは「裏切るものは不幸だ。生まれない方がそのもののために良かった」とひどいことを言っていますが、本当は、責めではなく、「お前もかわいそうになあ」という人間の弱さに対する哀しみの深さだったのかもしれません。

そして、引き止めることもせず、「あなたのすべきことをしなさい」と。



で、「押しつけ」の話ですが、
真理は、完全に自由が与えられた中で、主体的に選び取らないと嘘っぱちなんじゃないかと思います。

誰かに強制されたり、
心にもない形だけの信仰は、きっと本当の信仰ではないのでしょう。

命がけで伝道はしているのですが、強制改宗させたというイエスの話はきかない。
むしろ、いのちがけで伝道しながら、支配者に対して従順で、死刑になってしまった。



「そのために生き、かつ死ぬことができるような主観的な真理」をキルケゴールは語りましたが、世の中の95パーセント以上がそれを見つけられず「群衆」になっている不幸な時代なのかもしれません。


K会で燃え盛る心を抱き活動をしていた人も、「裏切られた」気持ちと、その反動で何かを信じることが怖くなって日常生活に支障をきたしている場合も多いと聞きます。

でも、不信が支配するような世界は地獄でしょうし、「命がけで信じることのできる」自分にとっての真理を見つけることは、それぞれ一人ひとり向き合うべき人生の課題なのかもしれません。








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2013.11.14 Thu l 未分類 l COM(4) TB(0) l top ▲

コメント

こんにちは


イエスが
語った真理を

弟子たちは
完全な自由の中で
主体的に選びとった



お考えでしょうか?
2013.11.15 Fri l ウィル. URL l 編集
我欲による押し付けの法
いつも内容の深い、素晴らしいブログをありがとうございます。

誤った教えをこれが真実の法だと信じ、他人にその法を伝えたいという気持ちで、良識ある人が果して広めていくでしょうか。
そうではないと思います。
何らかの方法で洗脳するしか方法がありません。

K会の初期においては、会から押し付けられることなくみんな自発的に広めていました。
奇跡を目の当たりにして広めようと思うのは簡単ですが、法の内容によって広める強い想いを持つのは難しいと思います。
つまり、法が心の中の神理を目覚めさせるものであったということが言えます。
そうでなければ、広まらなかったと思います。
(以降は、方便の時代が終わる頃から法も変貌していき狂っていきました。)

正法を広めるのは、押し付けではなく正しい行為だと思います。
仏陀の時もイエス様の時も伝道していたと思います。

広める側には、悟りの境地の違いがあって、悟りの過程にある者は少なからず我欲が混ざっているでしょう。
その我欲は、伝える人を伝道するというものです。
K会でいう伝道目標数値です。
こうなれば、法自体、正法ではなくなっています。

正法を広めるところにおいては、法が素晴らしいという想いしかないはずなので、何人もそこに我欲は混ざりません。

つまり、我欲が混ざるのは、法に欠陥があると思います。

真なる法は、人々の心の中の神の心を目覚めさせるものだと思います。
そこに奇跡も現れてきます。

最近、K会員のブログに「自力と他力」について記していたものがありましたが、やはりK会の法の限界をみました。

他力をどうみるか、K会の法では、我欲中心に捉える見方から悟りの法へと結びつけていきますが、実はこれは誤りだと思います。
この他力の認識の仕方で、押し付けもまた発生してくると思います。
K会は、集金手段にまで堕落しています。

このブログによって、考えさせられることや気づかされることが多いので、これからもよろしくお願いします。
2013.11.17 Sun l XYZ. URL l 編集
Re: タイトルなし
> こんにちは
>
>
> イエスが
> 語った真理を
>
> 弟子たちは
> 完全な自由の中で
> 主体的に選びとった
>
> と
>
> お考えでしょうか?


コメントありがとうございます。

私の見方は、全くそれとは逆です。
群衆は、熱狂に煽られてイエスを賛美し、また殺せという。
あれだけ強い信仰を持っていた弟子すらも、師を棄てて逃げてしまった弱さを見れば、
意志を棄てて、「空気」に従わざるをえなかったものが、「すべて」と言うことが言えるでしょう。

三度否定して号泣したペテロさんの罪も、
裏切ってしまったユダさんの罪も、
私たちは持っているのでしょう。

でも、その罪さえももっと大きな恵みに変えてしまうのが、神さまのみわざでしょう。

2013.11.18 Mon l confessius. URL l 編集
Re: 我欲による押し付けの法
いつも心から感謝しています。

私は、最近、K会及び、ORが「本質的に悪」というよりも、
単なる「魂の力量不足」で分相応だったにすぎない、と考えています。

これについては、また別の記事で書かせていただきますね。


このブログは、
みなさんを「被害者」で終わるのでなく、
見る人の心に光をともせるくらいの愛をこめてK会の限界を超えてやろうという気持ちで光を込めてやっています。






> いつも内容の深い、素晴らしいブログをありがとうございます。
>
> 誤った教えをこれが真実の法だと信じ、他人にその法を伝えたいという気持ちで、良識ある人が果して広めていくでしょうか。
> そうではないと思います。
> 何らかの方法で洗脳するしか方法がありません。
>
> K会の初期においては、会から押し付けられることなくみんな自発的に広めていました。
> 奇跡を目の当たりにして広めようと思うのは簡単ですが、法の内容によって広める強い想いを持つのは難しいと思います。
> つまり、法が心の中の神理を目覚めさせるものであったということが言えます。
> そうでなければ、広まらなかったと思います。
> (以降は、方便の時代が終わる頃から法も変貌していき狂っていきました。)
>
> 正法を広めるのは、押し付けではなく正しい行為だと思います。
> 仏陀の時もイエス様の時も伝道していたと思います。
>
> 広める側には、悟りの境地の違いがあって、悟りの過程にある者は少なからず我欲が混ざっているでしょう。
> その我欲は、伝える人を伝道するというものです。
> K会でいう伝道目標数値です。
> こうなれば、法自体、正法ではなくなっています。
>
> 正法を広めるところにおいては、法が素晴らしいという想いしかないはずなので、何人もそこに我欲は混ざりません。
>
> つまり、我欲が混ざるのは、法に欠陥があると思います。
>
> 真なる法は、人々の心の中の神の心を目覚めさせるものだと思います。
> そこに奇跡も現れてきます。
>
> 最近、K会員のブログに「自力と他力」について記していたものがありましたが、やはりK会の法の限界をみました。
>
> 他力をどうみるか、K会の法では、我欲中心に捉える見方から悟りの法へと結びつけていきますが、実はこれは誤りだと思います。
> この他力の認識の仕方で、押し付けもまた発生してくると思います。
> K会は、集金手段にまで堕落しています。
>
> このブログによって、考えさせられることや気づかされることが多いので、これからもよろしくお願いします。
2013.11.18 Mon l confessius. URL l 編集

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