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4年間教会学校に関わってきているが、きっとどこまでいってもそこが原点なのかもしれない。

子どもと接する時、私は最大限の注意と尊敬をはらって、子どもたちの心になにかを伝えようとする。

伝える、教えるというよりも、考えさせ、気づきを促し、それぞれの心のうちにあるなにかに小さな火をともして欲しいという。


子どもの心は白い。

私は間違ったことを教えているかもしれないが、
それでも、自分の中で信じていることを、幼子の目線にまで下っていき、まっすぐに分かち合う。

彼らは、私たちよりもはるかに進んだ魂であるのだ。


何かを信じることができずに、心が汚れきってしまったと感じる私は子どもたちと遊ぶたび、「戻ってきた」と感じる。

授業のプリントを作りながら、心があらわれる。


教会は宗教云々よりも、まずは「あたたかい第二の家」のような存在であって欲しい。

教義や、解釈よりも、人生の困難に出会った時、ヒントを得、乗り越えていく、支えの場所であってほしい。


「宗教」にまつわるドロドロさは一切ない。

昔からその地に根付いてきたホームのようなあたたかさ。



私は、「キリスト教」を教えるというよりも、
あなたがた一人ひとりは大切な存在だ、愛されているんだよというメッセージを伝えたかったし、
子どもたちは生徒というよりも、友人であった。


これから、この子どもたちの人生にどんなことがあって、友人たちとどんな感動や涙を綴っていくのだろう、
苦難もあるかもしれない、
でも、負けないでほしいと、切に願う。


ちなみに、観察しているところによると、
教会育ちは、中学生以降グレ率が高いのではないかと感じる(笑)

しかし、根はいい。
「裏切ってはいけないものがある。自分を信じて見守っている存在がある。」とどこか心の中に意識がある。

罪の意識を植え付け、「いい子」で育っていくよりも、きっとおそらくそっちの方が健全だ。

いざという時には、教会のイベントにかけつけてきて、手伝いながら、ときに酒を交わす。


本当に大切なものは、
「愛だ」「神だ」「真理だ」と、理屈とかにすると、いとも簡単に傷つけて穢してしまうような気がしている。
それができる人がすごいと思われがちだし、自分のやってきたことはそれに他ならないのだけれども、
最終的には沈黙して感じ取ることが「いき」や「聖」を守ることなのだろう。

普段は意識しないし、よく学んだこともない。
そして、言葉に出さなくても、そっと守っていけるような。


それでいい。

それでいいと思う。





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2013.10.12 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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