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新約聖書のパウロの手紙を読んでいますと、
彼はどうもルサンチマン(怨恨)を棄てきることができず、
自分の弱さや罪にも苦悩していたのではないかと思われます。

「自分のような人間的な弱さを持ち、サタンの誘惑にかられるものが、神の使途として大役をつかさどっていいのか、
いや、弱い自分だからこそ神は選んでくださったのだ。」
というような。

おそらく、人間を苦しめる最も強い感情で、また棄てきることの難しいものは、
「憎しみ」「許せない」「復讐してやる」
という気持ちだと思います。

仏教では、「怒りは毒」であることを明確にし、
「怒らないことによって怒りに打ち勝て」と説きます。

一番弟子のサーリプトラに至ってはすごくて、ある嫉妬するバラモンからこん棒で殴られても「ああ、痛みが生じて消えていくだけだなあ」ということ以外頭になく、そのまますたすたと歩いて行って、
それだけで、そのバラモンを震撼させ、回心させた(勝手にした?)そうです。


ハンムラビ法典の「同害復讐」は、「復讐を認めるが、決められた以上にはしてはいけない」という戒めの法律だったようです。

キリストに至っては、
「歯には歯をと思うな。右の頬には左の頬もだせ。上着を取られたら下着も与えろ。」と常人ではできないようなレベルの道徳を説きます。



パウロはどうでしょうか。


「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。
『復讐は私のすること。私が報復する。』と主は言われる。

あなたの敵が餓えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば燃え盛る炭火を彼の頭に積むことになる。

悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。」
(ローマ信徒への手紙 12)


つまり、自分をいじめる人がいたら、イエスの説かれたように、親切にしなければいけない。
・・・が、やはり憎しみは消えないわけです。
思いっきり、復讐をしたり嫌がらせをしたりして、彼の苦しむ姿をみて
「ははは、ざまあ見やがれ、よくも俺を騙したり、苦しめたな。当然の報いだ」と高笑いしたいところですが、
復讐はいけないのです。
分かっているのですが、したくなるのです。
そこで、パウロは神に復讐をさせます。自分の怒りを神に代弁してもらうのです。


やはり、彼の心の中には復讐したくてしたくてたまらない気持が隠れていたとしか読み取れません。

そんな彼なりに苦しんだ結果、方便を言い聞かせたのでしょう。
実際に神の怒りや罰というのはなくて、ただ、自分のなした悪が苦しみとなって本人に尽き回るだけです。


(思うに、ユダヤ民族と言うのはいじめられていた民かつ、自分だけ神に選ばれた特別な民の自覚があって、
周りの強い民族に対して復讐心を抱いていたのではないか。
そして、父性的で厳格な裁きの神も、人間に完璧を求め、それ以外許さないという脅しがあり、
キリスト教も、人は皆「罪人」ということにしてしまい、鞭のあとのアメの、ダブルバインドで、すべての人を教会に取り込んでしまった側面も否定できないのではないかと。まるで、ACのできる家庭の映しのような。詳しくは別の機会に。)


「勝手に相手は自滅するからお前は手を下すな。したらお前も不幸になるぞ。」という。

親切をされた敵からは、「なんかおまえ別の動機が隠れてないか?たくらんでないか」と思うこと請け合いなのですが。
親切をすれば、やはり自分に返ってきますから、本当は復讐のためというよりも、「自分のため」でいいんじゃないでしょうか。



因果の理法から言いますと、
自分が親切にしたことはすべて自分に福楽となって返ってくるし、
相手がどんなに悪かろうが、他人にした嫌なことは、自分に苦しみとなって戻ってくるわけです。




アンチを辞めるのは、「それがいいことだから、悪いことだから」「人に辞めろと言われた」よりも、
一番は「自分が楽になるため」と考えたらよいのではないかと提案してみます。

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2013.10.11 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

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