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K会を去った後、私の中には一切の霊的なものに対する疑で満ちていた半面、心の奥底には「本当の真理・浄福に到達したい」という欲求が強く渦巻いていた。

疑というのも、罪にほかならないのであるが、盲信への堕落への堤防ということを考える限りでは役割はある。
とはいえ、疑のうちでは人は絶対に浄福に到達することは不可能だ。

幼子が親の愛を疑いもなく信じ、飛び込んでいくような信がない限り父なる真理には到達しえないし、
断言するなら、信のうちにしか幸福はあり得ない。



高橋信次の『悪霊』を読み、ああ、やはり悪霊はいたのだと感じる。
読んだからそう思うとかいうのではなく、悪霊の存在を前提にしないと解きえない運命や現象があまりにも多すぎるからだ。

ただ、いい方がきついと感じる。
これはK会の「悪霊を忌み嫌い、恐怖に陥れる思想」に相通じるものがあるとも感じた。
あるいは、悪霊の存在を持ちだすことは、多くの誤った宗教に利用されることもあるだろうなと思う。


悪霊が暗躍しているのは否定できないが、
苦しむ人を忌み嫌い遠ざけるような、あるいは恐怖に陥れるような「スピリチュアル・ハラスメント」だけは本当に心しなければいけない。
それがあるため、ほとんどの人が、霊の考えを遠ざけて、嘲笑するようになる。

私も、K会時代は常に悪霊の存在に対して神経質になっていたし、落ち込みの状態にあってそこから抜け出せない時は、「これは、悪霊か、あれは悪霊か」と、正体のわからぬものを恐れて、自分を責め、心が安らぐ時がなかった。

「迷いの中の是非は是非ともに非」である。



問題は悪霊の存在の証明よりも、
まずは、光溢れる魂を取り戻すことが先決なのである。







伝統宗教は、もっぱら学問と儀式に堕していて、魂の救済へのコミットメントは少ないのではないかと感じる次第だ。
ただ、それが、垣根を低くして、気軽に入れる雰囲気を作ることは歴史のなせるわざだろう。

教義の論争や、組織の在り方大きさなどで仮論を重ねることは愚の骨頂と言わざるを得ない。
それは、形を変えたエゴイズムなのである。
愛と信に基づかない組織は冷え切ったものである。
ただ、それを求めるあまり、一切を否定することは憎しみにも転化しやすい。
利権をいくら嫌えど、利権は持たねばならぬ。問題はその扱い方である。清濁を併せ飲むということが必要。



S会の折伏に何度もあったことがあった。
魂や霊の話題を心からシャットアウトしていた私は、宗教はどれもインチキおよび、それなりによい、と
S会の信心の誤りを「疑い」のなかで見つめることはあれど、それを喝破することはできなかった。
やはり、伝統宗教にそれをできるエネルギーもパワーもない。
学問は、日常の場からそれを奪い去ってしまった。


「宗教はどれも同じ。インチキ。」という立場からでは、決して本質は掴めない。

道理を知らぬと、素人は簡単に丸めこまれてしまうであろう。

そして、道理に従わぬまま、欲望を増幅し、悪霊を引き寄せるマントラを唱えても、それは余計に精神を破綻させていくのみである。



正しい、心と行いの法則を学び、魂のレベルを上げていけば、
「是は一理あるが、根本的にここで過ちがある」ということが見えてくる。

お経の意味を分かりながら繰り返し唱える行為は、
潜在意識や超意識にそれを染み込ませ、溢れかえらせる効果があり、それが達成されると、一切の願いが叶うようになる。

「ありがとう」を千回言うことも効果がある。


「信じる者は救われる」は過ちだと云う自力宗教の人は述べる。
曰く、「信じるだけで救われるのではなく、実践がともわなければならない。」と。
「盲信の行きつく先は、落とし穴」と。

私から言わせてもらえば、「信じる者も、信じない者も救われている」。
神の救いには人間は逆らえない。

神の救いに逆らおうという自由もある、救いが信じられない、というのが、地獄の姿。
(キルケゴールが、『死に至る病』で、自分自身であろうとしながら、なおも神に反抗するという絶望の段階を挙げている。言わば、絶望にある地獄の住人はどこまでも真摯であるということができる。)

信仰とは、いわば地上においてこの救いを受け入れ、次に道理を悟るきっかけに過ぎない。

からしだね一粒の信仰でよい。
神は我々をとにかく救いたがっている。
信仰とは神の光を全身に注ぐ切れ目でしかない。
ほんの小さな切れ目で神の愛は十分に満たされるのである。


我々が、十字架を切る、手を合わせるというのは、
私がそれをなしているのではなく、神や仏が、我にそれを為さしめているにすぎない。


善行による救いというのは、ただ、善いカルマを積んでそれが自分に返ってきている分にしか過ぎず、なんら救いの条件ではない。
根本には救われているという前提がある。

でも、やはり善いカルマは積んでおいたほうが幸福に生きることができる。





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2013.10.07 Mon l 未分類 l COM(3) TB(0) l top ▲

コメント

不滅の心
>問題は悪霊の存在の証明よりも、
まずは、光溢れる魂を取り戻すことが先決なのである。

>信仰とは、いわば地上においてこの救いを受け入れ、次に道理を悟るきっかけに過ぎない。

>根本には救われているという前提がある。


この通りだと思います。
神は到る所に救いをご用意しておられると思います。
しかし、救いは祈っても願っても聞き入れられないではないかと、絶望する時も人間ですからあろうかと思います。
しかし、神は最初から最後まで救いを用意しておられると思います。

それが、内なる神の心だと思うのです。。
この心は清く強く、不生不滅、永遠に全く変わることなく無限の力を秘めています。

救いは、実は自分自身の中に下さっている。

このブログを読めば、それが良く理解できると思います。
2013.10.07 Mon l XYZ. URL l 編集
Re: 不滅の心
いつもコメントありがとうございます。
感謝しています。


この問題については、まだ自分の中で整理がついていない部分もあるし、
「自助努力の放棄か」や「堕落の肯定か」という批判も出てくるかもしれません。

こうではないのかという、神仏からの教えを受けた人がいれば発展のために意見やアドバイスやヒントをいただけたら嬉しく思います。


「神仏の前でどこまでも恥ずかしくない心を持てるか」と訊かれて、
自身をもって「はい」と応えられる人はごく少数でしょうし、
そこらへんのひとで、「はい」と応えてそれを人に押し付ける人がいればそれは偽善者だろうと思います。
律法学者や、「賢くないのに自分は賢いと思い込んでいる人」のことをイエスやブッダは厳しく戒められました。

また、日本神道の神や、旧約聖書の神の一部は、必ずしも清明でなく、嫉妬や復讐をして暴れまわるものもあり、「あれれ」と思うこともあります。
「神さまだって失敗するんだから、人間はもっと謙虚にならなければいけないよ」というメッセージなのかもしれません。


実は、聖人と呼ばれる人ほど、罪の自覚が多いと。

そして、本当に救われるべきは、立派な人ではなくて、罪人であるというのが、イエスの教えの核心なのです。

K会は、人に「律法学者になれ」と言っている教団のような気がして、心の安らぎがありませんでした。


「仏教は心の病院」という雑誌の見出しを見たことがありますし、
キリスト教においても、イエスは病人や罪人に天の国の到来を告げ知らせました。

むしろ、危険なのは、自分が罪人だと自覚していないほうだと思い込んで、隠している方が危険なのです。
裁きを恐れてどこまでもまったき者であろうとする心が、自分を苦しめているのではないでしょうか。

「罰したりしないから、私のところに戻っておいで」というのが、神の愛の働きなのです。

という意味で悪霊思想は他力を排除して、すべて自分でなして、どうしようもない不幸も本人のせいとされるのは、きついことだろうと思います。
自分という罪人を生かして下さっている神仏と万物への感謝が、罪を善行以上の恵みに変えるのではないかと私が神仏ならそう思います。


ネット上で、宗教、とくにキリスト教の掲示板を見ていますと、やはりどこを見ても荒れます。
魂の救いにならない文字だけの教義や、意見の違うものへの断罪。いちいち挙げると枚挙にいとまがないくらいで、「自分の今まで生きてきた常識がおかしいのか、彼らがおかしいのか」と苦しくなり、
まるっきり、地獄だなあと感じますし、私自身もそこであがいていたこともあります。

ただ、一つ言えるのは誰もが苦しみや見棄てられ感を抱え、救いを渇望しているということ。
それまで、世間に多く裁かれ裁かれてそこまでたどり着いたため、人を信じることができなくなっているということ。
だから、彼らを裁くのはお門違いだろうと、私自身忍辱しています。

誰も責める資格なんてありません。
その中で人を許せず、責めることが自分にとっても苦しみなのでしょう。

彼らが道理を悟り反省し善い行いを積むようになるには、本物の愛に触れ合う体験がないと、と思います。
それを受け入れるのは本人の心次第で、誰にも変えることはできないし、ただ待つしかないのですが・・・。

そして、私自身の過ちが浄化されるまで、自分自身も待たねばなりませんし、
皆さんに見守られていることに感謝しながら試行錯誤している次第です。



ただ、すべての人が真理に招かれていて、
どこかで、自分の力の限界を自覚する。
打ち砕かれる。
神にうち砕かれるというよりも、偽りの我の重さに潰れるといったほうが正解でしょうか。


ありのままを安心して神の愛の前に差し出すことが、自分を回復する手立てなのだろうと思います。


















> >問題は悪霊の存在の証明よりも、
> まずは、光溢れる魂を取り戻すことが先決なのである。
>
> >信仰とは、いわば地上においてこの救いを受け入れ、次に道理を悟るきっかけに過ぎない。
>
> >根本には救われているという前提がある。
>
>
> この通りだと思います。
> 神は到る所に救いをご用意しておられると思います。
> しかし、救いは祈っても願っても聞き入れられないではないかと、絶望する時も人間ですからあろうかと思います。
> しかし、神は最初から最後まで救いを用意しておられると思います。
>
> それが、内なる神の心だと思うのです。。
> この心は清く強く、不生不滅、永遠に全く変わることなく無限の力を秘めています。
>
> 救いは、実は自分自身の中に下さっている。
>
> このブログを読めば、それが良く理解できると思います。
2013.10.11 Fri l confessius. URL l 編集
神の救いを受けるものは、内なる神を愛する心
返信ありがとうございます。

確かに難しい問題でしょうが、単なる棚から牡丹餅で神の救いが訪れはしないと思います。
いくら能動的に願っても神の救いがない方は多いと思います。
我欲が心を覆っていると根本神への想いが曇り、想いが届かないと思います。

私は、創造主は心の中に神の心を下さっていると思います。
自分が罪人という心は美しい心です。
しかし、わざわざ罪人という人を創造されている訳ではないと思います。

信仰は、まず自分の中の内なる神の心に感謝して愛することが大切だと思います。
生は内なる神を見出す道だと思っています。

私がK会にいた時、脱会した時に洗脳や数々の不幸から救いを与えて下さったのが、その想いです。
そこから直ぐに立ち直っていきました。

内なる神の心を愛すれば、我欲は去り、神の救いが訪れます。

他人に対しても、他の人の中の神の心を愛すれば良いと思います。
我欲が混ざった言葉や行動を愛するのは難しいと思います。
自他の中の神の心を見ようとする想い、目が正見です。

憎い、復讐したいと思った時は誰にでもあるでしょう。
相手を許すといくら思っても許せない自分がいます。
普通に思えば当然だと思います。
他人を許すとは、自己の中の神の心が相手を憎んでいる苦しい自分を許すことでもあるとある日気付いたのです。

全ては、内なる心の中に神は救いを用意してくださっています。
そして、内なる神の心は、創造神や他人と全て繋がっていると思います。

内なる神の心(魂)に感謝して愛する時、創造主は傍らに居られます。
遠く届かない宇宙の根本神ではなく、正に今ここに神は居られます。

我欲は対象を求めますが、内なる神の心を求めません。
我欲を排せようとすれば、K会の誤った悟りの法になります。

我欲を排するのではなく、自他共に神の心を愛する心こそが、我欲を去らせ、神の救いが今まさに、自分の内に存在しているのです。
そこに奇跡とも思える神の御技が望んでくるのです。

ですから、神の救いを望んでも一向に救いの無い方は、内なる神の心を愛するようにして欲しいのです。
これは、私の経験です。
2013.10.14 Mon l XYZ. URL l 編集

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