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急に叔父から電話
「祖母の容体がやばいから、島根に今すぐ帰って来い。来なきゃ、お前もう人間じゃないからな。」
てなことで、「死に目に間に合いますように」と祈りつつ、交通手段がないので、動揺しながら、喪服に着替え、電車に揺られる。

親に電話すると、
「え?容態良くなったから、帰って来たよ。」とのこと。
叔父がつきっきりで酔っ払って、「狼少年」やったそう。
一応、明日島根の実家に戻りお見舞いに行ってきますが、
危篤でなくほっとしました。


さて、私は個人的に「人は死んでも死なない」派です。
どっちかというと、「永遠の生命」が本体で、いま生きてるつもりの人生って、その先っちょみたいなもんです。
なので、死は別に悪でも悲惨でもない。魂が身体から解放されて軽く自由になる。
こういうことは、特定の宗教のドグマを超えて、ちゃんと科学的、学問的に研究が進んでいます。

祈りや波動を送る、という非科学的な目に見えない行為が、実際の医療の効果をあげることが証明されています。

死んだら、光のトンネルを通るだとか、天国に行く前に、
自分の他人にしてきたことを全部経験させられて反省が終わったら魂は清められて上の世界に行くとか、
すべての生命体は猫でつながっているとか、
古今東西同じことを違う表現で申しております。

猫じゃなくて根っ子でした失礼。

ローマの哲人キケロは、老人の死は成熟の結果としての良きことであり、仮の宿から、本当の家に帰るようなものと言う。
ソクラテスは、「死とは人生で最も良いものだ」と言い放ち、進んで死刑になっていき、死ぬ前にもお弟子さんたちと死後の世界や魂の世界について理性的に語り合っています。
キリストは、自分が死ぬ前、死を恐れ不安がる弟子たちに、遺言として、「安心しなさい。私の姿は見えなくなるけれども、必ずまたやってくるから」と励まし、実際にまたやってきた上、聖霊の助けを送りました。
聖人って、そういうところ、世間の空気一切読まず変人扱いされますが、そっちが真理だから、何千年も残ってるんだよね。

なので、死は、生の反対じゃなくて、本当の生への移行だから、安心していいのです、ということですね。

市井の人びとは、そんな偉い方なんか恐れ多いから、やっぱり、ご先祖様とか、旧友とかのお迎えがいいね。

中間生に入る前に、肉体持ってる時にガイドとかあったほうがいい。

お坊さんとかは、お経の読み方じゃなくて、こういうことをもっと学ぶべきだよね。
分かりやすい現代語訳とかお経につけとくといいんじゃないかな。
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2016.05.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
キリストが昇天してから、弟子たちはずっと祈り続けていました。

ある日、キリストが送ると約束された聖霊がやってきました。

弟子たちの上にごーっと音がなり、舌のような炎が分かれて、弟子たちに下ると、弟子たちは異言を語り始めました。


異言というのは、霊的には、霊的な世界の秘密の言葉で、真言もきっと同じ。

神の霊が人間に臨むと、惨めだった人間、絶望的だった人も、人生を一変させられます。

祈る力もなく、呻き世を呪い神を呪い信仰を棄ててしまいたくなるような時もあります。

というか、「これは、神様に見せられないだろう」というような、誰にも告白できない心の痛みがあります。
しかし、キリストは、そこにまでやってきて癒しと哀れみを与えられ、口づけをして下さる。


神様は粋な計らいをなして下さるものです。



私、祈りながら、神に逆らってみることにしました。

「お前がいくら無限の愛でも、こんな自分の凍てついた心にまでやってくることはできまい。
私は、お前の愛を拒否する!」

と。

どうも、神様は敬虔なフリ、信仰があるフリをしていて、求めているところにはあんまり来られない。

自分自身を直視し、痛みを覚えながら、呻くものに対して、正面から答えて下さる。

神の前で駆け引きをしてはいけない。

ありのままでなければならないが、ありのままほど勇気のいることはない。



神の愛をさえぎることのできる闇はない。

神の愛を拒否する、という強い意志をもってしても、その愛の流れには逆らうことはできない。





2016.05.15 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
2016.05.13 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
先日、大川氏の講演会について記事をあげて、
「あんな風に人前で話すんだ」って書いてたら、
近日、数百人の前でお話することになりました。
とあるキリスト教系のイベントで。
十人くらいの前でお話したことが感動したみたいで、話してください、ということで。

私、一番人間的に社会不適応な部類に入ると自負しておりますし、
いろいろなしるしや証拠があるにもかかわらず、
「神様は俺を見捨てたんだー!」「罰を与えてるんじゃないか」と疑ってかかる不信仰な人間です。
「生きている意味がよくわからん」とものに八つ当たりするのも最近。
太宰治とか、浅野いにおの世界にどっぷり浸かり退廃的な切なさに浸る。

宗教者としては、いい素質なのかどうかは不明ですが、
社会的にはううむ。

はっきり言って、「自助努力」「与える愛、生かす愛、許す愛」「悟り」
落ちこぼれ組。



が、
こんな私でも、なぜか、ありえないほどの運の良さで、舞台が与えられる。
預言者の使命を与えられる。


キリストの弟子が、真夜中の嵐の船の上でビビってても、
キリストの神は、水の上歩いて船に乗り込んでくる。

弟子が全員師匠裏切って逃げて、
鍵をかけて家の中で震えていても、イエスはやってきて平安を与える。

ううう
書きながら泣けてきました。

これ、クリスチャンでなくても、
阿弥陀様でも、ご先祖様でも、神様仏様でも、いいですからね。


師匠を裏切った弟子が全員、死刑になっても喜びながらキリスト伝えたってすごいですからね。

で、アンチだったサウロが、いきなり回心してキリスト伝え始めたってやばいですからね 笑



こういう人間の話だから、神の愛にますます説得力が増す(笑)
神様がこういう器の人間を使われる謎。

自分が語るのではなくて、
キリストが、聖霊が、私を使って語る。

こんな自分を通して救いと福音を語る。
宣言する。


一万人の講演会以上のお話をしてきます!




ちなみに、よく私は死ぬことをよく考えます。
「暗くなるからそういう話やめようぜ。」ってなるけれど、
多分、感謝を増やすためにそういうことをしてるんだと思う。

難病で亡くなった人のFBのアカウントとか見て、生きている間の闘病日記が、超明るいわけです。
感謝感謝感謝で。

だとすると、死んでもいないし、五体健全な私たちはもっと感謝できるよね。
2016.05.13 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
大川氏に関しては、
嘘をついているのではなく、本気で「霊がやってきた」と「認識している」のだな、と感じました。

あれくらいの大人数の前で言えたもんじゃないです。

なので、大川氏の霊的な認識というのは、いかに一般社会から見て光景無糖に思えようとも、「現実」として、
リアルなものである、と。
規模としても演出としても、二千年前とは比べものにならないから、
「釈迦やキリストを超えてしまった」と認識するのも無理はないと思った次第。

まあ、
信仰の世界というのは、
「強く信じればそれが現実になる」という世界ですので。

ああ、確かに、現代の形骸化した宗教よりかははるかに救済力や霊性がある。

寺や教会も、そういうところは見習った方がよい。



キリストの奇跡も復活も、「ありえない」わけですが、私はあったと思って信じている。
で、神も実在し、人は死んでも死なないというのは譲れないわけです。


もし、k会及び大川氏を邪義として過ちを正して、真なる教えを説きたいという人が居るなら、
批判は、法とか社会学的研究とかカルト問題とかからでは絶対に根本的な解決は見いだせないでしょう。

実はあまり、カルト問題に際して霊的に救済をできる教会や機関は少ないわけです。

唯物的な現代社会において、霊的なことを打ち出せたら、独占市場行けるわけです。
で、何が正しくて何が正しくないかは、肉の判断では難しい。

その霊的なことが、信者を窮屈にしちゃった場合とか、ちゃんと、別の霊的なカリスマをもった人が救ってあげられたらよいのですが、どうも、それが少ない。

否定的な解除や、諦めではなく、
もっともっと、実在する神様の喜びに浸る解除、くびきからの解放と、
K会に負けないくらい、仏国土ユートピアを実現していくんだっていう情熱気概、霊性のほとばしりがあって、
初めてその人は自分自身を取り戻すんじゃないかな。




霊的な実在というのは、本当にあります。

で、そういうことももっと勇気を持って語って伝えていかなくちゃならない。

ホント、四面楚歌とか、狂ってるとか言われ、怪しまれますけれど 笑

一般人にとって、宗教も霊も、なんでも一緒なんで。


そういう社会的な使命には心から同感します。

でも、怖がらせたり、脅したり、見下してしまう、
「スピリチュアルな傲慢さ」が一番厄介なエゴなんですね。



個人的に、大川氏は、巨大な事業化で宗教家だと感嘆し、
非常に巨大な使命を背負っていると感じましたが…
キリストの「天の父」とは全く思えません。
もちろん、そう信じる方はそう信じたほうがよいですからお気になさらず。
「大きな役割の一つ」を持った方の一人なんだなあとは思いますが。

もちろん、東大出ろ、本二千冊かけ、講演会しろ、と言われてできるかといったらできない 笑
でも、神様とか、主とかいって、崇めてすがり寄って泣く気持ちにはなれない。

ゼロからこの宇宙を作り出した、人間のあらゆる想像を超えた百億倍以上素晴らしい方です、天のお父様は。







2016.05.12 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
大川隆法氏の講演会に参加してきました。
生で観るのは四年ぶり。

今回は、週刊誌やブログ的な批評とかヤジではなく、
もっぱら興味の関心は、「なぜ、こんなに人が集まるのか」という一点につきます。



ざっと見、大阪城ホールが埋まるくらいだから一万人くらい?
すごいなー。有名アーティストのライブとか、格闘技イベントくらいあるじゃん、と驚きました。
話の内容自体は、ものすごく知的で、最後の五分で講演会らしくわーっと盛り上げて結語。ちょうど一時間。
正直、涙が止まらなくなり、感動のあまり、いてもたってもいられなくなり、人生がすっかり変わる、というわけではなく 。

心に残り人生変わる講演にはやはり会場が満員になるほど人が集まる。人がたくさん入る講演は、講演者の声は会場の隅々にまで行き渡るエネルギー、圧がある。
講演の集客規模ってきっと内容よりも、「圧」に比例している。

話の内容もなるほどでしたが、
私の興味は、
なんで、こんなに人が集まるのかなー、
よく、数十年前は六畳一間くらいから始まって、これくらいビッグになったのかなあ、ということ。

あ、そうか、
「会員制度」をつくっているのだ。
そういうこともありますが、人前に立って注目される人のオーラってなんなんだろうということ。
その中心人物にエンターテイナー性があるとは思えないのですが、有能な人材が集まって、大規模なイベントや演出を作り上げている。


講演の名手といえば、
夜回り先生こと水谷修さん、
カトリック教会の晴佐久神父、
グリーフケア研究所のシスター高木、
実業家の斎藤一人さん、柴村恵美子社長。

ぶっちゃけ、10人の前で話す内容と、一万人の前で話す内容って、大差ない。
自分にとって価値のあるものって、確かに、規模ではないのですがね。
だとすると、そこを分けるものってなんなんだろう。


自分の体験談を「聞いてもらいたい」じゃ、絶対いけない。基本的に、人間他人のことには興味は持てない、自分のためになることを欲しいという本能で動いているから。
会場に来た人を喜ばせるにはどうしたらいいかって考える。

飛び抜けて知的であって、誰もが知らなかったことをバシッと言い、会場全体を驚かせること。人の受け売りがばれてはいけない。
(全ての知識は受け売りです笑)
「その人に何度でも会いたい」と思わせるような魅力。
暗かったり憂鬱だった人の心を明るくさせて、「今から変わろう!」って思わせること。
その話の興奮を隣の人と分かち合いたくなること。
何より、その人自身が話すことを楽しみまくっていること。

いつか、そういう講演会するような人間になりたいと思っています。
今は、赤面でうまく喋れず、たまに途中で止められ、ダメだしされ、の繰り返しですが、これがいつか、聴衆と感動を分かち合う感じになったら成功なんだと思います。


2016.05.12 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
幸せとは感謝。

感謝が深まるほど、宇宙は無限の供給を与えてくれる。

ありがとうありがとうありがとう。
2016.05.11 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
宗教遍歴が凄まじいなあと私自身思います。

K会から脱却して、「自分自身の信仰」を育てていくまでに、
それこそ、「出エジプト」のような苦難はあるわけですね。

それまでの、霊界観や世界観から離れて、何を頼りにしていけばいいのか。

何を梃子の支点として人生を切り開いていくべきか。

平凡な日常の幸せに戻っても、何だか虚しい。
かといって、霊とか宗教の世界はアレルギーがあるからもうごめんなさい。

キリスト教や仏教という伝統宗教は、
いい人も多いですが土着化学問化していて、どうも自分の悩みに応えてくれなさそうだ。

自分を信じればいいというけれども、
その自分というものがあやふや。

カルトやマインドコントロールについて学ぶことは慰めになる。

現代哲学にでも触れて、結局、わからないとうめき続けたり、絶望を受け入れるしかないのかなあ。

敬遠していた唯物論、客観主義を学び、「ああ、自分理性使ってなかった。騙されてた」となる。

原始仏典や、孔子孟子、老子、聖書から学び直す?
現代社会でそれ生きようとしても時代のタイムラグが…。
確かに普遍的なのですが。

原始仏教や禅、ヨーガは、現代になっても有効です。
私もヨーガ療法やりました。

ちなみに、オウム、アレフから独立脱退したひかりの輪は、
心理学や仏教哲学に、麻原信仰を脱却するものを見つけました。


本屋で並ぶスピリチュアルを独学で学ぶ?

私の場合、それ、大きかったです。
宗教と言っていることは同じで、身構えることも多かったし、当然、スピ系嫌いな人もいますし、
なんかの宗教と間違われること多々。

実際、実践することで、いろいろわかってきましたし幸福感も増しました。


それも有効ですが、古典は繰り返し読んでおくべきです。
人類数千年の英知が詰め込まれているわけです。
古典をろくすっぽ読まないで、「古い時代の書物は読む必要はない。新しいステージに私は居るのよ」「頭でっかちになっちゃいけないですよ」とか抜かすスピリチュアルを語る人間は信用しないほうがよろしい。
教養のある人間とそうでない人間は住む世界が違いますから、話も通じない。
どっちがいい悪いでなく、空ですむか水槽で住むかといった違いです。
(キリスト教を広めたのは、学問も身分もない人々に聖霊が降ったことによってですので、信仰と教養は関係ないかもしれません。)


こういう、現代世界の抱える矛盾に関しては、一般的な答え、万人にあう答えはなくて、
それぞれが、特殊な問題を持っていると思って、特殊な解決をはからなければなりません。

宗教的霊的な危機の時代というのは、
逆に言えば、真剣に自分の実存をかけて、真理を求めることのできる時代ですから、
一つの霊的勃興のダイナミクスを起こすチャンスです。

鎌倉時代にも末法思想という絶望が、鎌倉仏教を花咲かせ、
カトリックの腐敗から、ルーテルの信仰のみの戦いが起こったように。

これを読んでおられる方にも、その霊的勃興を起こす使命を持った方がおられると信じています。



私の場合、スピリチュアルや成功哲学で、そうとううまくいった部分はあります。
聖書にも実は成功哲学やスピリチュアルの真髄は散りばめられているのですよ。

とはいえ、
本当に自分の底の闇とか恐怖とかドロドロした部分、
絶望とか人間の矛盾の問題と対峙しなきゃいけないと思ってたんですよね。

ある種の躁鬱的な病理かもしれませんが、
大成功や野心、愛と感謝と幸福と人格完成や聖なるものを求める気持ちと、
『人間失格』のような人間存在のどうしようもなさといった矛盾した魂が同居していたわけです。

後者を、退けて扱わない思想が多いです。
だとすると、自分は、どうも救われないんじゃないか。
自分が救われないとすると、どんな善人ぶってる人ももれなく地獄行き確定なんじゃないか。
という恐ろしい結論しか出てこない。
カントの「根本悪」とか、親鸞の「悪人正機」に近い。

私の場合、かなり、わがままでして、
「人間失格レベルや、極悪人ももれなく救うそれくらい愛のある神や仏じゃないと嫌だ」
「自己責任ってきつすぎる」
と思うくらい、まあそこまでのモンスタービリーバー 笑

これを、学校とか会社に対してやっちゃ迷惑ですからいけませんよ 笑



この人間存在の矛盾を解消するのが、私にとってはキリストの十字架だったわけです。

イエスが、神であるかとか預言者の一人であるかとか九次元霊の一人とかいうのは、それぞれの信仰の問題に帰着しますので、わかったふりはできません。
それぞれ、魂にしっくりくるものを信じてください。
信仰は真心、深い心の問題であって、イデオロギーや思想信条であってはいけません。


さて、現代の教会がそういう生き生きとした信仰を伝えているかと言いますと、
もうほとんど儀式とルーチン。お勉強。
理由はわからないけれど、迷信のように定式化した祈りや戒律を守る。
新興宗教のほうが救いはあります。

かといって、異端のキリスト教も多い、と。

どうすべきか。

私ごときに、新興宗教を立ち上げる力はないし、カルト化するだろうなあという懸念も、
どこから見ても立派でない罪人の私がセンセイや教祖呼ばわりされるのもやだし 笑


探してると、
ちゃんと、生きている聖霊を伝えている方いますよ。

いないいないと嘆く前に、
アンテナしっかり立てて探してると、いい出会いはあります。













2016.05.10 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
いいこと言うこと、それ自体は、結構簡単です。

で、いいこと言っている方も、言っている自分に酔います。

なんか、悟った気になります。

でも、そのいいこと?主張?、否定された瞬間、
「なんで、俺のありがたい話が受け入れられないんだー」
って、なって、不快になって、イライラして、
悲しんだり、怒ったり、
相手の粗を探し始めます。

「こっちは悪くない!
向こうに問題がある!」

「向こうは不完全、
こっちの方が上」
とか思っちゃう。



仏像ですが、
あれね、
見てると、耳たぶでかいんです。
で、目つぶってニコニコしてると。

あれ、仏様って、聴いてるんですよー。
衆生の愚痴でも感謝でもなんでも全て裁かずに。

「そうなんだー、それは辛かったねえ。それは良かったねえー。」と。




若い時、
わたしゃ、k会にきれた。
嫌になった。

全部正論ばっかなんだけど、なんか、イライラするわけですよ。


これは、知識とか偉大さとかよりも、技術とか姿勢の問題かも。


「相手の面子を立てる技術」


宗教でもなんでも、
別の考え持った人と対話する時、
自分の宗教の凄さばっかりアピールしない。

謙虚に、お互い学んで、ちょっと褒める、
という姿勢があると、いいですよね。

もちろん、謙譲と言っても、自分のところ貶めるのではなく、
自分の信仰には誇りを持って妥協せず。


人の話をじっくり聞いて、相手の話を裁かずに受け止めたり、共感する技術って、大切ですよ。
「うちの信仰は素晴らしいから、お前もこうするべきだ」っていうのはやっぱやだから、
極力、「相手はこうすべき、ここが間違ってる」みたいなのをぐっとこらえて、忍耐強く、
動機の部分に触れる努力をする。

教えを押し付けられた側は、
「あ、この人、自分のことには興味なくて、結局、入会目的とかそんなんなんだな」って悲しくなります。


多分、宗教は、内容以前に、
「いかに相手の立場に立てるか。」ということにつきます。


その、批判をしたり論争をふっかけてきている人は、
本当は、その議題についてじゃなくて、
別の動機がある。

その本当の動機について、
どちらも、そして、誰も意識化できていないまま、
糸が絡まっているというケースが、
宗教に限らず、人が二人以上いるところどこでも生じます。



宗教のアンチになる人で、良識を持った人は、一概には言えないかもしれませんが、
傷ついた心や大切にされなかった、
軽く見られて、憤慨したということがあるのかも。

そして、宗教を擁護したり盲信する側も、
どこかに、恐れがあって、いたずらに、幸福アピールをしたり、自分の正当性をアピールする。しちゃう。

お互いに、「自由」ではないよね。


上と下の関係、
利害関係、
どんなに立派に見えても本当の友情ではないです。

お互いに尊敬しあい、対等の関係で話が出来たら、
それって、本物なんですよ。


私が、宗教に求める要素の一つって、
哲学でも、時代を開く霊性でも、スケールの巨大な法とか、
それ以前に、
「ありのままの自分でいいんだ」と安心していられる、暖かい場所ということかなあ。


本当に、議論するんじゃなくて、相手の心の本当に欲していることはなにかって、想像することは大切で、
いくらしてもしたりないですね。




2016.05.10 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
最近のマイブームは女性用ファッション雑誌と仏像です 笑
ちょっと前まで見向きもしなかったものに、まあ、一目惚れしました。レジ持っていくの違和感あるよー。
でも、気に入ったものに対しては心に素直になるべきだよね 笑





やっぱり、人間の心って奥で連動してる。
センセイといわれる職になって、えらくムカつく生徒が出てきます 笑
数年前の僕がもっとムカつく生徒だった。笑

自分の心を改めて、正しい対応をしていると、波動が合わなくなって、バイバイってなったかわりに、叩けば響く生徒と巡り会えて仕事が生きがい。


親とか、周りの人で、自分が前向き発言すると、
「でも、だって、どうせ、それはいいけれど」って、話の腰を折って、
「それ、波動下げるよ」って指摘しても、言い訳して自己弁護。

自分が毎日感謝を始めると、苦手な人が別人のようにいい人になってる奇跡 笑
自分の中の優柔不断さ、被害者意識、恐れは、他人の嫌なところも引き出して、同じ闇の凹凸の関係。

他人のコントロールを手放して、自分の心を感謝で満たすこと。

ブログで匿名で悪口や批判のオンパレードにいつも怯えていた時代がありましたが、
自分も、自分が正しいと、弁護しようと、争っていた。


「どっちが正しい」とか、
これは罪と罰だ、自業自得だっていう考え方
から離れることね。



環境は自分の鏡という理論、
頭や言葉では説明もできたし、知ってたつもりだったけれども、
体感としては、
胸のあたりでほわーってなる感覚、
聖霊が別々の個体を心の次元で一つにつなぐ感覚で、実感できました。




そうねー。

もし、宗教やってる人で、世の中を良くしたいとか真理を伝えたい人、
組織にいて、周りが困った人という場合、
フォーカスを自分自身の幸福とか、感謝の量を増やすとかにすることが、なんだかんだで一番手っ取り早い目標達成の道かも。


2016.05.10 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

2016.05.08 Sun l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
愛されていなかったのではなくて、
愛を拒絶するっていう選択肢を選んでいただけなのかも。

2016.05.08 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
諏訪大社の御柱祭りを観に行き、
神社や自然に触れてきました。


僕の先祖はおそらく、タケミカヅチーオオクニヌシーユダヤ。
私の出身は出雲。出雲大社では、大国主命をお祭りしている。
大国主命の次男が、タケミカヅチの神。
タケミカヅチは、高天ヶ原が国譲りを迫った時に、最後まで抵抗して、諏訪で敗れた。しかし、原住民の諏訪一族と共同統治をした。
ちなみに僕の母がたの旧姓が諏訪部。先祖は神社で神官をしていたという。祖父の生い立ちについてはあまり語られないが、関東大震災で被災して、親を亡くし、島根に戻ってきたよう。

諏訪とユダヤには共通点が多くある。
タケミカヅチが来る前、そこには「モリヤ一族」が統治していたが、その末裔は今でも祭祀を司っている。
正体不明の「ミシャグジ神」に、鹿の生贄を捧げたり、息子を神に捧げてそれを止める、旧約さながらの儀式が存在する。

御柱祭りは、何のシンボルか。
神社のお宮が子宮。参道が産道。
で、棒が立つ、と。その棒を、多くの男どもが神社に運び込む。
行われるのが、「こどもの日」「母の日」。

あと、木の柱には、天と地を結ぶ意味がある。
人間というのも天と地を結ぶパイプだ。
これは私だけの大発見。
キリストの十字架は、縦が天と地を結ぶ木の柱。
横に聖霊が生きとし生けるものを結ぶ。
真ん中に、死と再生と永遠の命と私が交差する。

日本にも、一神教における唯一の神は存在し、
「アメノミナカヌシ」と呼ばれているが、古事記では、
「ある」だけで、しょっぱなから姿を隠したとされている。
きっと、日本だと、大自然があまりにも豊かな霊性を与えているため、その背後とか、根底にある巨大な一つの霊を格段求めたり意識する必要はなくなったんじゃないかな。あまりにも霊に満ち溢れていて、その奥に観念や思想が付け入る隙間がない。
現象の全てが、山とか風とか岩とか山とか木々とか言葉で分節化できずに一つの精神的な連関で生きている。
人間と自然は切り離されるんじゃなくて、ひとつ。
世界に生きる生命の全てが、アメノミナカヌシという大元のいのちの展開。日本は、神の霊の陽の極。
2016.05.08 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
毎日、一日十個、感謝できることを書き始めました。
ありがとう
ありがとう
ありがとう。

母の日だからかどうか知りませんが、両親と会って参りました。
物心付いた時から、癇癪を起こされ、叩かれ、机やカバンを管理されは当たり前。
10年前は、あまりにも辛くて高校サボったら、深夜に部屋のドアを蹴られ、「お前なんか産まなきゃ良かった、どれだけ貴様に投資してきたとおもっとんじゃ、死ね」。
6年前は、公務員になれと追いかけてきた母から逃れようと家出して東京じゅうを逃れ周り、警察のご厄介にもなりました笑
5年前は、自殺未遂をしたあと、病院に相談もなしに入院させられかけ、受付で母を蹴り倒しました。

4年前、クリスチャン(とは言っても、完全に似非)になったばかりの私の初告解。
神父様から、「プレゼントと一筆書いて送りなさい。できますか?」と言われ、しぶしぶ実行。
数年間包装紙まで大切に保存してくれていました。
2年前、朝から晩までひたすら「内観法」といって、
「してもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたこと」を時期に区切って思い出していく作業をする。してもらったこと、迷惑をかけたことはひたすら、してあげたことは皆無であることに気付く。
現在では、会うたびに
「あなたはうちの宝物ですからね。」「あなたならできる!大丈夫!」と言われる始末。
自分の心と魂の成長と、環境はきっと連動している。
詳しくは別の機会に。
2016.05.08 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人間の悩みと喜びの多くは、
「その共同体の中で、重要感を持てているか否か」
ってことでしょうね。

認められたくて仕方がない。

人間無意識のうちに、その共同体がいかであれ、そこで認められるための振る舞いをしてしまう。

独裁者の命令に従う公務員もそう。
いじめを見て見ぬ振りをして加担する生徒、教師もそう。

仕事が嫌なのは、仕事そのものが嫌なのではなく、会社で自分の重要感がないから。


受動的に共同体に受け入れられるために振る舞う頑張りは幸福ではない。

能動的に自発的に「誰かの役に立つ」「喜んでもらう」っていう態度と、感謝の念を増やすことが幸福。




2016.05.03 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
上祐史浩氏と対談したり、
大川隆法氏の講演会参加の予定。

昔は、ある種のジャーナリズム根性のようなものを持っていて、
手柄を立てたい、みたいなことがあったのですが。

大川きょう子氏とも、
種村修氏ともお話したこともありますが。

信者や興味のある人は「会えた見れた」で大興奮で人に話したくて仕方がないのでしょうが、
いつの間にか、そういうのがなくなってきたわけです。
もちろん対等な関係と思えるほど身の程知らずでもない。

自分のフォーカスが他人、ではなくて、もっと大きいところに向かってんだと思います。



みんなが、野次馬根性で「どんな話でしたか」って興味を持ってくる人
それに応えることや注目を浴びることで、ある種の陳腐な自己満足を満たしていたところがあるのだが、
注目されなくなると、孤独でたまらない、という惨めさ。

多かれ少なかれ、メディアってそんなものでしょうね。


ジャーナリズムも、宗教も、立派なところがある。
立派といっても社会的に。

要するに、いかに人目を惹くかってところに注心している。

自分の正当性をアピールし出してもつれ合いになり始めると、
なんだか、「自分自身の人生生きてねえな」って感じになる。

権力争いをしだすと、まあ、窮屈、息がしづらい。

トンデモでもいいから自己満足を追求して、孤独な姿ってのが、
人間一番輝いてるんじゃないか。



なんだかんだで、私は宗教が好きなんだなあと思う。
立派でもないのですが。

もう、宗教のことを考えるだけでドキドキしてにやけがとまらなくなってくる。
それが立派とか清らかとかネタとかそういうものさしではなくて、
学者が新しい発見をしてそれを分かち合うようなものに似ている。

ひたすらハイテンションで夜通し語りまくりたいわけ。

求道者とか道を求めている真面目な人とか言われるけれど、
ただ好きなのと、
確実に、劣等感とか心の傷だとかを自覚してるから、癒しが必要なんだろうねえ。

近頃は、宗教の疚しさも純粋さも含めて、一つ大きな流れのうちにあるんだろうなあって思う。
流れを見ているのが好きだ。
自分自身も流れを作りながら。




そのまま行けばいいのに、立派さとか、駆け引きとかの信仰になってしまうと、
不純。

純粋な気持ちをアピールし始めて、
私は正しくて立派ですみたいなことを、完璧な論理で主張し始めると、
それって嘘なんだよね。


御託を並べましたが、
まあ、純粋に楽しみです。

批評することも、いいなと思うことも、悩むことも、突き抜けてみることも。



2016.05.03 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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