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自分は取るに足らない人間とか、
不完全で、傲慢なやつだとか自覚していても、
それでも、それを受け止めて愛してくださる方がいるんだよね。

愛されていることを受け止めることが、
愛するということのはじまり。

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2016.04.26 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
信仰とは、教義とか考え方とか霊界の認識、神学を信じることだと思っていますと、まず救われない。
魂は永遠に安息を迎えることはない。
それどころか、他者の言うことに振り回され、自分自身を見失います。
自分は正しい、相手は間違っているってなると、神からの恵みは相当限定されてしまう。

自分自身の矛盾や罪に目を向けることができると、ちょっとチャンス。

神様とは、まあ、言って見れば、「親」ね。
本当の親。
あらゆる生命を愛によって生み出し、細胞一つ一つを気にかけてくださる、命の源。

この世界とは神の胎内。
もしくは、この宇宙は神の衣服。

人間の脳、理性は、この神の表象を探求するように作られている。
も一つ、
人間の脳はちゃんと生まれた場所にもどってくるように、信仰とか宗教の本能がインプットされている。

外なる真理の探求だけではなくて、内なる世界も追求するように、脳というのは作られている。
脳の奥深くには脳が消滅しても生き続ける魂とつながっている。

そして、魂は、無限の愛と光の海の中に生きている。
肉体を持つと、魂は言って見れば、辛うじて動く墓みたいなものに閉じ込められて、分離というゲームに参画する。


科学者や神学者が、この世界の中で発見できるあらゆる真理も、これ、衣装とか胎内のお話。

信仰というのは、
言って見れば、赤ん坊や胎児が、神という命の源である母親とへその緒でつながったり、もしくは、おっぱいを吸ったり、抱きしめられて安心を感じることに例えられるかもしれない。


神というのは愛。

「神は死んだ」
「神は妄想」
「神なんていない」

そういう叫びは、どうも、
「愛なんて存在しない。
誰か、僕を愛してくれ。
ほんとうの愛に僕を戻してくれ」
という悲痛な鳴き声にも聞こえる。


ちゃんと諦めずに求めていたら、必ず応えてくれる。


神学や霊界の認識をよく知っている子は、「お兄ちゃん」。
えばっちゃいけません。

本当に愛が必要なのは、ヨチヨチ歩きで泣いている弟、妹、
この世のことを知りすぎて得意げになっている子供たち。

信仰は、比較するものでも競うものでもない。

まっすぐに神様を慕う。
抱きしめられる。
抱きしめ返す。
愛されていることに気がつく。

で、その瞬間はいいけれど、また離れて愚かになる。

反抗もするし、神様を傷つける、
疑う、呪う。

それでも構わない。

やっぱり戻ってくる。
性懲りも無く、出て行く。

信仰のないやつだと恥ずかしくなる。

それでもオッケーだと分かり、恥ずかしながらも、父の食卓でパーティの食事を貪り食う。

神の前で清く正しくいい子だからって実は偉いことはない。みたい。
やんちゃ息子が帰ってきた方がどうも喜びが大きい。

それでいいじゃん。






2016.04.23 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
or氏が降ろしたキリストの霊言を読む、が、「これ、我田引水した別人のキリストなんじゃないか。」と。
まあ、レムリアのも似たり寄ったりだけれど。

やけに、説明的なキリストが、隠れた事実を明かす、というパターン。
形骸化した教会の限界を指摘するのは大いに結構。
ところが、そのまま、聖書の本当にいいたかったことや生命からのメッセージを汲み取らずに、
「だから、こっちの方が上。我が宗教は、(形骸化した)あらゆる世界宗教を乗り越えた」と宣言する。
とはいえ、イスラムにしろ、鎌倉仏教にしろ、元々は真なる宗教だったものが形骸化したのを批判して、原点に戻ろうとするのではなくて、新しい究極の原理を立ち上げるわけですからありっちゃああり。

まあ、それはそれで良いのですが。
いいたいことは、批判というよりも、私の霊的認識の乏しさとか、そういったことではなくて、
愛?
まごころ、を持ちたいということ、です。


霊言は、まず、学問的に矛盾していても論理的に整合性がなくても構わない。

四つの福音書も、聖書も、矛盾した箇所があるが、それは信仰上重要なこと。

問題は、霊的に、魂にとっての良い食物になるか否かという問題です。
キリストを復活させたのが、ヘルメスだろうが宇宙人だろうが、トンデモだろうが、そこは置いておいて、
心が震えるかどうか、魂にとっての真実か否かが問題。

つまり、そこに聖霊が流れているかどうか。

頭で議論し始めたり、
何か、神学的知識を追い求め始めると、魂と神との愛のパイプが詰まってしまう。

命に関する問題は、不合理でなきゃ説明がつかなかったり、永遠の愛をリアリティーを持って表現するには、
この世の言葉では語り尽くせない次元のものがあるわけです。

死んだ人の魂が、自分に語りかけてくるというのは、普通から見るとちょっと変でクールな見方で見ると絶対に理解できない。
けれど、愛とか霊的次元からすると、涙が溢れて止まらない真実だったりするわけです。


実は、教会で聖書が読まれる時、キリストご自身が語ったり、聖霊が働いて説教をさせたもうています。
なので、実質的に、霊言の働かない集会やミサってあまり意味がない。

聖書も、聖霊が働いて初めて魂の次元で意味がわかる。
神様から心の奥底に語りかけられている、「謎解き」みたいな書物。

宗教ってのは、神様、つまり命の源からの愛を伝えるための、人間が作った知恵であり容器であり道。

三位一体の教理は、よく新宗教に批判されます。
人間が作った神学で、えらい神学者も誰も説明できない、と。
私もそう思います。

ただ、私は、三位一体を「愛の交わり」として捉えると、ものすごくしっくりくる。

父は、我が子を愛する親、子は、差し出した手、聖霊が、助けてやりたいという愛の想い。
どれ一つとして欠けていると神様って人間と繋がらない哀しい存在。


で、霊言は誰にでも語ることができますし、語らなきゃいけない。

悩んでいる人や苦しんでいる人とかヒントを欲しい人を目の前にして、
祈るようにしていると、自分でも思っていなかった言葉が出てきて、目の前の人の心の重荷を軽くする。
それって、あなたが語ったようでいて、実は、聖霊が働いたってことです。

潜在意識の愛とか光の部分がぴゅっと必要なタイミングで、必要な言葉や態度を選んで、語らせる。

キリストの霊は、宇宙全体を支配する愛でありながら、教会だけでなく、霊によって祈るすべての人のところにつながる。
というか、いかに光が届かない地獄の底までも覆うほどの巨大な愛。



祈りが深まってくると異言とかで祈り語る人もいます。

自分の霊能力はすごいとか、霊界認識は広大無辺だとか、
結構ですけれども、
もっともっともっと心の深いところから溢れ出てくる叫びというかと愛。
それがあれば、苦しんでいる人たちは救われる。

こういうものを、今の諸宗教には持って欲しいものです。
教会、教団、組織や団体の問題ではないんです。
愛の交わりの問題。
教義とか考え方とかは違うですけれども、原点、そこ。
一つの生命の源からすべての生命が生まれ、根本では愛で結びついているんだっていう信仰。
それによって、矛盾を乗り越えていくんだという想い、祈りを発し続けていきたいものです。





2016.04.23 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「天使にアイムファイン」を三回観た。

人も誘って。

これは、宗教色がないからオススメできる。

一応私はk会の信者ではない。

そういう人でも、別の人に胸をはってオススメできるほど素敵な作品。




歴代の映画の評価

ノストラダムス
ヘルメス
は忘れた。

太陽の法…間違いなく最大の傑作。☆5

黄金の法…☆4 不可はなく、かといって、前作のような、いい意味のやばさがない。

永遠の法…☆2 一点の曇りもないヒーローヒロインの単純極まりない勧善懲悪に人間観の薄っぺらさを感じる。とはいえ、霊界の描写は美しい。

仏陀再誕…☆1 宗教バトルかなんだか。

神秘の法…☆1 もはやカオス。

ファイナルジャッジメント…☆3 監督が息子に。あれ、悪くはないじゃん。

ここら辺で、選挙全敗、離婚騒動、幹部の脱退と告発が相次いで、
私は、あと数年で崩壊すると読んでいたし、
ほとんどイジメに近い信者の傲慢さにうんざりして退会届を提出。



UFO学園の秘密…☆4 タイトルからしてもうやばい。終わったな。期待もしてない。
と思ったら、案外良かった。

天使にアイムファイン…☆4 提供が、「K出版株式会社」でないところを見ると、半ば自由な感じでスタープロダクションが作らせてもらえたのだろう。


いろんなごだごだをとおして、反省とか謙虚さとかいう動きが内部にあったのだろうか。

選挙も、
「第一党をとる。数億円などゴミみたいな。」
と豪語していたときは、絶対に入れないと決めていたが、
落選が続きまくり、惨めな感じになって、みないなところでも頑張ってるのをみると、
まあ、人間って情が動かされるものである。


神の作る流れというものがある。

威張ったりしていて、お金がたくさんできて数字も物質も豊かになっても、満たされないものがあるし、
インスピレーションも降りてこない。

逆に、学びのために逆境に触れるとそこから霊的な学びが始まる。


過ちを何度も犯しながら謙虚になって、純粋さを保つ人というのは強い。

何も持たないときに、理想と情熱だけ持っている状態って実は一番輝いている。





2016.04.06 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

無性に哲学したくなる時があるので、どうでもいいことを哲学してみようと思う。

時間は存在しない、ということ。

時間は壮大な妄想であるということ。

今、時間と言っているけれども、「時間」という言葉自体が、今ここの時間の現場から切り離されながらも、
時間というもの、その観念を考えている「とき」のなかで考えられている、抽象化一般化された時間。

これを書いていて、
書いた痕跡である、数行はある、今、ある、
ことがわかるのだが、
なんら、過去そのものが存在した、ということではない。

過去に起こったとかなしたことが、これを書いている現在において、現れながら、
同時に続いている。

そして、過去の痕跡や証拠は、すべて今のうちに現れて、
今は、今このときにすぐに未来に取って代わる。

完全な静止した今というものは存在しないのではないか。

しかし、過去も未来も、今のうちにはない。

今という波の盛り上がりが海面を伝わっていくように、
時間も流れるのか。

今という波の頂点に立った船に私という意識があり、
今を凍結させ確認することもできずに未来という波が次の瞬間訪れる。

未来が来た、今という瞬間に、その今はすぐさま過去になる。

また、過去を想起するときもそれが行われる現場は今しかないのであるが、
過去を想起している間にも、その想起される過去と生きている現在において、
未来は次々と今として生起していく。

時間を考えるとき、いつも人は、時間一般の観念を考える。

しかし、それは真の意味で時ではない。

真に確認できる時間は今のみである。

ところが今は絶対的に対象化して捉えることができない。
逃げ水のように、今と言った瞬間、その今は過去になり、蜃気楼のように消えていく。
私の意識のすべては、今のなかにあり、今のうちに生きており、また今から抜け出すことは絶対的に不可能なのであるが、
その今は次々とすり抜けるように背後にいく。

アウグスティヌスが、千何百年も前に「告白」で同じように時間について神に告白をするのだが、
私は、今において、アウグスティヌスの今を共有するのである。

すべての今は消え去る。

ところが、一切は、今、今なのである。

アウグスティヌスの著作の痕跡を通して、今に意識のある私は、今を考える。
一千年前の著作に、過去はない。


私が、時間とか今を考える時、それは、言葉を通してである。

言葉謎である。

時間とか今を、観念であるにしろ意識する時、言葉によらずそれを思考することができるか。

時間とは、ひょっとすると、誰か他者ー人間社会の構造から与えられた観念でしかないのではないか。

しかし、すべての生物や人間が滅び去ったと仮定しても、相変わらず、時間は動くものだと「思う」。

となると、時間とかTimeとかzeitとかいう言葉が消え去っても、人間の持つ時間とかTimeとかzeitの観念が一切消滅しても、
宇宙の運行と時間の言葉それ自体が指し示すものは無限に変わらないと、言明することができるのではないか。

とはいえ、その仮定は数億年後の未来の仮定ではなく、今である。

私は、やはり今においてのみ、時間を思考するのだが、
こうして言語を紡ぐ時に過去があったということを前提にしないとすべては成り立たないことを受容した上で、
決して過去はないということはできないのであるが、
しかし、過去は今のうちにはなく、ただ、今、痕跡として、私の脳にその像とか記憶が留まっているにすぎないのだ。


誰かが見ていると仮定して、未来に向けて文章を書くのだが、
未来における他者を想定する時、
おそらくあなた、(その他者)も、やはり今においてのみ、私の今という過去を共有する。

今を共有するということ、
聖書を黙想する時、過去の出来事でなく、現在にそれを体験する時、
生き生きとした今が現れてくる。

いのちとは、今を生きることのみによって共有されるのではないか。

日常とは、時間のうちにある。

客観的時間と、特殊的現在が分離している。
否、現在が、時間の中に埋没しているのだ。

生命は今のうちにのみ生きているものである。
時間を意識する時、生命は道具としての時間を生きるようになる。



2016.04.03 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
【叫ぼう】

もっと、感情さんをストレートに表現して生きなきゃ、と思いました。

作家というのは紙の上に世界を創造する神です。

どんなに辛いことがあっても「他人からどう思われるか」が強くて、決して感情を外に出さないで考え込んでしまう主人公を書いているのですが。


怒ると茶化される。
喜ぶと白けられる。
泣くと冷ややかな目で見られる。
楽しむと嫉妬される。


そういう奴らを勝手に頭の中で想定して、
っていうかそれが地獄の心なんだってわからずに、
そういう風に合わせてた自分がいた。

自分の心を押し殺したまま、
誰かに理解して欲しいとか何もしないで待っていた。

叫ばせて、暴れさせてみたら、痛かったし、書いてる方もえらいことになったと心臓ばくばくやったけれど、すっきりした。


ジョンレノンは、ビートルズを脱退して『ジョンの魂』っていうアルバムを作った。
レコードをかけての第一声が、「お母さん!なぜ僕を捨てたの」っていう叫び。

日本では仏教でもキリスト教でも静かな祈りしかしないけれども、
ユダヤ教なんかでは、嘆きの壁に向かって、揺れながら叫ぶ祈りを繰り返す。

あれって、一つの知恵。

古代ギリシャでも、悲劇というのは、
心のドロドロを浄化するカタルシスという役目があった。

カトリックでは告解という制度があって、
自分の心の罪を全て司祭にぶちまけて許しを受けるのだけれども、
あれも中世ではガス抜きとして機能していた。

日本人はなんでも理性で解決し、事なかれ主義でやろうとする。


学級崩壊とか、引きこもりとか、リストカットとかODとか、ネット掲示板の氾濫ってのは、
ああいう感情を外に出せず、マトモなフリに疲れた人々の呻きなのかも。

他にも叫んだのは、尾崎豊。ギターをステージでぶっ壊し、シャツを脱ぎ捨てながら目をひんむいて叫んで倒れるという
あれはロックンロールです。

実は、キリストも度々叫んでいる。
神殿で屋台をぶっ壊し回っている。
叫んで気が狂ったのではないかと言われた。


言いたいことを言って
叫ぶといいよ。
暴れるといいよ。

その時に、君を抱きしめて真剣に話を聞いてくれた奴が本当の友人だ。




2016.04.03 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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