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阿頼耶識理論。
人間とは、考えていることの総体である。
今まで、脳にインプットされてきたこと全ての記憶が、これからの人生のプログラムを作っていく。
なので、それまで、ついてないとか、失敗ばかりだったという人は、きっとこれからもうまくいかないことや不運だらけの人生がプログラムされています。
「ええーーーっ!俺、もう、失敗続きだったよ。どうしよう。
人生絶望的だ」
という人、
ご安心ください。
脳のデータは書き換え可能です。
今まで黒ばっかりだったら、オセロみたいに、白打って全部ひっくり返すことができます。
失敗とか挫折だと思い込んでいたことをみんな、
成功のために絶対必要なプロセスだった、やったー、ついてる、
ありがたいなあ
って解釈すると、
これからも、人生その良い解釈の通りに進んでいきます。
人生重要なのは、この「ひっくり返し力」です。
エジソン君って3,000回失敗しても、成功だと言い張り、
工場が燃えてもラッキーとか言ってた人ですので、
私たちも、もっと、人から変に見られようと、何があってもラッキーとか思ってもいいんじゃないかな。
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2016.02.23 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
http://www.all-nationz.com/archives/1034806317.html
聖書を読んで無神論者になる人は多い笑
マルクスとかニーチェでなく笑
私も昔、聖書読んで、息がつまるし、つまらないし文字は小さいし、ユダヤ人がどうとか知るかキョーミねーよって思ってました笑
聖書のやばい箇所全部調べて、「これやばい、あれやばい。テロ組織よりやばいんじゃね?」って笑
聖書は、道徳の本ではございません。
「神を信じろー!」という本かというと、それもうーん。

確かに、めちゃくちゃ高い道徳的な教えもあるけれど、
どちらかというと、「神の子でもあるにもかかわらず、道徳的になれない人間の弱さとかおぞましさ」を描写している。
で、人間って、信仰を持っているようでいて、持ってないってこと。
キリストの一番弟子だって、キリストが死刑判決受けたら、つい彼を呪ってしまったもん。
裸で逃げ出した奴もいた。
哲学者中島義道氏のあまりにも絶望的な人間のエゴイズムというか、運命というか、そういう一連の著作を読んで、
いや、読みたかないけれど、読まずにはいられなかったというか、
つい、買って痛快で繰り返し読んでしまうわけです。
西洋人もあんまり知らないで、聖書は素晴らしいことだけが書かれた神様からのラブレターだと思っている。
そうでなければ、「原罪」ばっかりが強調されて、
人間=悪だから、キリストを信じない限り救いはない、
地獄に行くみたいな迷信があったりする。
まあ、実際、聖書は神様からのラブレターです。
人格を持った、宇宙のプログラマー、サムシンググレートからの、
「全員、安心しなさい」っていうメッセージである。
信じるものは救われる、
信じないものも救われる、
善人は救われる、
悪人も一人残らず救われる、
大丈夫だよ、
というラブレターである。
全員にもれなく言ってるんだから、
「道徳のかけらもない悪人はお前は知らん!」とは言わない。
人間社会の理不尽で不条理な現実の底の底までも、すべて知ってるわけです。
でも、全員救われると言った。
中島義道さんだけでなく、
パウロも正義になれない自分に悩んだ、
親鸞も欲望まみれの自分に悩んだ。
道徳的な人間、愛にあふれる尊敬される人になろうとしても、
これはもうどうしようもないと失望した。
というか、テロや無差別殺人を犯してもおかしくない、
犯さないのはたまたまだという異常者の確信があったんじゃないかな。
善人どもの鈍感さにも怒りを覚えた。
どこにも救いはないと絶望した。
観念とか、
綺麗事じゃなくて、自殺するほど追い込まれていたかもしれない。
でも、そういう相対的な世界を超えて、絶対的な愛の次元からしたら、
それに触れるとすべてが変わってしまう。
エデンの園とか、神を求めるのって、
「母体回帰願望」みたいのがあるのだと思う。
神社でも、
参道=産道
お宮=子宮。
お参りって、要するに、生まれる前に戻って、また再生することです。
胎児の頃は、完全に安全で暖かな環境の中で何もしなくても幸せでずっと寝ていられた。
完全に無条件な愛の中でただ寝ていればよかった。
でも、10ヶ月たつと、胎内から出なきゃいけない、
で、100年近くの人生という過酷なレースに参加させられる。
ママと一体だった赤ちゃんは、強制的に、個人として引き離され、
「自分自身」にならなきゃいけない。
しかも、生きていくためには、純粋で清らかではあり得ない。
そして、二度とあの安心していた胎内や幼少期に戻ることは決してなく、
百パーセントしななければいけない。
その間、誰にも甘えることができない。
実存主義の実存というのは、英語でexistence
だけど、
人間の個人の存在って、宇宙から離れて(ex)存在している。
小学生低学年頃、多くの人が原体験として持っている、
「僕って死んだらどうなるんだろう。でも、絶対死ぬんだよな。
こういうこと、他の人は考えてないだろうな。誰にも話せない。
怖い虚しい。」
という頭が真っ白になるような、考えても分からない恐怖。
多分、あるはず。
それが、自我というものが自立し始めて、「神」から離れている自分に気がついた時。
それまでみんなと一緒にしていたけれど、ふと一人になって立ち止まって考えて、
自分自身がなんなのか分からなくなって、不安になるけれど、
そのまま日常生活を送っていく。
学校の授業中とか、みんなで遊んでいるとき、ふとした瞬間、
わけのわからない空しさや寂しさが襲ってきて、
どこかに帰りたくなる。
でも、それが、家よりももっと近いところなのだが、どこかは分からない。
成長するに従って、少年のときのそういう気持ちを忘れてしまう。
でも、ふと生きていて虚しいししんどいのだが、どうしたら満たされるのか分からない。
他のどの世の中や世界のものも自分の心を満たしてくれない。
でも、見えないようでも、
人間の心の奥底は、「神」、愛のエネルギーと繋がっているわけで。
人間
世界に孤独に放り出されたというよりも、
なんか、「この世界で魂の学びをしてきなさい」とか
「この世界をよくしていきなさい」
って、送り出されたような気がするんだよね。
あと、学校での道徳教育は必要。
道徳的でなくても無条件に救われるってのはあるけれど、
道徳的な努力がないと、その上で無理だーってなる過程がどうも必要な気がする。
「どうせ救われるから何をしても構わない」というのは甚だしい誤解。
現代人って、何が道徳の基準なんだろう…。
ほとんど、経済社会とか会社ではぶられないために形だけ守ってるみたいなので、
道徳心のかけらもない。
道徳的だと、偽善とか点数取りとか揶揄される。
なんだかんだで、
現代人の道徳は、漫画やドラマだ。
ちなみに、中学時代の僕の道徳の基準は、
車田正美先生の
「聖闘士星矢」とか「リングにかけろ」とかの漫画笑
ああいう男の生き様に、
いじめられっ子で殴り返せなかった僕は勇気を持てたわけです。
あと、「空手バカ一代」。
「空手に先手あり、されど私闘なし」
「力なき正義は無能なり、正義なき力は暴力なり」
「肉体を守るために戦うな、魂を守るためにこそ戦え」
手帳にメモってました。
学校の先生は、道徳の授業、実感のないテキスト読むんじゃなくて、
もっと生々しい体験を通じて考えさせるべきだよ。
ジャンプの漫画、
ワンピースとか、聖闘士星矢とか、暗殺教室、
いい話や友情や信じる心があるのは道徳。
太宰治の人間失格とか、
浅野いにおの「おやすみプンプン」なんか
陰鬱で破滅的なのは、文学。
宗教というものが描かれている漫画は、
手塚治虫の
「ブッダ」「火の鳥」とか。
「火の鳥」の宇宙論は、人間の生命が軽視されてて、とてつもなく宇宙生命が虚無で巨大な空間のように描かれていて半分ニヒリズムで、共感はできないけれど。
2016.02.21 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
旧約聖書、特にレビ記は差別に残酷な死刑のかたまり。
https://newspicks.com/news/1406758/

普通のクリスチャンが読んでも驚くそう。

神父様とか専門家にこういう理不尽なことを聞いても、あんまり答えてくれない。
多分こういうことだ。
草一本生えないような荒野に、エジプトから脱出して、カナンの地に行こうとか言うんだから、ちょっとした勝手な行動が命取り。
つまり、二十四時間非常時なのである。
震災が起こった時に、いつも通り、会社や学校に行って、人間関係とか機械の不具合でどうのこうの言ってる余裕はない。
そういう場所では、理性でなく、超越者からのメッセージを厳守することが、彷徨う民をまとめるのに一番重要。
そういう、何千人がホームレスで、都会じゃないよ、砂漠を彷徨ってる時に、理性的になってたり、きれいごとで人って動かないわけ。
土曜日は何があっても絶対に休まねばならないし、焚き木拾っただけでも死刑。同性愛行為も死刑。近親相関も死刑。そこまで厳しくないと、人はついていかない。
多分、二千年後の人類が、
完全な共産主義的な社会を完成させ、すべての人の人権が満たされて、地球人の幸福度99パーセントみたいになってたとしたらよ、
二十一世紀の世界を見たら、気が狂っていると思うに違いない。

国があるのは異常。
法律があるのは異常。
政府があるのは異常。
会社があるのが異常。
労働があるのは異常。
お金があるのは異常。
学校があるのは異常。
神の教え、サムシンググレートの法則って、時代によって、
伝え方、工夫していかないといけないよね。


どうも、人間の精神の歴史ってたどっていくと樹木みたいになってる。


カールヤスパースが、
数百年前後して、同時期に、人類は、
旧約の預言者たち、ギリシアの哲学者たち、釈迦、孔子、ゾロアスター
みたいな、人が、人類の精神の根っこを作っている、
つまり枢軸時代があると指摘している。
紀元前数百年から一千年くらいの間である。
紀元前後、イエス・キリストの出現によって、
「人は死なない」「全員が救われる」ということが証拠としてわかった。
古代に入り、
西洋では、プロティノスや、マルクスアウレリウス帝みたいな哲人が出てくる。あと、アウグスティヌスみたいな教父も。
日本でも、聖徳太子や空海みたいな人が出てきて、ほとんど神格化されている。古事記や日本書記といった神話も編纂される。
仏教でも、龍樹や無着、世親が出てきて大乗仏教を起こす。
中東では
ムハンマドが現れ、唯一神アラーへの帰依を説く。
ほとんどの人が、「根源的な一者」を体験し、指し示している。
空海はそれを大日如来と呼び、
仏教では空と名付け、
神道ではアメノミナカヌシと呼び、
プロティノスは、一者と呼び、
キリスト教では、父と呼び、
イスラームではアラー(the God)と呼ばれる。


さて、
中世に入り、
西洋では教会が堕落し、日本でも末法の世に入る。
ようするに、宗教組織の助けがなくなったり、邪魔になったりして、人間の努力で、悟りや救いには入れない上、
民衆は食うのに必死で、邪悪になるしかない。
この世が地獄みたいな様相である。
西洋では、エックハルトとか、ベーメとかみたいなのが出てきて、
異端視されながらも、再び、魂の根底にある一者を説く。
日本では、親鸞が、阿弥陀仏の一切衆生の救いを示し、
日蓮が、法華経最強を掲げる。
ここで、人類の精神は多様に枝分かれを始めた。


近世に入ると、
神とか神秘とかではなく、人間の頭とか理性とか、合理性、客観性が重視される。
多分
現代人の「立派っぽい常識」「学校で堂々と教えられること」ってそれ。
日本では、キリスト教は迫害され、その代わり、儒教的な価値観が幕府の統治の都合によかった。
一方西洋では、合理主義や理性が発達し、
王権が民衆によって転覆させられ、それが世界の常識として波及していく。
また、機械が生まれ、産業革命が起こり、
理性的でない未開の文明を次々と植民地支配した。
この世において、強い力を持つのは、理性と法だということがわかってきた。


それも、近代になって崩壊する。
理性が平和な社会を作るかと思いきや、第一次世界大戦が起こり、
世界は不合理な混沌がうごめいているというような認識が出てきた。
「神は死んだ」のである。
生きている神は死んで、人権思想とか平等とか民主主義というものが、
形を変えて普遍的な価値観を獲得した。
さらに、無神論、唯物論が支配し、
共産主義者たちが目指した平等な理想国家は、
反対者を何千万人も粛清するこの世の地獄になった。
後期近代になると、
伝統宗教は滅びたも同然、
カルトが栄えるようになる。
学校や政治を見てもわかる通り、
人間の主体は、過酷な仕方で縛り付けられ、少しでもその枠組みから離れたものに対しては、「異常!」と糾弾されるようになった。
キルケゴールは、100年も先駆けて、革命も戦争もない時代の、無気力で没個性的な世間の様相を糾弾している。

では、この時代の、霊性、スピリチュアリティとは?
混沌とはしていますが、「魂の目覚め」はあるんじゃないかしら。
大組織や1人のカリスマが世界をまとめるみたいなのはなくなって、
混沌の中で、一人一人が光を見出していく形。
樹木で言えば、太い枝がなくなって、無数の細い枝が分かれてきている。
多様性とその共存ということと、
個人個人の魂が自由な生き方ができるという、
厳しくあれど、素敵な時代。
反キリスト教という形態をとって、個々人が直接宇宙とつながるニューエイジ運動というのが、様々な形で世界に広がっております。
元はと言えばベトナム戦争に反対したヒッピーらともつながっているよう。
キリスト教の方も、歴史上幾度となく堕落は繰り返しましたが、
建て直しも幾度となくはかり、二千年に渡る長期政権を保っております。
先日も、カトリックと東方教会が教主同士対話をしました。
半世紀前に、開けた教会を目指す公会議が開かれて刷新されつつあります。
オカルトというか、スピリチュアリズムなのですがまあ、学問的にきちっとしているところといえば、
ルドルフシュタイナーとか、ユングとか、スウェーデンボルグとか、ブラヴァツキーといった、
神秘思想家が、やはり、人間の本当の姿は霊であるということを言っています。というか、そういう体験を学にしてまとめた。
あと、注目すべき点は、「輪廻」つまり、生まれ変わりを言っているということです。
キリスト教では認めないみたいですが。
ちょっと壮大なのが、ムー大陸やアトランティス大陸があって、そこでも文明があって、人間は進化してきたという。

新宗教の方では、
高橋信次という人がいて、心を磨くことで実際に霊道が開けるということとか霊界の仕組みとかを言って、これはすごい人だということで、釈迦の生まれ変わりだとか、
エルランティという地球神とか言われていたけれど、自分の予言通りに亡くなってしまった。
この人は名前はあんまり知ってる人少ないけれど水面下で与えている影響って大きいような気がする。
いい種もあったけれど
悪い種もあった。
神秘体験と個人崇拝に溺れたカルトを生み出したりとかした。
宗教が化石化している中で、地球の精神をまとめる根源の根っこや
現代社会生きる人を救う合理的な教えというのは求められている。
エル・カンターレという存在がいて、釈迦の本仏で、イエスが父と呼んだ神で、それが、地球文明や霊性を指導してきたという壮大なビジョンを掲げて、「私が地上に肉をもったそれだ」という人もある。
そういう世界はいよいよわからない。
ひょっとしたら、純然たる妄想の体系かもしれない。
目覚めたと思い込んだ人が傲慢になって、スピリチャルでない人を差別するかもしれない。

さて、別の方面では、
経済や日常生活とと精神的な話が結びつく。
今、流行っているアードラーの個人心理学、バカ売れしています。
謎の哲学者
ジェームズアレンの「原因と結果の法則」は、聖書に次ぐベストセラー。
これが、書店にあふれている、成功哲学の根っこと言われている。
原始仏教とか、古代ローマのストア派に親和性がある。
また、経済的な成功というのも、精神的な成功と結びついていることもわかってきた。
どうも言えることは、
グローバル化の中で、
混沌とした世相の中で、
「世界的な精神性の統一の原理」と、「個人としてどう生きていくか、幸福になっていくか」の二つが求められているように感じられます。
また物質的なものは、いやらしいものでも軽んじられるものでもない、ということ。
21世紀は、
ニヒリズムや物質主義や組織的な宗教といったものを通り抜けてきた。
人間の魂は何を志向しているのだろう。
「新しい魂、霊性が生み出されること」
だろうと思います。
今までの、常識とか、普通と言われたものが通用しなくなってきた。
反面、「自由からの逃走」(エーリッヒフロム)というか、
自分で判断しようとせず、周りに流されるままに生きる人が多くなってしまった。
多分、自分で考えて行動する人と、そうでない人は二極化すると思う。
自由で豊かになる人はもっとそうなっていくし、行きたいところにもいける。
逆にそうでない人は、固まって不平不満で盛り上がってそこからはい出せない。
堕落する人は堕落する。
何千年前の枢軸時代につくられた、人類精神の幹というのは、現代になって、ものすごく多様化と個人化を迎えた。
危機でもありますし、生みの苦しみやチャンスでもある。
聖書
論語
老師や荘子
原始仏典
再び丁寧に読み返すべきですし、
現代のベストセラー、真理を確かに語っています。
不易と流行、両方に精通する必要があります。
あと
数百年か一千年したら、
ゴムが伸びきって、また戻っていくみたいに、
いろんな宗教や考え方が、また一つの真理に戻っていって、
地球村が完成する
といわれている。
今世紀は魂の夜明け。
十代くらいの子が、スピリチュアルな話興味ある人案外多いので、
ちょっと嬉しくなる。
何聞かれても、答える自信がある。
というか、ガンガン質問してくれると嬉しい。
ソクラテスみたいに、質問と対話がほとんどの学校や教室を作るのが私の夢。
まあ、小規模ですができていますが、こちらから出ていきたいとも思います。

2016.02.21 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
私は、実は神である。

そして、これを読んでいるあなたも神である。

また、全ての人は神である。



聖書には、人間は神の似姿であると書かれ、
仏教では生きとし生けるものには仏の性質があると説く。
神道においても、宇宙の中心にある始原の神から分かれて、世界や神々が出来、そして天皇陛下や人間らにつながっていく。
私たちは、宇宙の根源の神の分け御魂をいただいて存在しているのだ。


ビッグバン以前、全ては一つであった。
神において同じであった。

宇宙が存在させられ、それが進化していく中で
いつなるものが、枝葉のように分かれていった。

しかしその本質は一である。

我々一人一人は、地球で生まれたが、その地球も宇宙の星屑が集まってできたものである。

私たちの存在は、宇宙の星々と同じなのだ。

そして、宇宙の全てとつながっており、ビッグバンとつながっている。

私たちの脳の奥には、宇宙の始まりから、全ての生命の進化の記憶が宿っている。


宗教や神話というのは、確かに嘘かもしれない。

しかし、脳の奥の奥、潜在意識や超意識は、それが真実であることがわかっている。

人間は、宗教や儀式を必要とする。

神が人間を作ったのではなく、人間の脳が神をつくったのだという人もいる。

確かに。

あらゆる人間の呼ぶ「神」は偶像でしかない。

しかし、
神そのもの、サムシンググレートが、人間の脳にそのようなプログラムを与え、神を探し求めるように仕向けているように思われる。

その、本当のいのちの姿は、
人間が地上で描くいかなる聖書や神話や宗教や想像の天上の様子よりも甘美で素晴らしい世界に違いない。


人間の心には、創造の力や、愛や、向上が宿っている。

神は、人間に創造する力を創造した。

神は、ご自身はキリストという例外を除き、地上にあまり介入せず、人間の自由を通して、世界を創造する。

人間は、神の分身であり、
世界に面した神の感覚器官である。

人間は、神の小さな細胞以上のものである。
大きさは砂粒以下であるが、格は自己があるということにおいて、神と同等なのである。




2016.02.15 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人間の意識には三層の構造がある。

「私」とか「世界」と思い込んでいる全ては、顕在意識。

その奥に、目に見えない、無意識とか、潜在意識とかいう領域がある。


さらに奥に行くと、超意識とか神意識とかいう意識がある。


潜在意識にたまったものが、顕在意識の世界を動かしている。


さらに、潜在意識にたまってこぼれ落ちた願いが、超意識まで行くと、
全ての願いは叶うようになっている。


イエス・キリストは、この超意識の秘密と一体化していた存在であったことが、分かる。
そして、それこそ自らのいのちをとしてまで、超意識の秘密を、世界全地に開示したもうた。

群集らは、顕在意識の次元でのみイエスを見ていたため、超意識に対しての目が開けなかった。


善行や修行では、顕在意識を美しく磨くことはできるし、ある程度潜在意識との交流もできる。
しかし、根本的にはそれだけでは、超意識とつながることはできない。

そして、万人が、修行なしで超意識につながることができる。
また、超意識も、常に顕在意識に能動的に呼びかけて救おうとしている。

それが、「信仰」である。

ゆえに、親鸞もパウロもルーテルも、「信仰のみ」と言い、
日蓮は、「この一乗の法にのみ帰依せよ」と法華経至上主義を掲げた。



祈ると「神が願いを叶えた」と言う。

実は、そう強く思い込んだ自分の潜在意識が、本当に現象界にそれを実現させてしまったのである。





2016.02.15 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
中世において腐敗したカトリックに対して、ルーテルは、
「信仰のみ」「万人が祭司」を掲げてプロテスタントが成立した。

カトリックは教会の巻き直しをはかりつつ、
プロテスタントや異教に対して、
「教会の外に救いなし」
を提示する。

組織化、ドグマ化した宗教に対して、ドイツの諺で、
「教会に近づくほど神から離れる」というものもある。


日本では、内村鑑三先生が、第三の「無教会主義」を立ち上げる。

組織化した宗教や信仰ではなく、一人一人が神のみ前に一人立たねばならない、と。

「信仰のみ」をさらに徹底させて、「反基督教」すらも自認する。


日本のカトリックでも、岩下壮一神父が、内村にお互いに敬意を抱きながら、互いに批判、切磋琢磨を図る。


60年代、カトリックでは、第二バチカン公会議が行われ、
閉鎖的であったカトリックが一変して外に目を向けた。

諸宗教との対話を勧め、また。諸宗教にも救いを宣言したのだ。

また、「教会の外には救いなし」を堅持しつつも、
「全宇宙が神の教会である」と宣言する。

また、プロテスタントや聖公会や東方教会との対話と一致も勧めている。


教会や教理は違えど、福音は一つである。


「神」は、キリスト教もイスラム教も仏教とか神道とかいう枠を超えた、
人間の想像をはるかに超えた、
全宇宙を創り出した、現代的に言えば、「サムシンググレート」である。

イエスの十字架によって、そのサムシンググレートの最高の愛が示されている、と信じる。


宇宙は、神の気まぐれや暇つぶしや偶然によって作られたものではなく、
人間も見捨てられてはいなく、
「ここまでやるか」というほど愛されている。

聖書と十字架はその目に見える歴史的な証拠である。


無論、サムシンググレートは、
仏陀や、ソクラテスや孔子、
そして様々な宗教の起こりを通して、自らの愛やメッセージを人間に伝えようとしている。

きっと、これを読んでいるあなたにも、私にもある。


神は、教会やキリスト教なんか(なんかと言ったらあれだけど)の枠組みを超越して、
全宇宙をくまなく覆う無限の真理そのもの、愛そのもの、である。


私は、「超教会主義」を今ここで掲げたい。

地球教、
普遍教

私が信じているのは、それ。

神社で十字を切る。

教会で小さな声で般若心経を黙想する。

お寺でイマジンを歌う。


でも、決してシンクレティズムではない。

形式の問題じゃない。

魂が、ビッグバンを生み出し今も生きている、巨大ないのちそのものにつながっているかっていうそういう問題。



私、ひとりだけかもしれない。

でも、そうじゃないかもしれない。


誰かいるかもしれない。







2016.02.15 Mon l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
枢軸時代。

2500年前からの数百年間。

ブッダやキリストや、孔子や老荘、ソクラテスや、旧約の預言者が、人類の精神性を作り上げた。


時代が下り、
古代末期では、
プロティノス、アウグスティヌス、空海、聖徳太子、とかいう人が、
再び根源的な一なる精神を提示する。

そして、中世に差し掛かると、
末法が始まり、自力での救いは絶望的となる。

教会は堕落し、宗教も政治と結びつく。

ルターや鎌倉仏教が新しく救いの可能性を提示する。



近代、近世で、霊性が失われ、理性や自我意識が目覚める。

しかし、唯物論や無神論も台頭する。

宗教は機能しなくなり、「神は死んだ」。


現代においては、
宗教ではなく、ニューエイジや成功哲学という形で、個人的な霊性の時代になっていっているようだ。



こうしてみると、枢軸時代の霊の幹や根が、
時代を追うごとに分化を続け続け、
いよいよ、完全に個の霊性に進みつつあるのではないかと思う。


数百年後は、広がった宗教や思想が地球村として一つに戻っていくのかも。

2016.02.13 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
信じても信じなくてもいい話。

生まれ変わり。

アメリカとかのキリスト教圏でも、前世療法というのが出てきて、人間は輪廻しながら魂を成長させているというのがわかってきた。


うちの今お世話になっている、T先生創始の無教会派のエクレシア。

T先生、禿げた頭に、長いお髭。

旧約聖書の預言者そのもの。

エリシャ伝というのも講話している。

イスラエルに行った時、懐かしくなって、エリシャ先生と叫んだそうです。


ちなみに、内村鑑三先生は、預言者エレミヤの生まれ変わりだそうです。


となると、T先生は、多分エリヤかエリシャの生まれ変わりで、
生き生きとした原始福音と、大和民族の霊性の復興を使命としてこられた方なのでしょう。



旧約聖書を読んでいると、神が、一人称複数形で、「われわれに似せて」とか「われわれの一人」とかおっしゃっている。

で、「私をおいて他に神があるな」
と、イスラエル民族を特定に贔屓する唯一の神。

エホバとかヤハウェというらしいけれど、名前は忘れて、主、アドナイと呼ぶようになった。
あと、エローヒムとも呼ぶ。


名前はわからないけれども、生きている神で、「私はある!」という存在そのもの。

日本では、唯一の宇宙の中心の神様を、アメノミナカヌシと呼ぶけれども、
その名前も忘れられてしまって、「みんな神」っていうことになった。


仏教では、宇宙の中心で、虚空に遍満している人格を持った仏、生命体を大日如来と呼ぶ。


イスラームでも、預言者ムハンマドに対して霊示を与えたガブリエルは、アラー(the God)の言葉を伝えた。


概念的には同じ。


神は、自然や世界を通して、しかし、自然や世界を超越して自己を開示される。


T先生とエクレシアは、イスラエルと仲がいい。



どうも、神の世界にも表と裏があるよう。

普遍的な神と、
祟り神や嫉妬の神、砂漠の神で性格が違う、とよく言われる。


確かに、エクレシアの中には、受難にあう人の多いこと。


エクレシアを指導している神さまは、生きた熱情の神、
イスラエルと日本民族に共通した神だ。







2016.02.13 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

信仰を持つもの同士、信仰を深め合うことは簡単であり、またとても楽しい。
教会とか集まりはそのために存在する。


できれば、
学校や、会社でこそ、神の言は伝えられるべきだ。

これは困難なことだが、
実は最も必要なことだ。

そこが暗闇であればあるほど。


「聖書を読め!」ではなくて、
神の言とは何かそれぞれの魂はそこにとどまり生きることだろうと思う。

言葉すらいらない何かだ。
神の言とは。



自分の言葉をまっすぐ語る時、
また、あなたの言葉をまっすぐ聞きたい人がいるとき、
心と心を神が通じ合う。



心は、神の言を自分自身の中に思い出して涙する。



難しいのが、聖書は読めるが字義の解釈ばかりで心が素直でなくなりつつある時。


聖書のうまい解釈、よりも、
人生とか生活で行き詰まった時とかに一転させるような、
その人のための言を

生き返らせるその一言を。

悩んでいる人を明るくする一言を。



律法学者にはその愛の一言が言えないのだ。
ああ、私のこと!主よ憐れみたまえ。



誰かを救う言を私の口からしゃべらせてください。


私の心に、愛とか優しさをください。


勇気付けさせてください。

希望を与えさせてください。



2016.02.12 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
あっちでもこっちでも福音を語らねばと思う。


学生さんにそういうことを話していたら、
「聖書の勉強とか必要ですねー」
と。

それもだけれど、
喜び
ね。

愛ね

生命ね。




福音が必要な青少年、
たくさんいます。

進路がなくて鬱になって自殺を考えている学生とか、
人間関係で行きづまって、孤独に打ちひしがれている人とか、
生きる意味がわからないし、
かといって宗教大嫌いな奴とか、
世の中ことごとく嘘っぱちでぐれてる奴とか、


目の前の苦しんでいる人のために祈って、愛して、ってやって、
救うために、キリストが自分の口を借りて、救いの言葉を宣言する。

その人がハッと明るくなる。

新しい生命がパッと灯る。



それ

やで!!


死にそうになってる人に
新しい生命を与える福音でないと、
それって本物の宗教とはいえない。




イエスがやってきて、

エゴー エイミ

「私はいる」
「私は存在だ」

「大丈夫だ」

「恐れるな」

「勇気を出しなさい」


と、人々の恐れの中にあって、光であられたように、

あなたがたも光の存在でなければならない。



天皇陛下は祈りの存在。

太陽のように祈りを放射している存在。



私たちも祈りの存在でありたい。




2016.02.12 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
宗教が広がっていく際には、どうも、教養とか語学が武器になるようである。

知的であるというだけで、現代でも、そういう本は飛ぶように売れる。


パウロは、ギリシャ語が堪能で、また哲学や神学にも精通していたため、地中海世界の様々な文化圏に
福音を伝えることができた。

つまり、相手の元々の文化や信条を汲み取った上で、適切に宣教するカリスマを与えられていたのだろう。

もうひとつ、
指導したり力を与えたり、インスピレーションを与える霊も、
本人の器のようなものを選んで、知恵を授けたりするようだ。

天は自ら助ける者を助ける
というのはサミュエルスマイルズ。

なので、知的鍛錬や、自分に与えられた天分を磨き続けることは大切である。



もちろん、火のように燃える情熱こそ原動力であるのはいうまでもない。


パウロのような者になりたい。

今は雌伏の時である。

霊的な成熟と、聖霊に満たされる日が来る。

その時に、燎原の火のごとく新しいものが始まる。



2016.02.12 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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2016.02.11 Thu l 未分類 l top ▲
四国遍路の巡礼中、般若心経を読み上げている時、
はっと意味がわかり、心の扉が開け、涙が止まらなくなって、一時間くらい泣いていたことがありました。

全ては、感謝と許しであり、無条件に生かされているということが心の奥底から開けてきました。



今日も、
教会でイスラエルの歌を何気なく歌い始めた時、
やはりなぜかわかりませんが、涙が溢れて来ました。

詩編のたった三行。

私の目は山々を見上げる。
私の救いはどこから来るか。
私の救いは天地を創った神から来る。


ダヴィデが読んだ詩の情景が三千年の時を超えて私の魂を撃ちました。



それまで、神を信じることは、誰かの神を信じることでした。


しかし、神は生きておられます。

「わたしの神」と呼ぶべき、パーソナルかつ、大きな力が、流れるように私に関わっている。

愛という言葉で。

それは、背筋がのびるほど厳かで、圧倒的な力です。

それは、限りなく偉大でありながら、この私を撃つのです。



私は、一言も言葉を発することができなくなって、ただ、泣くしかありませんでした。


たった三行の言葉が、心のこもった映画よりも泣けることがあります。




2016.02.07 Sun l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
2016.02.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
うんうん!
という記事。

http://tooisorae.hatenadiary.jp/entry/2014/01/07/083931

(以下引用)

 新興宗教やカルト・異端と呼ばれている宗派は、せつせと信者集めに奔走する。謳い文句は決まっている。「病気が治りますよ」「災難に遭いませんよ」「お金が儲かりますよ」。そして、究極の殺し文句は「天国に行けますよ」だ。

 この甘い蜜に誘われて、あるいは、虫たちが蟻地獄にはまるように、ひとびとはかの教団・教派へと捕らわれていく。

 彼らを待っているのは、働き蜂・働き蟻への洗脳である。時が経てば経つほど、「働かねば」、つまり「布教せねば」という強迫観念に支配され、やがて、そうしなければ「地獄行き」という言葉が四六時中頭の中で鳴り響く。お金も時間も、はては選挙活動にまで自由意思を奪われ、こころも自分で考えよとする頭脳も亡くした人間型のロボットが動き出す。なれの果てが自爆テロであり、あの、地下鉄サリン事件である。

 一方、伝統的な宗教は言う。「勝手に入ってこないで下さい」。「出来れば来ないで下さい」「ここは真っ白い、汚れない羊たちの集団なのです」。

 かのオウム云々が瓦解したとき、まじめに求道していたたくさんの信者が路頭に迷い、伝統宗教の門を叩いた。しかし、彼らを懸命に救いあげようとした宗教・宗派はほとんどなかったと聞いている。

 真のキリスト者は、他者のいのちのかけらにまで気を配ってほしい。それが私の願いである。だから、今回の小説もそれを第1の主題とした。しかし、現実のキリスト教会は、カトリック・プロテスタントを含め、とても閉鎖的である。以下に、カトリック多摩教会司祭、晴佐久昌英神父のメッセージ後半部分を引用してみたい。ゲスなたとえで申し訳ないが、晴佐久神父を芸能人にたとえるなら……う~ん、解らない。が、彼は間違いなく、日本キリスト教界のスーパースターであることには違いない。

 許可は戴いていないので、全文掲載は出来ない。アドレスだけ記載しておくので、全部を読みたいひとはネットでご訪問戴ければと思う。

http://www.fukuinnomura.com/?p=5230

 数日前に電話してきた方、「年が明けたらまいります」って言ってましたけど、自分はすっごい変わり者で、いつもみんなから嫌われたり、疎外されて、仲間はずれにされる。そういう人間なんだ・・・と言ってました。

 だけど、ある修道院に出会って、そこの朝のミサに通うようになり、信仰に救われ始めたんだそうです。それで、いよいよ洗礼を受けたくなって、勇気を出して近くの教会行ってみたら、やっぱり「変な人」って思われて、信者たちから嫌がられちゃったみたいです。

 そういうの、わかりますでしょ? 目立つ人、自分たちの常識とは違う人、受け入れがたい人を排除しようとする。人間の社会、みんなそうですよ。悲しいかな、教会にもそういうところがある。

 で、みんながね、「あの人がいると落ち着かない」と、「私たちの和を乱す」と、いうことで、神父に、「あの人を、受け入れられません、どうにかしてくれ」と言い出した。

 で、神父がその人に言ったんですって。「信者の皆さんが動揺してますので、ここの教会では一緒にやって行けません。来ないでください」と。

 それで、ある人からそういうことならと紹介されて、多摩教会に電話してきたんですよ。

 あのですね、教会っていう所は、自分たちの平穏無事を願って、いつもの同じ人で気持ちよく過ごす所ではありません。それは、教会ではありません。排除された人を、ただ信じて、信頼関係を持った仲間で迎え入れる所なんです。だから、その「変わった人」、みんなから嫌われて、見捨てられている人を、「聖家族」として、迎え入れましょう。・・・これが教会です。

 それはチャレンジですけれども、これができたときに、いっそう「聖家族」になれる。それができないときに、教会の意味もなくなっていく。・・・非常にシンプルな話です。

 そのチャレンジをしないっていうのは、すごく残念なこと。

 気持ちはわかりますよ、いつもこう、安心できる身内で、穏やか~な気持ちで、波風立てずにいる平穏無事はいいもんですけれども、ホ ントの教会は、「聖家族」は、迎え入れるところです。

 私は会ってないから、どんな人かわからない。どこまで「変」なのか、楽しみです。(笑)

 「ぜひ、いらっしゃい!」と申し上げました。助けを求めてきた、その人を、信じたから。

 ただ彼は非常に傷ついているんで、何とかそれを癒したいですね。「来ないでくれ」と言われたとき、神父さんからこう言われたそうです。

 「白い羊の中に黒い羊が1匹入ってると、いじめられるものです」と。「だから、あなたのためを思って、そういうふうに申し上げるんですよ」って言った。

 私、びっくりして「ホントにそう言ったんですか?」って言ったら、「ホントにそう言われました。とっても傷ついた」って。だから私、彼に申し上げました。私の尊敬している神父さんだったので。

 「わたしは、その神父さまを尊敬しています。あの神父さまがそうおっしゃるんだったら、きっと、神父さまだけがご存じの何か深いわけがあって、そのような判断をなさったんでしょう。私はその判断を信じます。あなたも信じてください。みんなのために、あなたのために、ホントにそれが一番いいことなんでしょう。ただ、私のことも信じていただきたい。私は、あなたを信じます。私は、あなたが変な人であればあるほど、燃えます」と。(笑)

 「そもそも、多摩教会は、全員『黒い羊』ですから。(大笑) み~んなまっ黒けですからご安心ください。黒い神父、黒い信者。・・・黒い羊が来るべき所です」。

 見捨てられた人を受け入れる。それはイエスのなさったことですし、それこそが、聖なる家族の本質じゃないですか?

 「白い羊」は、イエス・キリストのみ。

 「その真っ白な小羊の血で、私たちを洗って白くする」って、聖書に書いてある。(※ 6)

 主が宿っているところには、汚れも恐れもありません。私たちが、もし本当に信じ合って、新しい一人を迎えるならば、2014年、今年にも増して輝く多摩教会になりますよ。

 どんな人が来ようとも、現れようとも、「信じて」ください。お願いしますよ。

 私が、「いや、これだけは無理だ!」って言ったら叱ってください。

 「神父さん、信じようって言ってたのに、おかしいじゃないか。裏切られた」、そう言ってください。

 私にも、意地があるからね、開心して、本当の教会を、教皇様の夢見ている「真の教会」を目指したい。

 もっともっと「家族」になりたいでしょう?

 ・・・今日は、「聖家族」の主日。


 これを読んでどう思われただろうか。

 いまの「キリスト教会とキリスト者」への戒め、ブラックなジョークにさえ思えてくる。とかく、「正統派?」と呼ばれる教会にかぎって「おまえは来るな」「あんたはダメ」。まあ、気持ちは分からないわけではないが、2000年前のイエスが聞いたらなんと言うだろうか。たしかに、教祖や組織の私腹を肥やすために、せっせと信者集めをして、自爆テロリストを育てたり、500円の壺を500万で売りつけるような愚劣な詐欺師ロボットを作る集団よりはましだろう。が、神のたかみから見下ろせば、所詮はどっちもどっちかもしれない。

 アメリカが広島に原爆を落とす前、真っ先になにを調べたか。それは「同胞が住んでいない街であること」。キリストの名を唱えながら、平然と原爆を落とし、広島市民を焼き殺すアメリカ。その後も、長崎原爆をはじめ、自分たちに属しない「嫌いな国やひと」に爆弾を落とし続けてきたアメリカの歴史は、小学生でも周知の事実である。ナチスドイツは言わずと知れたホロコースト。そのホロコーストに準ずる残虐非道なジェノサイドをベトナムでやってのけて、なんの反省もなく、他国の罪だけを糾弾する韓国。いつまでも新疆ウイグル自治区やチベット自治区住民らを差別し、蹂躙し続ける中国・・・。

 みな、自分たちだけは「真っ白い羊」(今年は午年なので、さしおり白馬か)だと思い込んでいる哀しい存在である。

 

……………

本当に、宗教に派閥なんて要らなくて、
どっちが正しくてどっちが間違ってるとかもういいです。

一つの生ける生命があって、すべての人はそれとつながっているっていうこと。



2016.02.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
2016.02.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
K会というところは、教えも立派に見えるし、スケールも大きいように思われます。
あらゆる宗教の頂点を集めて統合し、それを越えていく、新時代を開く教えであり、
人類の驚愕の事実を示しているようにも思われます。
また、世界中にも広まっている教えにも思われます。

が、
が、

普遍宗教か、と聞かれると、断じて否と答えざるを得ない。

どうも、彼らは権力が欲しくて欲しくてたまらないように思われる。
死んだ後の霊をいじくってともかく自分の手柄に立てあげたい。

「自分のところは、お前らのステージをすでに超えてしまった」っていう上から目線の傲慢さ。



正しい正しくないとかじゃなくて、

自分のところはすごい自慢されると、「なんかやだな」って感じ。

上に行きたいとか、
霊的な力を得たいとか思えば思うほど、

きっと、素朴な心の奥底の純粋さとか魂の幸せを見失うわけで。



どうにかお互い謙虚に尊重し合うものはできないだろうか。



本当に救いに感じられたのが、

斎藤一人さん

カトリック


これって、組織とかイデオロギーとか超越してる

それでいながら無色透明のさしあたりのないものでなくて、強烈な個性を放っている。




たぶん普遍的。


そして、普遍的な教えや霊というのは、
同時にどこまでも個人的であることと両立するのではないかなあ。

普遍的なものは、個人をもっともっと掘り下げて自立させる。



2016.02.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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