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エル・カンターレと名付けられる霊を如何なる位置付けにするかは、立場によって異なる。

あらゆる諸宗教の人々は、「地球の精神を全体として指導している根源的な神霊がいる」という認識はこれは共通している。

私も、それを信じているし、
また、そのような神でなければ帰依するに値しない。


エル・カンターレを大川氏と信じる人が彼の教団の信者である。

言ってみれば、イエスをキリスト(救世主)と信仰宣言をする者をクリスチャンと称するように。

イスラームでは、神は唯一であり、イエスは神の子ではなく、預言者の一人として尊敬される。


仏教では、一者や神ではなく、一性を、空と名付ける。
空の密教的側面を大日如来と称し、
救済的側面を阿弥陀如来として帰依する。



伝統宗教は、根源的一致を観念的に理解し求めつつも、
そのムーブメントがなかなか起こることはない。

キリスト教でもカトリックとプロテスタントの対話で精一杯であり、
地球の精神的脈動を俯瞰的に捉える試みに興味がない。


中学生レベルの社会の知識を語るだけで、「うわー詳しいんですね」と驚かれるが、
なんで、もっと勉強しようとしないのだろう。

高校の倫理くらいの教養は学ぼうと言いたい。



歴史とか宗教の起こりというのは、世界精神や天上界の計画に依って展開していく。

それは、地上の物質的な体制や技術との兼ね合いでちょうど良いタイミングで降ろされていくのである。


世界精神の視点から、幸福の科学のムーブメントの意義を観ると、実に興味深いものがある。

だいたい世論や成功哲学の流行りを、十年くらい先取りしている。
多分、2025年くらいには、宇宙人のことを喋っても、共感してくる人が増えてくるだろうと思われる。

十年前はお金儲けのことを話すとぎょっとされたが、
今では、お金儲けは善というのが常識である。

日韓友好で盛り上がっていたとき、韓国叩きをすると変な目で見られたが、
今では、逆。


諸宗教の根源的な一致、宇宙の法則を説くのは、現代では世界中で別べつの接点のない人々が、
それぞれ単発的にそれを説く。

大川氏が、いわゆる「中央集権的」に大きな事業でもってこれを進め、方向性を明示し、信者もそれに同じ方向についていく。
それ故、(私のような)離反者やアンチを出しつつも、事業を拡大し展開するのに対して、
世界で展開するスピリチュアリズムムーブメントは、個人的であり、分権的であり、
人によって割合自由に物事を言える。
個とつながりと言える。


一人のカリスマのもとには、多くの人が集まる。
カリスマは、断言し、宣言する。
バランスの取れたことは言わない。
賢いことは言わない。
偏っている。

それでいて、普遍を感じさせる。


世界精神は、文明を一歩前進させるために、
また、対極で人を救うために、
ラディカルな霊的満ちた者を地上に遣わすようだ。

私は、大川氏を根源神や崇拝対象とは見ないで優れた霊的実業家と観るが、仮に、彼にその自覚がなかったらどうだっただろうか。

良心的な古参の信者が離れることもなかっただろうが、大事業もなすことができなかったであろうと思われる。

力ある宗教は、いくら理性をまとっても、必ずそこに狂気が内在している。
非合理に満ちたポテンシャルが蠢いている。

それは世間的なものを超え出ていなければならない。

神学でも、合理的なものと非合理なものが闘ったら、実は非合理なものが生き残る。


私は、大川氏を決して神とは崇めないが、神は、彼の狂気を一定の役割のうちに遣わし、必要と認めたと見る。

その役割とは、地球的神霊の観念でなく、地上に具体化を進めるための役割。
物質的な豊かさの肯定。
また、批判もあれど、宗教が政治に対して正論を述べる意義。

個人崇拝は危険である。しかし、個人崇拝がなければ、大事業は為せないというパラドックスが人間のうちには確かにある。



しかし、そういう時代は今や終焉を告げようとしている。

間違いや魂に反することが露呈されてきた。



地球は一つの村になる。

一人一人が神であることが分かってきた。


全ては一つにつながっていることが分かってきた。


限定的なものや派閥を解除して、一つのものに対して開かれながら、人は自由になりつつある。

そういう時代、
そういう学びの時代がやってきたのだ。










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2016.01.21 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
アウグスティヌスは、キリスト教(古代カトリック)に生まれたが、
聖書の非合理で科学的でない教えにつまづき、
合理的で科学的であるとされる「マニ教」に十年近くも心酔する。

しかし、マニ教の教えでは、彼の霊的な飢えは満たされず、
虚しい食べ物を食べているのと同じであった。

カトリックに立ち返った彼は、
最大の教父となりつつも、
何十年にもわたって、マニ教の反駁を続ける。



人間というものは、一番初めて学んだ宗教の影響や思考の枠組みからは生涯抜け出せないという。

マルクスやニーチェの無神論も、
つまるところ、キリスト教やプラトニズムの否定であり、それでもやはり、
キリスト教的な枠組みの中からは抜け出すことはできない。


現代のキリスト教の遺伝子には、アウグスティヌスの影響が組み込まれている。

そしてそれは、つまるところ、マニ教の影響も強く受けているということであり、
明暗のように、グノーシス主義がコントラストを成して形成されている。



大川隆法の霊性の中には、やはり、多くは削除やお帰り願うものもあれど、
高橋信次的な霊性の枠組みがある。

その源流にも神秘学や神智学が存在している。


「読書信仰」や実学的なものの見方というのも、一つの幸福の科学的な枠組みとも言える。


日本的な枠組みの中で、誇ることができるのは、
諸宗教の受け入れと融和と融合ではないか。

また、東洋文明でも西洋文明でもうまく取り入れて独自のクオリティに昇華していく精神である。


日本モデルを世界に発信できると思っている。










2016.01.21 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「幸福の科学はどこまでやるのか」を読む。

エル・カンターレの神は、地球の至高神であり、仏教の開祖、キリストの天の父であるとされる。

その神が肉体を持って地上に降りてきているというのが、幸福の科学の主張である。


もうこれはそのまま真っ直ぐな所信表明として受け取ってもらえたら良い。


一方、私の信じている「神」は、なんたら教の枠にはまることのない、
人間のあらゆる想像を超えた、対象化できない

エル・カンターレというのは、「様々な仏神や高級霊」が存在する中の、至高の統括者としての大霊
という位置付けである。

なので、いくら肉体を持った大川氏が超人的でも、被造物なわけで、これを信仰の対象とするのは、
あれ、違うなあと感じる。

宇宙というのは、一切が別々のものでありながら、「ワンネス」であり、
普遍的な宗教というものは、
地上にあって、別々の宗派でありながら、この普遍的なワンネスというものに霊的に到達している。

一方、幸福の科学の主張は、
そのワンネスを巧妙に、至高と位置付けた被造物にシフトしている。

大日如来や、アラーや、アメノミナカヌシとは、
人格的な宇宙のワンネスであり、全地に満ちるものでありながら、

同じ言葉を使いながら、その存在を、表象の一つの人格の次元にまで落として解釈している。



これだと、
それがいかに、魂に利益をもたらすものであっても、霊的に限定された不自由な状態に行き着いてしまう。




様々な宗教に言えることで、
信仰の分かち合いは必須として、
同じもの同士で固まって、他から閉じられた信仰では、普遍とは言えない。

真なる普遍を求めなければならない。

もっともっと、すべての人の魂にとって、共通のところを開いていかなければならない。


パウロなんかは、教養や素養な異文化との接触があったため、
ユダヤ教の一派であったキリスト教を世界宗教にまで広げた。


そういうヤツに私もならねばなあと思っています。






2016.01.21 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「キリスト教を信じる」というと、私にとっては違和感を感じる。

他の宗教に対抗する、別の宗教や考え方や派閥に属すること、
という風なものでは決してない。

多くの、宗教的な人たちが、
宗教に属することによって、救いを求めたり得たりするような錯覚に陥っているのではないか。

群れることによって、何かしらの慰めや寂しさの紛らわしを感じさせてくれる。

いくら研修を受けても、
いくら祈願や祈りを重ねても、状況は一向に変わらない。

こういう文脈でいうなら、はっきり申し上げて、
「宗教の内に救いなし」
である。



自分自身の闇と向き合うプロセス。
苦しむプロセス。
そして、勇気を出して、一番向き合いたくなかった恐れと闘って、
もちろん、こちらも傷つくが、全てを吐き出して叫ぶプロセスが大切なのだ。

抑え込めていた本当の気持ちをぶちまけることで、
表面的でしかなかった友人は離れていくかもしれない。
あなたは孤独になるかもしれない。
後ろ指を刺されるかもしれない。
悪魔や地獄扱いされるかもしれない。

あなたは恐れて恐れて恐れ抜くだろう。

それでもいい。

自分の受けた苦しみを正確に、演技でもいいから怒りをあらわにすることで伝えること。

そして、本当に自分の望んでいるものを今一度確認すること。

あなたにとっての幸福とは何か。
あなたは何が得られたらいいのか。

自分が愛されて必要とされることなのか、心から信じあえる仲間なのか。

あなたの、望むビジョンは、本当にあなたのものなのか。



「きれい」「立派」「道徳的」「前向き」
でなければいけない、
と半ば強要的に信者に伝える宗教は、
「幸福そうなフリ」に疲れ果てる。

あるいは、論破したりしつこい勧誘がある宗教やその信者は、
実は心の奥では、その対象も自分自身も信じていない。

恐れから従っているだけ。



さて、本当の宗教とは、レリジョン
再び結ぶ、という意味がある。


偽物の自分自身に気がついて、本当の自分自身に結ばれるということ。

本当の自分自身は、無限に開けた存在であり、また自由と愛に溢れている。
そこに人の魂は神を見出し、それと一体化している。


自分自身であるということは、
自我にこだわることではない。

と言っても、自我にこだわるプロセスは絶対に必要な段階であり、
自我の殻の闇のなかで、魂は発芽のための栄養を蓄える。

早めに発芽を急ぐと、魂は大樹へと育ちはしない。


真に自己自身であるということは、他者の自己に対しても寛容であり、それを受容することができるということである。

とはいえ、私自身に関していえば、まず、自分自身のとげとげしさや恐れや卑屈さを十分に自覚している。
また、それは、必要なプロセスであり、いずれ取り除かれると考えている。



2016.01.13 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
一神教において、神は人格である。

空海も、大日如来を人格として捉える。

仏像も、必ず人間の形をしている。

神を汎エネルギーや宇宙の法則として捉えていたことが私にもあった。
それはそれで、間違いではない。

人格神を否定して、姿形なき無限のエネルギーを主張する人もいる。


ところが、どうも、その神や仏は、理性では触れ得ないようだということがわかった。

私自身の固有の人格全てをそちら側に向ける必要がある。

親しく--乳幼児が、自分を抱きしめる親に対するように、呼びかけ、
また、呼びかけられるような類のものである。


それがなされる場所が、自己であり、魂という場所である。

魂には神の光が当てられており、
また、魂も鏡のように、神という太陽から当てられた光を、神に反射する。



神や仏というのは、もっといえば、宇宙というのは、人格を持っているようだ。


人間は、様々で多様な人格、そしてかけがえのなさ、尊厳、愛を持っている。

人格を持たない無機質な宇宙エネルギーから、このような、私たち人間のような人格が生まれるわけがない。
神が人格を持つ霊的存在であることは、私たちが人格を持つことから、帰納的に説明できそうだ。


心とは、肉体と霊がせめぎ合い、霊に向かう戦いの場所とも言える。


人間は、肉体を持ち信仰を持った状態でも、あるいは、純粋に魂や精神になった状態でも、
根源的な神や宇宙の実相を極めることはできない。

魂自らがそこに属して、またその一部であり、本質は一でありながら。


魂と神は、祈り信仰を持つ時、
顔と顔をあわせるように向き合う。

しかし、そこには、世界や肉体というおぼろげで汚れたガラス窓があって、
魂は神の全てを見極めることはできない。

人間の魂は、世界というガラス窓を通して、神の意図を見抜こうとする。


神は、巨大な自己である。

自己とは、小さな神である。

巨大な自己の相から見れば、全ての人間の魂は同じ自己の内につながっている。

魂の兄弟、というのはそのことである。


神を知るには、思想や考え方よりも、
まず自己自身を知らねばならないし、
自己以外に神につながる道はない。

知識や知恵を得ることや慣習に従うことは、この自己を極めるための助けとして、世界の内で機能する。




2016.01.13 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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