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2014.11.13 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

あなたの不安は、

大安心の海に浮かんでいる小さな氷のようなもの。

どうってことないよ。
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2014.11.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
それは、聞いたこともない福音だった。

いや、君が福音というものを本当は読んでいたが、読んでいなかっただけかもしれぬ。

それは、「もっと真剣に遊べ。楽しみなさい。」「愛しなさい。」と告げた。

それは、子どもを愛でる母親のように、君をやさしく抱きしめ、頭をなでて、胸に額をうずめさせてくれた。

泣きたいとき、叫べば、それはすぐに来てくれ、
君の言いたいことを言う前から理解してくれ、
瞬時に癒してくれた。

君は、しっかりとか立派とかいうものに、
何の負い目も感じないですんだ。

むしろ、君の魂は、
何もせず、ただ一方的に受け身で、その愛を受け、それに包まれて安心していることを感じて憩っていればよい。



君の、心は楽しみ

体も、それまで、皮膚や内臓や筋肉のあらゆるところにあった疾患が、消え失せたのだ。



この道が、正解なのだ、
と君は、満足のうちに納得した。



山を下り、
君は再びキャラバンのもとへ戻る。

聖霊を受けるために。

それは、観想的な祈りや、内的な祈りとは違った。
全身全霊をかけて、主の名を叫び、呼び求める。

はじめのうちは、驚き、戸惑ったものの、君は、すべてをかなぐり捨てるように真剣に叫び始める。

しかし、それでも何か「開かれない」ものがあった。

押さえつけているものがあったのだ。
吐き出してはいけない、
吐き出すのが恐ろしいものがあった。



もっとも、恐れていたこと?

いや、違う?
本当は望んでいたこと?

が訪れた。


そのキャラバンを去る、ギリギリの直前に、
民のリーダーの一人の若者が、テントのうちに君を呼び寄せた。

「真実の神を真剣に探し求めよ」
「そして、この民の一族に加われ」
と、力強い口調で語った。

君は、
その招きを「せっかくですが・・・」と断った。

理由はあった。
けれども、自分の中でも言葉にできないし、
ましてや、目の前にいる他者にそれは語れない。

刹那、彼は顔色を変え、
その理由を尋ねた。

君が、何かしゃべろうとするや否や、
彼はすべての君の語りを否定してきた。

「お前の信じている神は嘘だ!」
「お前の進もうとしている道は、どうでもいいことだ。」

「私たちの信じている神は生きている唯一の神だ。お前たちの信じているものに、そんな確信的な奇跡が存在するのか?」


途中から、君はもう、何か言うことをやめる。

一つの言葉じりをとらえては、あれこれと引きずりおろし、百も二百も言葉を並べ立てるのだ。


言葉は多いが、最終的な結論は、「わが民のうちに加われ」その一点。

君が、コートをしぶしぶ手放すまで、この北風には何を言おうとだめなのだ。

自分の信じているものをすべて否定された気分が悪くなり、君は、倒れこむ。





帰りの道と、寄留所で、

私のうちに、
失望を通り越して、絶望が襲った。

倒れこんで、もはや、一歩も立ち上がる気力も体力もなかった。


荒野をここまで歩き続けてきて、
ついに、信じていたものに裏切られた!!

クニにいたとき、
クニの宗教を信じていた時、

自らが最も忌み嫌っていたことが、「信教の自由の圧迫、そして、信仰の押し付け」だったのだ・・・!

もっとも、してほしくなかったことだった・・・!

それから、逃れ、本物の神を求めてきたのに。


今までの長い旅で、やっと手にしたものの答えが、これだったのか・・・。
ながいあゆみのうちに、培ってきたもののすべてが、そこで無に帰した。


すべての宗教には本物の神はいない。

いたとしても、その「本物の神」は、他の神を排除し、本物でないと信じるものを否定し排除する、実に戦闘的で不寛容なものなのだ。



その前まで、憩い、笑っていた楽しみが、一瞬にして奪い去られてしまった。
もはや、やっと手にしたものは、もう一度手にしたいと思っても、どうしても戻ってくるものではない。

完全に、神が私のうちから取り去られてしまった。

無性に、何も考えられなくなり、自殺したいと思った。



理性は、これをどうとらえて消化すればよいのかわからない。


人は、神を求め切望しながら、
一生そこにたどり着くことはできず、つねに引き離され、
疲れをまとうだけの人生を歩まねばならぬのだ・・・

ああ、いっそのこと、中途半端な希望などなければ、
思い切って死を選ぶことができたのに!

神がおり、
そして、生きているということは、罪だ。
怒りや、失望や、欲望を人は、捨て去ることはできない。
そのまま、人に裁かれ、自らは、人に迷惑をかけながら、償いきれない罪を犯すことをやめることもできずに、死んでいくしかないのだ。

いっそのことなら、早く、死んでしまいたい!!


神よ、哀れみたまえ
神よ、われを救いたまえ


と祈るのも、バカらしくなってきた。


したり顔で、善人ぶった信仰者どもが、
「それは違うわよ」「お前はとんでもない奴だね」
と、君の周りを取り囲んで、
神でもないのに、「神とはこのようなものだ」と言いながら、
君の心や魂の動きや祈りや考えを「指導してくる」。




激しい怒りが自分の中に湧き上がってきた。


まだ、理性だとか、道徳的な生き方とか、人を傷つけない生き方
なんてものにとどまるから、自分の命はいまだに真なる生を得ていない。


ついに、彼の中で、
吐き出すのを恐れていたことが吐き出された。


神に対して、
君は、
「コノヤロウ!バカヤロウ!クソッタレ!」と叫び、
机をたたき壊した。

天からの裁きが下ろうがなんだろうが、よかった。

その瞬間君はは、気が付いてつぶやいた。「クソッタレは俺自身だ・・・」

神が、そこでにやりと笑って言った。

「いいじゃないか。
それだよ。それ。
私はそれを待ってたんだ!」

痛快だった。








(続く)
2014.11.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
君は、疑いや不安が渦巻く暗闇の中、

ちらりちらり姿を見せる、太陽の光の導きに従って進んでいく。


そして!

やっと、

荒野の中で、ラクダに乗り、テントを持ちながら、目的の地を目指して進むキャラバン隊を見つけ、
そこの合流する。

キャラバン隊は、君を暖かかく、涙ながらに迎えてくれた。

彼らは、選ばれた誇り高き民であり、

はっきりと、神の導きと語りを体感し、それを証していたのだ。


君は、彼らと熱く語り合い、これまでの道のりを打ち明けた。


「ああ、この民も、僕と同じなのだ!」
と、魂の震えを感じた。


荒野の旅は、一変して楽しく心満たされるものになった。


ただ、君はその民の一族に加わる気にはどうしてもなれなかった。

なぜかはわからぬ。確かに、「本物の中の本物」に他ならなかった。

しかし、君のうちにある「使命感」のようなものが、「違う場所で汝は生きよ!」と命じていた。



しかし、ああ、
この民に燃え盛る「神の霊」を君も熱望しながら、


君は、いったん、隊を離れ、
寄留所にとどまることになる。


そこで、君は、
クニからの追手が一切来ていないことを知り安堵した。



寄留所のまわりを、歩き回っているとき、
君の魂に、あの太陽の光が語り掛けた。


君は、立ち止まり、
再び、ひれ伏し、その光が語る音のなき声に静かに耳を傾ける。


その光は、君に行くべきビジョンを指し示した。


君は、荒野の終着地である、「聖なる山」に向かう。
その後、キャラバンを訪ねる予定だった。



聖なる山に向かう途中、


光は、「取りて、読め!取りて、読め!」
と、ある本を読むように言う。


そこに、君の魂は、


はっとする。


それは、厳かな聖典ではなかった。

しかし、聖霊は、君に語り、君の心をどこまでも軽く軽くしていった。


それは、輝く顔で手を広げて、いてもたってもいられない様子で、明るく告げた。

「遊べよ」
「戯れよ」
「創れ!作れよ!」

と、

「さあ、もっと楽しみなさい」、

「遊ばないと君の道は開けない。」と。


早速、君はその作業に取り掛かる。

朝も夜も、時間のたつのも忘れて、それに没頭する。



成功するかしないかは、どうでもいい。

ただ、今、このことを成し遂げ、作り上げていきたい。


夢中になっていた。


心が解放されていた。



荘厳で悲壮に荒野を歩いていたころには決して得られなかった、魂の喜びがそこにあったのだ。



聖霊は、太陽に照らされながら、
私の周りを飛び回り、
茨のように見える道を「お花畑」に変えていってしまった。


君は、胸のうちから笑いながら、
小躍りしながら、
その道を軽やかに進んでいく。





(続く)
















2014.11.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
2014.11.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

敵と見えた人間が、
実は、神が自分に遣わせた試しだったりしたと気が付いて
ハッとして、
その敵に見えた嫌な嫌なやつに合掌することがあった。

心の中で、
深く「ああ、嫌な役を買って出てくれたんだな。」
傷つくことを覚悟でそういう舞台に出たのはわかるし、そのプロセスを避けされないとわかりつつも、傷つけてすまなかったと思う。

その人がいなかったら、自分は、自分の本心にウソをつき続けながら生きていたかもしれない。





嫌な嫌な人間がいる。

赤の他人が、したり顔で
「その人のことを仏と思おう」といったところで、無理だろう。

思いたくても、どうしても思えない。


まあ、そういう結論は、忘れないようにそばにおいておいて、
自分の本心を紙か手紙にぶちまけてみよう。


決して、
三人集まって愚痴ったり、
ツイッターに書き込んだり、
新書を読んでしたり顔で、「ああ、あいつはそういうパーソナリティなんだ」などと裁いてはいけない。


そんな、自分自身を棚に上げるような利口な思いやりのあるやり方をしてはいけない。


手紙に、
それを誰にも見せないで燃やす。
しかも、神はそれを許してくださる、という前提で、

思いつく限りの罵詈雑言や、怒りをその人に向かって、書きつくそう。

その時限りは、自分が残虐非道な悪魔になることを許可してあげよう。




そうすると、分かることがある。



そのうち、
頭の中を占めていたあいつらのことが、どうでもよくなってくるし、笑えてくるようになる。





「実は、自分自身に対して怒っていたんじゃないか。」と。



すべては、結局
「自分自身が幸福であれば、解決すること」
ということに気が付く。



他人に向けていた怒りや憤りは、
ドロドロしたもので、
自分の心に毒を作る上に、行き場がなくなるが、

自分自身の不甲斐なさに対する怒りは、
とても、すがすがしい。

「勇気」や「決意」とか、
「闘志」とかそういうものに、昇華されていく。




敬虔な心

は、おそらく、自分の努力や心がけだけでは、

どこかで打ち砕かれる。



取り繕っていた化けの皮はいずれはがれる。



神様に対して、

「お救いください」
「助けてください」

とか、真面目に祈って哀れみを乞うていたのが、

つい、
我慢できなくなり、

「この!クソッタレ!ボケ!ふざけんじゃねーぞ!この野郎!

神だか何だか知らねーがな!黙ってんじゃねーよ!!」

と机を壊す勢いでぶっ叩きながら、叫ぶ。



裁きが下るのを正直恐れていた。




で、

「クソッタレは俺自身じゃないか!!!何やってんだ。」
と思った。



で、次の瞬間、


神様が、

にやりと歯をむき出しにして笑って、

手をたたいて歓喜したように感じた。


「それだよ!それ!それを待ってたんだ!


いいね!響いたよ!


さあ!

もっと!もっとだ!

お前は、もっと叫んでいいんだ!

怒っていいんだ!

自分自身をもっと解放しろ!

人に迷惑をかけろ!戦え!ロックな生き方をしろ!

もっともっと不届き不埒に生きるんだ!」




その瞬間、
背中をばちーんと叩かれて、
「さあ!行って来い!」
と。


体の中に、

かーっと熱いものが込み上げてくる。


「よっしゃ!やったるわい!!」




自分の道を、突き進む覚悟ができた。










その神様は、裏舞台で、
嫌な奴らの真の魂に「はいー、どうもお疲れ様でしたー。大変でしたねー。助かりましたー。」とかいって、ジュース配ってんだよ(笑)

ああ、チキンで小心者の俺をいい加減気が付かせて本気出させるために、送り込んできてくれたんだな。
で、「礼とか感謝とかまじいらねえから。お前はもっと、強く生きろ。それが一番の礼儀だから」と言ってくれたような気がしました。

で、何人か、俺の嫌なタイプの人間が上で化粧してスタンバイしてる(笑)



わかったよ!

そういうシステムなのね!!





感謝の気持ちをこめて、容赦なくぶっ倒します!!!!





強く生きます!!!




ありがとうございました!!



やったるわい!!!!

















神様という奴が、
善人面した慈悲あふれる存在かと思いきや、
案外、ロックな存在だということが分かった(笑)



それでいいんですね!?神様??








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2014.11.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
神様は、ただひとつ、唯一絶対。


というと、眉をしかめる人もいるかもしれませんが、


「あなた」もただひとつ、唯一絶対。

すべての人が「唯一絶対」。



唯一絶対であってはいけないのは、思想、宗教、団体、派閥、組織など「人間」「地上的なものに属するものすべて」。


そこを取り違えて、
「俺だけがえらい」
「俺たちは選ばれている特別な人間だ。」
なんていう人が出てくると、おかしいことになる。


そういう、
「社会的な関係」に「私」は囲まれて殻や役割や肩書きとして生きているいるわけですが、

そういう、人間の中の関係の自分をすてて、

裸になった、ありのままの

「唯一絶対のあなた」じゃないと、

唯一絶対の「神様」に会えない。



それは、他人が判定することではない。



自らの心の「奥の院」「至聖所」において、
神様の前に、ただ一人立つということ。


そういうことをしていたら、自分のするべきことが、使命が
ほかのだれにも言えないけれども、「あ、これだな」ってことが分かってきたりする。



ただし、
そこにたどり着くまでにいろんな誘惑があるから、
挫折する人が多い。


世間体に、
金銭的や物質的な問題に、
今持っている地位や立場や、
馴れ合いの人間関係とか、

そういうことが「心配や不安」という形で、襲ってくる。


一番きついのは、
心から分かれあえそうだと思った仲間が理解してくれないこと。

反対ではない。
むしろ、優しくしてくれることが、「自分の橋」ではなく、
目的地ではない街へと続く「大きな橋」に続いていること。


自分の先生や、師までが、
「やめておけ」とまで告げること。


最大の誘惑が、
神様ではなくて、
神様を伝える役割ではあれど決して絶対ではない、
自分の尊敬する「○○先生」に認めてもらえるかということ。

(優れた師は、弟子を自分に依存させない。むしろ突き放すべき時には鬼のように突き放す。)


あとは、信じてついていこうとしていた「先生」が、おかしくなったり、こけちゃったりすること。

「先生」はいいかもしれないけれども、「集まっている人」がどうも訳アリなんじゃないかということ。
集まっている人のひとりが、「先生」の代理になりたがること。

そんなこんなで、
「他人のテストを代わりに解いてあげる」現象が続出して、我慢できなくなる。


そうすると、今まで学んできたものすべてバシャーンとひっくり返すような感じで、
「何を信じていいかわからない」となる。


「神様なんていなかったんだ」
「神様はいるかもしれないけれども、もう、自分なんか救えないんだ」
というニヒリズムまでいったら、どん底。


自分の魂をボロボロにされた恨みを、そこにぶつける人もいる。



すべては、厳しい言い方かもしれないけれども、
要するに、
「自分の問題を、他人に解いてもらいたがっていた」。

それでしょう。



つまり、

誰かと一緒に、自分の「魂の奥の院」に行ってほしかった。

誰かの「魂の奥の院」についていこうとして、断られた。


それで、境内で、一人ぼっちで迷子になって泣いている状態。


そのときこそ実はチャンス!

目の前に、奥の院に行く橋が架かっている。


渡ればいいんですよ!





妥協してしまうと、
「奥の院」の橋の手前までは行けるけれども、
そこで、神に出会えないまま、
「いい景色だった」で終わってしまう。

いや、それどころか、
その巡礼に「救い」はないのだ。



奥の院に入るための橋は、
あなた一人のためだけに用意されていて、
一人しか通れない。

それが「その橋」であるということは、あなたにしかわからない。

あなたは、はっきりとわかっているが、あらゆるほかの人にはわからない。



「仲のいい友達」とは渡れない。

一人で渡らなければならない。

「友達と離れ離れになるのが嫌だ」
「もっと、一緒に境内や町並みを見ていたい」

と、
その「あなたのためだけに神様が用意してくれた橋」を過ぎ去ってしまうことになる。




けれど、

それぞれの人が、
自分のためだけの「奥の院」にわたる橋を
一人渡り切れば、

あなたは、自分の魂の奥の院、至聖所にて神に出会う。

そこで、

すべての魂はひとつに繋がっているということをはっきりとあなたはわかる。


そこでは、

決して尽きることなく、汲みつくすことのできない
無限の命
無限の光
無限の愛が
虚空に遍満している。

すべてのことに、神の手が及んでいて、
すべてのことには、完全な意味があることを知る。


それは、
とても平和な状態であれど、
必ずしも、「忘我」とか「エクスタシー」であるとは限らない。

たとえるなら、
忘我状態が、オーケストラの演奏を聴いて、熱狂している観客だとすれば、


私の言っているのは、
「宇宙」というオーケストラの演奏をしている側で、
「自我」という自分の楽器の使い道をはっきり認識しながら、楽器を演奏しつつ、
今流れているオーケストラの全体の演奏にも酔いしれている状態。






みんながみんな同じ形、同じ方式ということはあり得ない。

それでいて、
みんながみんな、それを深めたら、すべては一つに繋がる。






難しいのは、
そこから降りるとき。

ずっと、そこに安住できたら楽なのですが。




「言葉」が通じない。

人は、「言葉」で「そうだ」とか「ちがう」とか判定する。

説明しようとすればするほど、通じ合うことはなく、
「言葉」にとらわれてしまう。




(続く)
2014.11.05 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
潜在意識はひとつ。

すべては宇宙の中で一つに繋がってる。


地球儀のどこの点を取っても、「世界の中心」であるように、みんな世界の中心でありながら、世界の中心でない。




その「ひとつの潜在意識」のことを、

神道では、天の御中主様といったり、

仏教では、大日様や毘盧遮那仏といったり、アンマラ識といったり、

キリスト教では、天の父といったり、

アラーといったり、ヤハウェといったり。


「対象」ではない。

呼び名とか、
学術的な「定義」があると、さらに遠ざかるもの。


生きている

・・・

もっといえば、
私たちや目に見える世界が「存在」しているように見えて変転する無常なあり方で「ある」
以上に、
絶対的に「ある」なにか
が、
私たちの世界の奥底で「ある」。


別のたとえをいえば、

わたしたちの世界や個人は、海のうえに生じては滅していく「波」のようなもの。

その奥には、広大な変わることのない「海」があるよね。


生命の根源であるその潜在意識は、

思想や哲学ではなくて、
生きている

というか、

生命そのもの。

愛や、光でできていて、

私たちの魂というのも、
また、そういうものでできている。


別のたとえで言うなら、

私たち人間が、赤ちゃんや子供だとすると、
私たちのすべてを受け入れて、抱きしめて養ってくれているパパやママといいましょうか、
性別を超えた、「愛の塊」が、
地上において、迷って泣いて途方に暮れている私たちを呼んでいるわけです。



それを知ると、

私たちの魂は、思わずうれしくなったり、
「懐かしさ」を感じて、泣き出してしまったりする。


もっと進んで、潜在意識の扉が開けると、

自分の見たこともないようなビジョンが見えたり、
「異言」なんて言って、知らない言葉を語りだしたりする。

いわゆる、
「聖霊が下る」という状態はそれです。


「般若心経」の
行深般若波羅蜜多時って、
ようするに、
「心の扉がひらけて、喜びに満ち溢れましたよ」ってこと。

一緒。




潜在意識は、

形がない。

空間も、時間もない。


ただ、

潜在意識は、愛と光の塊で、

何とかして、いろんな方法で、その人に一番合った方法で、アプローチしている。


ある人にとっての「絶対的な確実な真理」が、
ほかの人にとって合わないということはよくある。

そういう、「ズレ」を感じてしまうと、
その人はどこかうまく言葉にできない違和感を感じたり、苦しさを覚えたりする。

いかに、理屈が正しくて、客観的にものすごく好条件でも
自分の魂が「違う」と感じたら、やっぱりうまくはいかない。


逆に、
周りから、「やめとけ」とか言われて攻撃されて説得される茨の道でも、
本人の魂の声がピンときていたら、
本人はうれしくてたまらないから、「茨の道」がゲームでもしているみたいに面白くって仕方がない。

そして、次々と、いい人や条件が引き寄せられてきて、
すーっと、面白いように大成功していく。



成功した人の「二番煎じ」は、
ある程度はうまくいくけれども、ブレイクはしない。

「本人自身にしかわからない感覚」を捨てちゃっているから。




だから、言っちゃえば、

(元、学校と塾の教師の私が言うのもなんだけど)

学校や塾の管理教育って、あれは、「魂をつぶす」んですわ。



何かが狂ったり、
すべての不幸の原因は、

他人が、
「自分の魂の課題」を放棄して、
人の「魂の課題」に口出しをしだすこと。

親子関係にしろ、
先生生徒の関係にしろ、
宗教の伝道にしろ。


「私は私でいい。あなたもあなたでいい。」
それさえできたら、もうこの世は天国になれる。

それが、お互いの魂にとって、もっともよいこと。



神様の描いた寸分狂いのないシナリオというのは、
それぞれ
「自分の魂の分」として与えられているし、
「自分の分」を演じきったら、必ず、最高の結末が待っているわけ。



で、人様の魂の分とか信仰に、土足で入りこむ行為は、

マラソンを走っているランナーを別のランナーが「俺がおぶさってやるから」とかいって、担ぐような行為、
テストの最中に、席を立ちあがって、別の生徒に「俺が教えてやるよ。親切だろ。」っていって、答えを教えてあげるような行為で、
しかも、問題はそれぞれ違うのに、違った答えを教えるようなことだから、
絶対に許されないことなの。

自分は自分の道走って、自分の問題を解くように、神様は命じている。


自分は、聖霊に満たされたつもりでやっているし、「正しい」と思っているかもしれないけれども、
実は、それは聖霊を知らずのうちに冒涜している悪霊の仕業で、

それをしてしまうと、
不幸とか、困ったことという形で、反則に対する「ペナルティ」みたいなものが来る。


間違いを正すまで、次々と来る(笑)



こういうことを言う自分自身も、
よくあったものです(汗)


間違いが治ると、正解で、
神様から「いいこと」や「幸せ」がくる。



(続く)







2014.11.05 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人間が、「自分」と思っているものは、

要するに、

五感と、それに呼応する思考と「意味づけ」と、
それが絡み合った「世界」にたいする

「一部の意識」でしかないわけです。


その世界では、

常に、矛盾が渦巻いているわけです。

人間は例外なくエゴイストで、
いじめられたり、
傷つけたくないと思いながら、人を傷つけてしまう。

出世ができるとは限りませんし、
愛する人も手に入るとは限らない。

そして、
何一つ思い通りにならないまま、
絶望のまま、「死」に突入していく。




そこまで、問題意識を持ってるのは、

どこの宗教もおんなじなの。


仏教でも、

キリスト教でも、

オウムでも、

カルトでもね。



邪教になったり、

真正になるのは、

それから脱出するアプローチの方法の違い。




どこの宗教でも、奇跡というのはある。

私にも、バンバン起こってます(笑)




つまり、

真剣に信じる力が潜在意識に届くと、

なぜか自分でも思っていなかった、驚くべきようなことが面白いほど引き寄せられたり、
不治の病が治ったりするわけです。



なぜかといいますと、

潜在意識というのは、
生命の根源でして、

ゼロから人間を完璧に向けてつくられて、幸せになるためにつくられたわけですから、

五感と思考作用の世界でとらえられない「不治の病」でも、
潜在意識が直接タッチすれば、

本当に!

まじで!


すべてのことに不可能はなくなるわけです。


一流のスポーツ選手や成功した実業家なんかを見ていますと、
しっかりと、この「言葉にできない」潜在意識をうまく働かせる術に精通しています。




そういう

神秘体験や奇跡を、
どこの宗教でも、真剣に祈って、やれば、起こるわけです。


それで、

「ここの宗教は、この信心こそは本物だ」
と、なるのはよいのですが、

私が、一番嫌なのは、

「ほかのところは、奇跡や神秘体験がないから邪教」として否定してしまって、
自分のところに取り込むことで。


ああいう、宗教が、
世間からいろいろ言われても、平気なのは、
マジリっ気のない神秘体験や奇跡をこの身に体現しているから。


「救われた」
「これのみが本物」

という強い信念や確信、いえ、「確認」というようなものがある。



それで、

ついつい、ほかの宗教を否定してしまうんだよね。


本当はただ、
その潜在意識に対するアプローチや方法の違い。

人それぞれ、
文化や地域や、育った環境によって、
無限に違いがあっていいと思うのです。





(続く)
2014.11.05 Wed l 未分類 TB(0) l top ▲
歩いて、弘法大師ゆかりの八十八のお寺を二か月かけて回ってきました。

ただし、お寺に仏法なし。

学校も社会も、心を失った時代。

この国の霊的危機に対して、
ただ、失望し、諦めるだけではなくて、
自分は何ができるかを問いかけながら歩いていました。

何度も、悪霊との戦い。

誤解、
孤独、
対立、
他人の余計なおせっかい。
なにより、自分自身の我欲との戦い。

覆いかぶさってくる、
世間の声や、悪霊に、
「もう、いやだ!」と投げ出したくなったことも一度や二度ではなく。

自分は、
決して教祖や指導者になるタイプの人間ではないし、
弱い人間だと痛いほど自覚しているのですが、

でも、

神様は、私をひっぱって、まもってくださっているわけで。

私に、「何かしてくれ」とメッセージを送っている。




ひとつ、

大切なことは、


考えることではなくて、

自分の素直な心。

美しくて、

まっすぐなものを

自分の中に

一本

小さくてもいいから

すーっと持っておくこと。




燃える、一本のろうそくのように。



神様という太陽から与えられた一本の火があなたの中に燃え盛っている。


愛と、光の灯

あたたかさと、
よろこびの灯。


聖霊の灯ともいう。


それを見失ってしまわないように。



それを死守しなければいけない。



権力のみ、
物質的な欲望のみ、
神秘体験のみ、
イデオロギー、
思想へのこだわり、

などといった、

「偽りの火」を与えてくる悪魔どもから。






逆に、

耐え忍んでその火を守り切った者は皆、勝つことができるともいえる。



勇気を持て。


自分の中に、

真理の灯を燃え盛らせて。







2014.11.05 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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