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本当に良いことも
悪いことも、
自分の心は知っている。

嘘はつけないし、
ごまかすこともできない。

そして、
その心の声に従って生きるのが、
あらゆる制約を超えて
幸せに生きる唯一の道だということ。

そして、欲望に負けて
自分の良心を裏切ることは、
自分を心から信じる人の心を裏切る
恐ろしいことだと知る。
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2014.01.15 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
那智の滝のすぐそばに、



西国第一番札所の

青岸渡寺(せいがんとじ)があります。





おととしの秋から、西国三十三ヵ所めぐりをしています(^-^)/





一番初めに行ったのが京都の清水寺でした。



そして、やっと10か所近く廻ったでしょうか。







清水寺にお参りした時、



人生ですごく苦しかった時期なのですが、



仏像をみて、



開けるように気がつかされたことがあります。



それを知って、



私は、とても喜びました。







仏と



私たちは、



ことならない。



ということ。





いつも、

私たちは

仏の手の平に生かされているということ。





そして、

宇宙の摂理である仏は、

私たちを導こうと働きかけているのだということ。







今、目の前にある

広大な街並みや山や、空や宇宙

よりも大きいものが、

本当は私の心の中(潜在意識、神意識)にあって、

すべては一体であるということ。







巡礼の旅は、



きっと、



本当は、



自分探しの旅。





あらゆる仏は、



私たちの心の中にいて



魂の領域で、つながっていて、

一体なのです。



(そして、また悪魔もそうなのですが。)







大自然や霊場と出会いながら、



それを縁として、



それと一体となって、





小さな自我をこえて、



自分の心の中に、



宇宙や仏や神を見つけていく。





「心」と言っても、

脳の生み出す感情の次元ではなくて、

「魂」と言ってもいいし、

「潜在意識」と言ってもいいし、

宇宙につながっている神意識でもいい。





外に求めると、それは煩悩による苦しみに。



内に深く深く求めると、あらゆることが

ひとつの糸で結ばれているということがはっきり分かる。





内なる神に、

呼びかけること。







潜在意識の扉を開いたら、

目に見えて「ある」と錯覚している、

すべてのものは、「空」であるということが分かる。



そうしたら、

あらゆる苦しみは、

苦しむ必要のものでないということを覚る。









すべてが、



愛と慈悲によって



一体であるということを知るために。









観音さまと出会う旅が、



楽しみになってきました。


















日本人は「無宗教」だといいながら、



初詣には、ラッシュのように押し寄せる人々に、

観音巡礼に込み合う人々。





私たちの民族は、



やはり、



「無神論」ではなく、



そういう、



目に見えない、

スピリチュアリティを



すごくすごく大切にする。



つつましく、

大自然に畏敬を感じながら、

和をもって貴しとなす。





宗教戦争もないし、



私たちの精神性は、



きっと世界に誇れるものだと思っています。
2014.01.13 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
ブッダの時代に、コーカーリヤという修行僧がいた。

彼は、
サーリプッタとモッガラーナのことを、
釈迦のまえで
「邪念がある」と悪口を言った。

釈迦は「まあそういうな。二人とも温良な者だ。」と三回諭したが、
彼は悪口を続けて、
立ち去った。

すぐに、その修行僧には小さな腫れ物ができたが、
それは瓜ほどに膨れ上がり、破裂し、彼は亡くなった。

それだけでなく、
彼は死後、
五千兆年(!)も地獄に赴くことになったという
恐ろしい話が仏典に載っていた。

聖者を罵ったから、
その罰を受けたというよりも、
自らが、宇宙の法則に外れた行為や言葉を発したため、
自分自身が幸福になれなくなったという方がいいかもしれない。

善そのものから離れて人は生きることはできない。

否、
生きることも出来ないが、
滅びることも出来ない苦しみがある。

黙示録にも、
死にたくても、死ねない痛みに人々が苦しめられる記述がある。

あるいは、
崖に張り付けになったまま、鷹に肉を啄まれるが、
すぐに再生されてしまうので、
死ぬことすら出来ずに、苦しみ続けるプロメテウス。

やはり、地獄の恐ろしさはいかなる宗教でも説かれている。


しかし、これが、
邪教のマインドコントロールに使われた場合、
あるいは独裁者が、人々の支配の道具に使う時、
とんでもない反作用をもたらす。


真理を見極める知恵と、
心を持ちたい。
2014.01.11 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「コップの中の嵐」
という言葉がある。

人が新しいことをはじめようとする時は、
いつも周りから、
「でも」
「君にそんなの無理」
というダメ出しの言葉が
涎を垂れる犬の条件反射のように
次々と出てくる。


夢を叶えるために、
彼らを納得させ、
論破しないかぎり、
次の道は開かれない、

と思うから、
先に進めないのだ。


いつのまにか、
狙いが、
夢に向かうことでなく、
前にいる人間の論破や心を変えることに変わってしまい、
次第にコップの中の嵐のとらわれから抜け出せなくなっている。

あたかも、富樫義博の漫画の
「時間稼ぎの足留めの為だけに雇われた敵」のように。


彼らの生きている世間は
所詮、水槽の中の吹き溜まりで、
その外の現実など
例外だとかはなから思い込み、
認めたくないのだ。


大切なことは、
彼らには分からない。

夢を語る人間を笑う性根を持つ
「ぬるま湯の善人」に、耳を貸さないこと。


気がつかれないように、
静かに、
歩みを進めなければならない。

雑音に惑わされずに、
ただ孤独に耐え、
ひとり進んだとき、
君は、
いつの間にか、光の中にいることに気がつく。


燕雀いずくんぞ、
鴻鵠の志を知らんや。
2014.01.08 Wed l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
付き合いも長いイエズス会の神父の方と話していて、
自分は聖霊と悪霊がはっきり実在することが分かるということを告白したら、
「全然おかしなことではない。
むしろ、聖霊と悪霊を見極めるのがイエズス会の仕事なのだ」と言われました。


身近な人の悪霊を追い出すことが出来ずに、本当に辛い。
彼によると、悪霊を追い出すことができるのは、
神のみということ。

あとは、本人の強い意志と信仰。

誘惑があまりにも多すぎて、
すぐにそれは失われてしまう。

諭しても、
食ってかかられると、
もう神の光が入る余地がない。

その人は、気がつくまでさらに苦しむし、
苦しめているのは私のせいと云う。

悪霊は、自分の居場所を奪うということで、
私を目の敵にし、
どうにかして誘惑で落とそうとする。

怒りを投げつけ、
私の粗探しをし、
かと思いきや、
泣き落とし、
苦しみを訴え、
あるいは、
取引をしようとする。

冷たいだろうが、
私は心を鬼にして、
突き放す以外出来ないのだ。

私は、その人を救うことはできない。
悔しい。

明るく、優しく生きる覚悟を本人が強く持たない限り、
その人の目には曇りがあり、迷い続ける。
悪霊に負けない強い意志が必要なのだ。

それを助けるため、私たちはただ祈るしかないのだ。


また、
心の反省のないまま、
瞑想をしたり、
座禅を組んだり、
題目やお経を闇雲に唱えることは、
全くの逆効果で、
その人の心や人生はさらに悪霊に支配されるようになる。

それにしても、
心が失われ、
ここまで悪霊が支配している現代のこの国の状況は危機です。

教会も少なからず律法化し、
仏教も、心の教えを失い、無意味な呪術に堕している。

自殺者を実質十万と出すこの国には、
やはりカルマを刈り取る時が来る。

自殺は個人だけの罪でなく、社会全体のカルマとして、
私たちを苦しめる。

しかし、それは罰ではなく、
神仏に向かい、心や魂の時代を作るためのメッセージなのだ。


仏典を掘り起こすように読めば、
あるいは空海の著作を読めば、
仏の脈動が心に蘇るはず。


聖書においては、
聖霊によらねばそれは読めないのだが、
やはり、真理なのだ。
あれだけ嫌悪していた聖書が溢れるようにすんなり頭に入ってきた時は自分でも驚いた。


迷信のような世界で私は一人で生きている。
しかし、数学の問題を解くように、イデア、実相の世界は真理の糸できっちりつながっており、
魂はそれをはっきりと認識することができる。

そして、それは人々には分からなくて当たり前なのだが、すべての人に悟ってほしい。

同時に人の善意に漬け込み騙す人々の誤りも
正せはしないし、論争も出来ないが、
離れさせる手伝いができたら。
2014.01.08 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
態度

言葉

身振り


物事を丁寧に
心を込めてすること。

自らに誇りを持つこと。


汚い言葉は、
他人を貶めているようで、
損なうものは自らの品格。


神を否定することは、
自分の命の根源を否定し、
自滅すること。



品格とは、
繋がっていること。

自らを支える偉大なる何かと。
2014.01.04 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
出雲大社の帰りです。

不思議なことが二点ありました。

電車のなかで、見知らぬ赤ちゃんが親の手を離れて私のところまで歩いてきてニコニコしているのです。
お母さんがあわてて連れ戻したら泣き出す始末。

そういえば、慈悲のヴィパッサナー瞑想をしていた僧侶が空港で同じことを経験したといいます。

子どもは元来神様に近い存在ですから、何か感じるものがあったのでしょうか。


ふたつ目。
電車を乗り間違えてしまった私にタイミングよく、見知らぬ男の方が赤の他人である懇切丁寧に道を教えてくださいました。

そして、乗り換えた電車がなんと机付きの喫茶店のような列車で現在、出雲の旅を満喫しています。

神様が超能力を起こすケースよりも、
ところどころ出会う人は皆、神様や仏様の使いなのです。


なので、出会う人出会う人大切にしましょう。
そしてあなたも他人にとっての神様であってくださいね!

感謝してます!
2014.01.02 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
実家の仏壇で昔を思い出しています。

小学生にならない頃から、私はお経が好きでした(笑)

こんな子どもは珍しいので、
前世は何かお坊さんかなにかで学んできたのでしょう。

伝統仏教のお経は
意味が分からない。

新しい教えも、ですが、
読むだけでなく、
埃を被ったお経の塵を払って光を取り戻す作業が必要ですね。

経というのは
糸という意味。

すべては一つにつながっています。

法も
存在も
生命も
宇宙も。


すべての人は多かれ少なかれそうなのでしょうが、
それが真理や実相でない場合には幸せから外れるし、本能的に嫌だと思う。

私の場合、昔から、拒否反応が激しくて、
多分、「清濁併せ呑む」が出来なかったのでしょうか、
他人の毒をそのまま受け取りながら耐えていたのでしょう。


人に返すものは返して、
汚れは養分に変えて、泥の中でも美しい花を咲かせられるように精進していきたいと思います。
2014.01.01 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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