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新年にあたり
心がけたいことは、
悪口、陰口、批判、批評をしない!
正論をたくさん言わない。
人のいいところを見つけて誉める!
謙虚になる
自我を出さない

ということです。


言葉で傷つけられたことって、
何年も前のものでも思い出すと息が苦しくなるほど痛いものです。
言葉を発した相手はもう何とも思っていないかもしれないけれども、刺さった方は、忘れたくても簡単には忘れられずに苦しむ。
言葉を発した方は後に苦しむのですが、私はその相手には苦しんでほしくないから許すことをしたい。

人も自分も解放するためには許すことが必要なのですが、しかし時間はかかるし抵抗もある。

だから、批判や悪口はどんなに正義感があっても慎む努力をしたい。

そして、他人に言われたキツいことは、思い出すたびに、裁くのではなく許す。


もし、批判や批評をされるようなことがあったら、過去に自分が散々してきたカルマだと思って、
仮に腹のなかが煮えくり返っていてもムッとして返さずに、「ありがたいなあ」と大らかに笑って許す修行ということで(笑)

嫌な人というのは、実は、あなたに許しや愛を学ばせるための
神様からの使いだったり、観音様の化身だそうです。
感謝しなきゃいけないんです。

誘惑に負けず、その姿勢を強く貫けば、
無敵です。

つまり、周りから敵がいなくなりみんな協力者になる。



心にとって最高に成長する稽古です!
ツイてるツイてる!


人が悪いんではなくて、
過去にみんな私がしてきたこと。
嫌と思えることは、そこに、必ず宝が隠されているチャンス!

何よりも自分自身を幸せにし、自由にすることだからね!



すぐには出来ないかもしれませんがそんな私も許しつつ、
そういうことを心がけていけたらと思います。
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2013.12.31 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
哲学や信仰を
純粋に生きる人は
やはり
強い。

本当の自分、
裸の自分と逃げることなく向き合っているからだ。


宗教や教義や学問に
とらわれる人は
いざという時に本当の力を発揮できずに
その場に止まるしかない。

彼らは
何かに依存し
ただ自分自身から逃げているだけ。



五感を研ぎ澄ませ。
心が
魂が本当に求めるものに命をかけろ。

周りの声が気になるのは
迷いがまだある証拠。


ただ
行えばいい。

人の幸せをまっすぐに。
2013.12.29 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
ブルースリー曰わく
The word 'I' does not exist.
「私」は存在しない。


「私が痛い」
のではない。
「痛みが私」。

「私が」感覚してるのではなくて、
感覚の束が脳に信号と送られてるものを「私」とよんでいるに過ぎない。
考えたり、言葉を使うのは五感で受け止めたそれらに、意味をつけているだけ。

そして人間はその意味や解釈の違いで苦しむ。

「私」は実体でなく、
単なる流れ。
現象にすぎない。

「本当の私」はそのなかにない。


すべては変わる。
「私」も「ない→ある→ない」の流れでしかない。

肉体や思考としての「自分」は、偽物。

世界や宇宙の流れや秩序に従う。
私を超えた私に繋がってること。
2013.12.29 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
子を観察しながら、分かる道理がある。


勉強をすれば、学力が上がる。
走れば、体力がつく。
食事や生活に気を使わなければ病気になる。
良い言葉を使えば良い運命が訪れる。
運がよいと口に出す。


当たり前のこと。

信仰とは見えない道理を悟るということ。
少し数学の世界に似ている気がする。
分かる人には分かるが、分からない人には分からない。
投げ出してしまう。


自分が間違っていると思い正すか、
宇宙の法則の問題を出した者にケチをつけるかで、
運命は分かれる。


上から神の手が出てきて奇跡が起こるわけではない。


そういう法則。
そういう道理なのだ。
2013.12.28 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
悪い心や行いをした人が地獄に行き、
罪を犯さなかった人が天国に行くのであれば、
間違いなく、すべての人は地獄に赴かねばならない。


他人の悪いところは目につきやすい。


多くの人が、罪を悪いものだけと見ている。
そして恐れている。

なぜか。

裁きとそれはセットだから。

そして、
いつも裁きの目で見られてきた人は
他人の欠点を裁き、
それによって、また自分を裁き、
自分自身をひとつの矛盾という苦しみに陥らせる。


地獄は、実は裁きや粗探しをしている自分の苦しみに他ならない。

罪に対してどう向かうかでそれは恵みや学びになる。
まずは裁きから離れる勇気を。

そして、許すことで、心に喜びがにじみ出てくる。

愛する人の幸せを願うことはもちろん、
憎しみを抱く人に幸せと天国に行けることを祈り、許すことは、
何より自分自身を愛と光で満たすことで、学びのチャンスなのである。


許そう。

それが自分自身を罪から解放することなのだから。


地獄か天国を分けるのは
どれだけの罪を犯したか否かではなくて、
どれだけ裁くことをせず、許したか。

裁いてしまう自分や
許せない自分があれば、
その自分を許せばいい。
2013.12.28 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

友人が博報堂を退社し、単身渡米するという。

胸が熱くなった。

若いうちは挑戦、挑戦だ。

私も先日ある決意をしたところだ。
負けてはいられないと思う。

決意をした矢先に、
夢の中でお大師様に合う。

ちょうどその日は、ある真言を一万回唱え終わった。

お大師様は、清い水の湧き出る洞窟で禅を組んでおられました。


先日、あるお寺にお参りしたのですがその独特の左右からの階段のある形や真っ赤な色が、
以前に夢で見たものとまったく同じで「あれ」と思ったりもしました。

その側にお大師様の像と八十八カ所が。


呼ばれているのでしょう。

今から準備をしておこうと思います。
2013.12.27 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
キレるとか、
家の中を壊すとか、
暴れるとか、
リストカットをするとか、

理性ではいけないことと十分に知っていても、
その先が自分自身を破壊することを知っていても、
我慢しても我慢しても限界で、
爆発させないとどうしようもない、
なんてことが子どもにあります。

「ヤケクソ」というのでしょうか。
世界のすべてが分けわかんない状態で、
間違ってると分かっていても間違い続けて生きなきゃいけない苦しみは、きっと多かれ少なかれあって、
怒りよりも
きっと「誰も自分を愛してくれない」という哀しみのほうが大きい。

大人たちは彼らを問題視して困った存在と見るが、
私は、彼らは大人に尊厳を踏みにじられた被害者だと思っています。

活発な子は社会に対抗し、
優しくて他人を傷つけるのができない子は自分を傷つける。

いずれにしても、罪に他ならないのですが、必ず本人の意志と努力で立ち直ることはできます。
なのですが、子どもにまず正しい心を植え付けるのは大人です。子どもにとっての神は自分自身の心でなく、親や大人なのです。大人が神に心を謙虚に向けないといけない。
いずれ、子どもは大人が未熟な存在であったと悟り、他人のせいにするのをやめ自分自身の心を磨きはじめ、利他の人生を生きるときにはじめて愛を取り戻しますが、
幼いうちはどうしようもならない無力な存在なのです。
回復には時間がかかる。

謙虚に正しい心で生き、他人の模範となることのできる大人が増えるように。
暗闇の中でも、自分だけは勇気を出して光を発し続ける人になれたら。
2013.12.25 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
クリスマス。

なぜか涙が止まりませんでした。
宿業のようなものが流されたのでしょう。

言葉や文章にすれば嘘になる。

暖かさのうちで、
神のうちで、
すべてがひとつになる。

何も考えずに、
神のうちに、生かされて、愛されていることを、
瞬間瞬間のうちに感じていたい。

そして神理を伝えるためにこの命を使いたい。

自我からくるたくさんの恐れは、神に委ねて、
ただ真っ直ぐに。
2013.12.25 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
思うに、特にオウム以降、「宗教はすべて邪だ。関わらない方がいい」という空気がこの国を覆ってしまったのではないかと思います。
いえ、日本社会自体がある種の混沌、行き詰まり、生きづらさを噴出していて、そこから逃れるなにかがやはり必然的に必要とされていたのでしょう。

それから逃れることのできる、確かな道を誰もが求めていた。
現実から逃れる吐け口を誰もが探していた。

社会へのルサンチマン(怨恨)として生まれた宗教は、必ずどこかで破綻します。
逆に、愛の完成や、知恵の身につけ方を正しく身につけたのであれば、人生という苦しみの海をしっかりとわたり切る力を持つことができます。
これは、ブッダやキリストも証明しています。


邪教と言われる集団にも、確かにそのような力や、熱狂はあります。

しかし、そのような素晴らしい力をもつものすべてが邪教というわけでもない。

(「すべての邪教は宗教である。しかし、すべての宗教は邪教であるとは限らない。」論理です。
多くの人が、そこを見失っていて、邪教でないあまりにも多くの宗教を見落としがちなのです。)



K会にいた頃、私は「K会だけはそうではない!」という信念で伝道をしていました。この国に革命を起こそうという情熱に燃えていたのです。
ところが、K会も邪教になってしまったことに気がついた時は、何もかもが信じられなくなりました。

ある社会学者が、オウム事件があっても、「終わりなき日常は続く」「そこから逃れることはできない」という論を立てていました。


第一次世界大戦が終わった後のヨーロッパでも、太平洋戦争が終わった後の日本でも、
信じるべきものを見失い、デカダンスに陥るという現象がいたるところで現れましたが、
古今東西、絶対的と信じられてきた権威や権力が崩壊する時には、頽廃や個人主義が育つものなのでしょう。

しかし、そこから立ちあがり、新しい希望が生まれてきたのも事実です。
人間にはそれだけの力がやはりあるのです。



学生時代の長い間、
「真実などない」
「この世界の本質は混沌である」
「神がいたとしても、我々は誰一人悟ることなく罪の中で裁かれていく」
「誰もがエゴイストである」
というある種の絶望の中で逃れられない状態にありました。

自分に関わる様々な人のエゴ、わがままを、引き受けて苦しみ、
また自分のエゴにも苦しむという、まさに地獄の中にいましたし、
そこから、自力で逃れることもできないし、どうしていいか全く分からないのです。

「神を知っている」という者は、「神を知っていない」者に対して傲慢に振舞い、
両者がともに過ちから抜け出すことができずに苦しんでいるのです。

「人は、偽善者か悪人のどちらかを選んで生きることしかできない。」


太宰治の『人間失格』と言えばいいでしょうか。

いくら、善を志向していても、私たちは善を知ることもできないし、善を行う勇気もないのです。
神から隔絶されて、ただ、祈るか、
分からないものの裁きや地獄に送られることをひたすら恐れるという状態なのです。

ほとんどの人間が、罪の中に置かれているのです。

ある種の人生に対するヤケクソの状態で、何度も死を考えていたりもしました。

なぜ、自分はK会と出会ったのか、それさえなければマシな人生があったのではないかと、苦しんでいたのですが、
守護霊様や指導霊様たちが、やはり「必要な学び」だと、敢えて私に苦しい思いをさせたのでしょう。

そこから、いかに抜け出せたかというと、
何かひとつだけの教えがあったというよりも、
臨床心理士のヨーガの先生、キリスト教関係で、シスターや晴佐久神父からの学び、静養団体での学び、水谷修氏の教え、
スマナサーラ長老や、ブッダや、空海、高橋信次氏の著作、高額納税者の斎藤一人さんや、空手のチャンピオンの塚本選手の生き方、を学び、
何よりも、仕事に打ち込むこと自体が菩薩行となり、わたしを救ってくれました。

他者や権威への依存から、
自分の心のうちに真実があるという決断をして、主体的に生きる覚悟がないと、きっと何も掴めない。


一応クリスチャンなのですが、周りの声に捉われず、「宗教」という枠から飛び出して、
神の真理は、普遍であるという自由な立場で、捉われずに本当に自分のためになる教えを選んだことは大きかったように思います。
(いろいろ言う人は、ほとんどが幸せではない人。)
そうして、いろいろな真理が見えてきました。


因果や、神の愛。




真理は人それぞれ、会うあわないがあるので、自分にあったものを取捨選択して学ぶことが善いのでしょう。
そして、自分の魂の声に従うこと。
毎日祈ること。


そうすれば、
不眠症が治り、6年間手放すことのできなかった薬が全くいらなくなり、
若いのに多くあった白髪もほとんど消え去りました。
病人だった私が、数ヶ月後にフルコンタクトの空手の大会で入賞するなどあり得ないことです。


数ヶ月くらいは、自分のカルマをもう少し刈り取る時が来るので、
忍辱(にんにく)の修行です。
愛と光で、自分の糧にして魂を成長させて生きたいと思いますね。そうしない限り、次なる苦しみから逃れることはできません。
罪による苦しみは、愛と光で料理すれば、知恵という宝物に変わるので、恐れることは何もないのです。




私は、K会の説いていた、2020年ごろに日本が世界のメッカとなると説いた「ゴールデン・エイジ」というのは来るだろうと考えています。
ただし、その頃にはK会は没落し、別の何かにバトンタッチがなされていると予想していますし、
何か大きな中央集権的な思想体系というよりも、草の根的な自由霊性が今よりも根付いているだろうと思います。




2013.12.22 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
弘法大師空海の、『即身成仏義』を読みました。

真言密教で一番偉い仏さまを大日如来といいますが、
この大日というのは、私たちと同じ六大で構成されているので、仏と私たちは何ら変わりがないということで、
違いは「覚っているか、迷っているか」の違いだけなのだそうです。

そして、この大日様は、
虚空に遍満し、あらゆるものの原初でありながら、
架空の哲学的論理などではなく、実際に存在する生命体なのだそうです。

大切なのは、私たちの本質と、大日様の本質が同じであることを知ることと言います。


空海様のこの説明を読んで、
私が4年間かけて学んできた西洋哲学の
「存在者」
「第一原因」
「第一存在」
「一者」
「神」
と、この大日様は完全に概念的には一致すると。

そして、また、この仏さまは生きていらっしゃる。
大日と、衆生と、修行者は、別々のものでありながら、ひとつ。
たとえるなら、穴のあいた提灯から見える光がそれぞれ違っても、光そのものは同じように。

キリスト教の神は、「生きる神」であり、人格を持つと言います。

「父なる神」や三位一体との共通点を恐ろしいほどに感じて、
驚きと、またあたたかい気持ちになったものです。


聖書において、神は人間を自分の似姿に似せて創ったと言います。

私たちと神や仏は、同じ。


アラーとか、ヤハウェとか、天御中主の命さまとか、天の父とか、大日さまという、愛と光の大海である「根源の神」から、私たちは「分霊」をいただいているのです。
私たちは、小さな神であり、仏でもあるわけです。

そして、神さまのお役に立つようにと、
私たちはこの世界に派遣されてきている。

神から離れて、道理を忘れるとその反作用として苦しみや迷いが。
また、神は、そんな迷える子羊を救いたいと思っている。
自由を与えたので決して強制はできないが、自分のもとに返ってくることを心を痛めて待っている。

信仰とは、神を信頼して、幼子が親のもとに飛び込むようなもの。


空海様は、仏の教えとは、文字だけでなくて、生き方そのものであると最後に述べます。
教えには生き方そのものがあらわれると。

まだまだ未熟で、一合目にも達していないと思うのですが、修行を続けてもっとよい景色がみたいと思います。



歴史的、哲学的に、「宗教」という枠がある限り、安易にすべてを一致させることは許されないでしょうが、
個人的には、すべては、ひとつにつながっているのだなあと感じました。
ありがたいような、嬉しい気持ちで心が満たされました。
2013.12.22 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
私は、精神と肉体は二分できないものと考えています。

魂―霊―精神―脳―言語―身体
の関係については、まだ整理が出来ていないのですが、

言葉というのも、それ自体独立したものであるわけでなく、
肉体を伴って受け取り、交されるものですので、精神と見られがちなものもやはり肉体なのです。


私たちの世界は、五蘊と識によって成り立っているといいます。

すなわち、五感で捉えられる世界に、私たちは様々な意味づけをして、それに言葉を与え、
その意味や言葉によって、喜んだり苦しんだりします。

お金も、学歴も、地位も、これらは、五感と意味づけによって構成された幻想です。

かといって、我々は、金や会社なしで生きていけるかと言えば、覚った人以外はそうはいきません。

「とらわれない」生き方をすれば、
それらが実在だと思って執着する生き方よりも、成功に近づくと感じるのですが・・・。



思考は、脳の中によってなされ、
言葉によって紡がれ、そして、他の肉体を持った存在と「意味」として交されるものです。

ボクシングや空手、剣道、その他のスポーツのやりあいも、また同様にひとつの「言語」だと感じることがよくあります。

探究も、自分自身に対する独白やポエムも、「言語」という形態を取る限りでは、
同じ言語を使う不特定多数の「誰か」との共有を前提になされなければならない。


人間とは、関係です。
言葉も含めた肉体を使う、コミュニケーションする限りにおいて、人間にとっての「自己自身」はあり得ません。
どこまで行っても、人間は「関係」から逃れることはできません。
人間や自己があって関係が生じるのではなく、関係が自分に先だってあるのです。

自己を知るためには、自己の周りにある関係を知ること。


特に私自身は最近、よい言葉や良い精神状態であるためには、
身体が健康で、運動をして心地よい状態であることは欠かせないことだとひしひしと感じています。

いくら言葉を使っても分かり会えないことが、
肉体を使った勝負で分かり合えることがある。

おそらく、多くの引きこもりの方々は、肉体を動かさず、その代わり、頭だけが活発に動いて、
考えなくてもいい事を考え出し、ネットなどがほとんど他者と関わる「現実」になって、
文字だけ読んで「世の中なんて所詮」と思っているのではないでしょうか。


私の感覚では、外にも出ず、身体も動かしていない、正しい生活もしていない、しっかりとした食べ物を食べていない人から、「本当の言葉」を発することは逆立ちをしても無理だろうと。

近頃、私はその人がどういう言葉を使っているかで、その人の心はおろか、生活習慣や食べ物なんかもだいたい予想がつくようになってきました。


真理をたとえ、言葉で分かったうちは悟りではないし、生き方も変わりません。

言葉や理論のみの真理は実に空虚で、
やはり、本当の真理は、肉体を伴った個々の具体的自己の間に宿る命であるのだと思います。

ある有名なシスターから「真実とは、自分の中にあるのではなく、人と人とのすり合わせの中にあるもの」と言われて、
ハッとしたことがありました。



(まとまらない文章ですが、精神も実は肉体の一部として考えてもいいのではないか、ということです。

また、自分の提起については、日を改めさせて整理させてください。)




2013.12.22 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
完璧な人間はいません。

相手が「こうあるべきだ」「こうあって欲しい」と完全な像を要求し、
それに対して裏切られたからと言って、腹を立てたり哀しむケースが多いのではないでしょうか。

「どんなに立派に見える人間でも、不完全なんだな。
そして、それでよいのだな。」

そう思って、受け入れると、一気に心が楽になるのが分かるはずでしょう。

他人も完璧ではないし、
また、自分も完璧でない。

それでいい。



他者に対する要求が多いのは、まだ子どもであるシルシ。
依存して、「人や社会が○○をしてくれて当たり前だ」と思っているのです。


話は変わりますが、
子どもに、私のものを、何もせずに「ねえ、これちょうだい!」と懇願してきて、手に入らないと分かると拗ねたり怒ったりするケースがありますが、
「仕方ないな」とポンと与えてしまうケースは、布施でなく、知恵が足りないのです。
やはり、そこはものを手にするためにはそれなりの代価があるということを諭さなければならないでしょう。

私の場合、ほとんど怒るということがないので、子どもにはよく甘えを許してしまうのですが、
いい年こいた大人が、たまに嫌がらせをしてくる場合があるのですが、全く小学生と変わりありません。


悪霊や生霊を飛ばされてくるケースもあるので、引きずられないで、「お前などに構っていられない!」と厳しく叱り、追い出す姿勢も実は大切なのです。



裏切られたようにみえても、相手が自分の思い通りにならなかったとしても、
自分のできることは自分でする。
それが自立なのでしょう。



幼少時に甘えた人ほど、本当はよく自立します。
そして、愛される喜びを知っているので、豊かな愛を周りにも配れるように愛されるようになります。
ただし、「甘え」と「甘やかし」は厳しく区別をつけないと、本人のためにならないので、なかなか難しいところですね。



お釈迦様は、
「自分のなしたこと、なさなかったことだけを見なさい。」と言います。

人にされたことなんてどうでもいいのです。


2013.12.19 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
悪魔の信仰。
自己の権利しか主張しない。
被害者になる。
破壊的である。


真なる信仰。
大いなるものに対する畏敬。感謝。
高邁。権利を自ずから棄てる。
創造的である。
2013.12.18 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「救いとは何か」の記事でも書きましたが、
http://relisophia.blog43.fc2.com/blog-entry-114.html

苦しみには苦しみの意味があり、
「生き方、考え方を改めなさい」ということです。

私が聞いて衝撃的だった話が、
天上界の神さまは、地獄で苦しんでいる人たちをなんと、ほほ笑みながら見守っているという話です。

地獄の住人達は、天上界の住人に「助けろ、助けろ!神だったら何とかしろ!」と、恨みや憤りの炎をぶつけるのですが、天上界の住人には一切火は降りかかりません。
それはみんな自分を燃やしてしまい、苦しむのです。

天上界の人は、どんなに頑張っても、他人であるその人の炎を消すことはできないのです。
天上界の住人は、彼らを救う方法が、自分自身が怒りを持たないということを知悉しているようです。

自分を救えるのは、他人ではなく自分自身しかいないということを悟る。
彼らが、苦しみの原因を他人のせいではなく、自分自身の過ちと気がつくまで、未来永劫と同じ苦しみを背負うことになるのです。
「誰誰に傷つけられた。許せない。」と、原因を他人に求めがちですが、本当は一番自分を傷つけているのは自分自身なのです。


私は、人が苦しんでいる姿をみるのが嫌で嫌で仕方なくて、つい助けてあげようと思ったりします。
言っても分からないし、分からないことを分かったふりするよりも、苦しみを通じて学ぶことの方がはるかに尊いのだなということを知った時、
「ほおっておくのが愛だな」と自分自身も楽になりました。


月を指さしても、見るのは本人。
牛を水飲み場に連れて行っても、飲むか飲まないかは牛次第。
暴力的に強制させることはできません。



四国八十八か所を最初に回った方は、空海が乞食の格好をして家を訪ねてきたときに追い出して乱暴な扱いをしてしまったそうなのです。
そして、罰が当たって、家族全員を亡くしてしまったそうです。
しかし、彼は、お大師様に謝りたくて、彼を追って四国を何十週と歩き、そして、逆回りに回ったところで、やっとお大師様と会え、そこで亡くなったそうなのです。
お大師様は、その男の手に梵字を書いてあげたら、間もなくその近くの家で赤ん坊がうまれました。
その赤ん坊の手にも同じ字があったということ。

不幸に見えることや、罰もやはり、仏や悟りのための尊い道なのです。

私の友人で、
「自殺しようとしていたときにあなたの言葉に救われました」と言う方がいたのですが、
苦しんでいなければ、本当に必要な言葉が身にしみることはないでしょう。

苦しみもまた、長い目で見れば神の導きで、
仏典にはもれなく全員が最終的に仏陀になれると書いてあります。


そのことを聞いて、ものすごくほっとしました。嬉しかったです。


神や仏がいるから人は苦しむ。
苦しみがあるからこそ、人は悟って幸せになるのです。



2013.12.18 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

電子書籍でも発売している拙書の一部を「無印本命3」誌に2番目という光栄ある位置に掲載していただきました。
http://pocket.jp/?p=2205

心より感謝しています。

本は過去の「告白」で、
アウグスティヌスの「告白録」からもじらせていただいています。

「コンフィテーリ」には、「罪の告白、懺悔」といういみから、
また、感謝と賛美に変わっていくものがあります。

現時点の私の修行のステージは、懺悔から「感謝」の中にいるところです。
そして、半年後くらいに魂のレベルが上がり、指導霊様の指示がきたら、「告白」の続編が完成するだろうと考えています。

昔見えていなかったことが、苦しみという炎を経て浄化されてきたと、まことに有り難いと思っています。



2013.12.18 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
中島義道さんという哲学者がいます。

「人生に生きる価値も意味もない」
「人は皆エゴイスト」
「間もなく死んでしまうし、どうあがいたって人生は苦しみだ。
死んでしまう限り幸福にはなれないのだからグレて生きよ。」

彼の著作はどれも人生の真実を衝いているだけに、
「そうじゃないんだよ」としたり顔で反論すれば、
「ああ、自分は義道さんの指摘するところのエゴイストそのものになってしまう」ということも分かっていたので、
やはり、彼のいる位置から逃れられなかったのですが、
実は、彼の観ている人生の真実はお釈迦様と同じなのです。

「一切皆苦」
生きていることはすべて苦しみである。


私も、そのようにこの世を観念して、水谷修さんに向かって
「人生なんてどう考えたって苦しみだし、無意味だ」と聞いたら、
先生は
「よし、これからお前を○○大のギドウ(義道)と呼ぼう」と揶揄され、
「言葉を棄てること。学問に答えはない。」とだけ言われたことがあります。

あの人は、絶対に「そうじゃないんだよ。これこれはこうでね・・・」と論理では絶対に返さない。

仮に、論理的に答えが見つかったとしても、きっとそこに幸せなんてない。


水谷修先生は、彼と昔友人だったと言いますが、
「明日地球が滅びるとしてもそれでも、リンゴの木を植える生き方を選ぶ」と言います。


明日地球が滅びるのだったら、
明日死んでしまうことを考えたら、
何がしたい?


犯罪の限りを尽くすか、

愛する人に感謝を伝えて一日を過ごすか。


すべて、空に帰してしまうのだったら、何をしても同じなのでしょうが、
「違う」と感じるのは私だけでしょうか。




そこでの言葉、
「われーそれ」の言葉はすべて無意味になって、
「われーなんじ」の言葉だけが、本当に価値あるものとして、命の根源に響いてくるのだと思います。



2013.12.15 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人のために生きる。

人の笑顔が見たい。

人の幸せのために生きる。

働く。

本質はシンプル。

大きいことも小さいことも。

それに人生をかける。

ただそれを続けていさえすれば
それでいい。


それが幸せ。
2013.12.14 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
なぜ私はこんなに幸せなのか。

なぜか。

なぜか。









よく


わかりません





(笑)
2013.12.14 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人間の脳の活動の動機はたった二種類しかないそうです。


それは、すなわち、
「不快を避ける」

「快を求めるか」
のどちらかしかないようです。

不快を避ける活動が、論理だったり、意味づけだったりします。
それは、恐れや不安と言ってもいいのでしょうか。
不快から避けることが行動の原理として多くなると、喜びが少なくなりますから、人は憂鬱やプレッシャーを溜めこみ脳から始まり、身体にもそれは影響が出てきます。
煩悩の働きです。
それによって人間は苦しみます。

そして、不快を避けようとして、より大きな不快に直面するというのが、法則のようです。



ある臨床心理士の先生にヨーガや瞑想を指導していただいていましたが、その時に
ヴィサッパナー瞑想を教えてもらいました。

人は、意味づけに苦しむということ。

そのほとんどが、
・過去の想起
・未来への不安
・他人の思惑

でしかないということです。

それらの思考に気がつき、「ああ、雑念、雑念」というレッテル貼りをして観察するということです。


PTSDなどの精神的な症状で苦しんでいる人に対して有効なだけでなく、
実は、呼吸法によってチェルノブイリで被曝した人の放射能の量がほとんど下がっていたそうなのです。活性酸素が少なくなるそうで。

これは、スポーツの緊張にもよくつかわれるようです。
私は武道の試合でどつきあい(笑)をするのですが、その緊張は人前のスピーチなど比較になりません(笑)

こんなにも少しのことでコントロールできないほど心の揺れが大きくなるのだな、と思ったりします。

そのような状況に際しても、ヴィサッパナーは使えます。
未来のことを脇に置いておいて、心を鎮めようとするのではなく、
「いまここ」に戻るのです。

「ありのまま」に心の揺れ動くさまをじっと観察するのです。

そして、結果に捉われない。





過去の出来事に、「なぜ」を問うて、何か意味づけをしようとして、意味が見つからずにあれやこれやと考えあぐねてしまって袋小路に迷い込んでいるのが私たち人間の姿ではないでしょうか。


私の中の宇宙のイメージには、
「無数の中心を持たない、無数の大きさの円」というものがあるのですが、
それは、私たちの脳、理性には捉えられない意味です。

宇宙全体に秩序も意味もあることは確かなのですが、
理性が把握できるものではないでしょう。

コントロールできないものをコントロールしようとすることは煩悩の働きで、苦しみのもとになります。
そこには、悪霊や悪魔が忍び寄ってきます。


唯一の実在は、「いま・ここ」「呼吸」の観察。


確実な今をきっちり丁寧に生きることで、私たちには幸福な生が享受できるのではないでしょうか。

2013.12.12 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
先日、武術の大会がありまして、僅差で敗れました。

ビデオで、その様子を見ていたら、セコンドや師範が大声で、
「前に出ろ!前に!」「自分の攻撃で終われ!」「蹴りまで入るよ」と言ってくれたのですが、
試合の最中は一部しか聞こえていなかったようです。

それを、きっちりと実行できていれば明らかに勝利していたと思い、なかなか悔しいです。

自分を客観的に見ると、
「あ、ここをこうした方がもととよくなるな。」ということがすごく分かるのですが、
戦っている最中はいくら気をつけていても気がつかないものです。


お気づきの通り、守護霊とか指導霊というのは地上で修行する際のセコンドみたいなもので、
「ああしろ、こうしろ」とたくさんメッセージを送ってくれる存在です。

守護霊が、「自分と同じくらいの強さのセコンド」。
指導霊が、「その道のプロフェッショナルのセコンド」と見ればよいでしょうか。


間違うこともあると思うのですが、視点は明らかに地上の人間の想像もつかない広さです。

なので、人生の勝負を分けるのは、実力もですが、
優秀なセコンドをつけ、いかにそのセコンドの指示に従うかだと思うのです。


地上の人間が、我を張りすぎて、セコンドの指示を聞かなかったら、
守護霊的には怒るというよりも、哀しいので、
祈りの習慣をつけて、耳を傾けることはしたいものですね。


優秀な指導霊、守護霊をつけて力をいただくコツは、
「人の役に立ちたい」「本気で豊かになりたい」「神さまのお役に立ちたい」と思うこと。

そうすると、奇跡が次々と起こって、出会いにも恵まれるはずです。





2013.12.04 Wed l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
「救いとは何か」ということについて、考えていましたが、
現時点での私の「そうではないか」と考えていることを。

救いとは、
「存在している」ということです。

つまり、「神から存在を与えられている」ということ。

Es gibt Sein.(There is being.)



つまり、あなたが存在しているということは、神が存在して、またあなたは救われているということの証なのです、
ということです。

救いから外されたら、あなたの存在はこの世界から消滅してしまうわけです。



当然、このような声がたくさん上がるかもしれません。


「神が存在するなら、なぜ私はこのような苦しみを味わなければならないのだ。」と。



Da sage ich,

そこで、私は言いたいのですが、
その苦しみこそ神があなたに「生き方や考え方を変えて幸せになりなさい」と言っている愛の声なのです。

苦しみが存在の中に存在することこそが、救いなのだ、と。


もし、身体に「痛み」が存在しなかったらどうなるでしょう。

骨折して、痛みを感じたら「これはいけない」と、治療をしますね。

骨折しても、痛みを感じても、「この痛みは邪魔だ」と何か薬で消してしまい、日常生活を過ごしていたら、取り返しのつかないことになるでしょう。


あるいは、

火事が起こった時、火災報知機がなります。

そのときに、火災報知機のベルを止めますか。あるいは、火を止めますか。



病気や、苦しみと言うものは、罪そのものではなく、罪を犯しているしるしとして現象として現れてきているものです。

罪とはなにかというと、「神の定めた理法に従わないで生きていること」。
幸せになる道理を知らずに、誤った方向へ向かっていること。
無明ともいいます。

そこから、「学びなさい」ということで、痛みや苦しみを与えてくれているのです。


学ばずに、同じ過ちを繰り返し続けているのであれば、神(理法)は、容赦せずに、その人に次々とその過ちを改めるまで苦しみを与え続けます。

・・・といういい方も不自然で、本当は因果の理法に従って本人の蒔いた種を自分で刈り取っているだけなのです。


苦しみは神の救いの証でしょう。




愚痴や不平不満が多くて「自分は悪くない」「自分は不幸だ」「治せ、藪医者」と言い張っている人は、
「そこで、もいちょっと学びなさい」と放置しておくのが愛でしょう。
感謝と他者のために気配りができるようになれば、病状はかなり良くなるはずです。

小学生中学生でも、勉強していないのに「テスト100点がいい」、「お願いですからそのおもちゃをください。くれなきゃ許さないぞ」「朝昼晩とお菓子しか食べません」という子どもに対して、そのことを聞いてしまう大人は愛のようでいて、違うものです。
子どもだと指導するだけでいいのですが、ごくたまにですが、20代、30代、40代になっても、そういうメンタリティの人がいたりして、反抗してきたりします。
下手な子どもよりたちが悪いので、「大人小学生」だと思って、長い目で見るのがOKでしょう。



ただ、「どうしようもない病気や障害」も本当にあります。
私は学生時代ずっと障害を持った方と遊んでいたのですが、どこをどうとっても彼らが罪だとは思えない。
本当に、感謝や楽しさのほうがはるかに多い。

本人の罪ではなく、「神の恵みが現れるため」の不便とか、使命とかいうものがありますので、
明るく優しく自分を誇って今世を生きて行ってほしいと思います。





2013.12.04 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「考えても考えても答えが見つからない」と言いますが、
それは当然で、論理的思考のすべてが、「不快からいかにして逃れるか」を目的にしているからです。

一流のスポーツ選手や、成功者の考え方を見ていると、
例外なく、「学問的」「論理的」というよりも、「うれしい」方向の直観に従って自分を決断しています。

そして、そのような人間には必ず、「ツキ」が訪れています。


思考や知識を集めても、妥協的な結論しか出ません。
「できるだけ最大多数の人が、五感を頼りに納得できるもの」が論理の世界です。

学問の世界では、批判は美徳です。
これを主張すれば、向こうの主張と対立する。その擦り合わせをしながら互いに真理へと向かっていく態度が重要なのです。
多角的な視点から、答えが見つからない問題を考えていくものです。


一方、
直観、インスピレーションには、奇異なように見えて誰からも理解されがたいものが、世界を変える原動力になったりします。
どこまでも主観的で、説明できないような、常識外れたアイデアが実は真実だったと知る。

前例がないことに挑戦し、失敗も成功と言い張る。

彼らは、どんなにどん底にあって周りの人が「もうだめだ」と言おうが、
「必ずさいごには成功する」と信じて、そして結局のところ、成功を手にします。


「信仰」というのも、そのようなものかもしれません。

「説明されて納得したから信じる」というのでは、人はいつまでたっても信仰の領域に入ることはできないでしょう。

神学があって、信仰があるのではなくして、
まず、信じることから探究が始まるのです。



私の感覚では、
「マインドコントロール」と「信仰」、あるいは、一流のスポーツ選手や実業家が自分に言い聞かせている信念の注ぎ方は、紙一重の違いだと感じています。
あるいは、ビジネスでも、親子の関係でも、あらゆるところで、この「信」のシステムは大切にされています。

ほとんど、方向性の違いといってもいいかもしれません。

神に向かうか、
我欲に向かうか。

ほとんどそれだけです。

人間は信なしでは生きられない。
尊いものである信を踏みにじり、人から本当の信を奪うカルトや全体主義国家は許されるものではないでしょう。


違いは、
「キラキラしているか」「さわやかか」
あるいは
「ドロドロしているか」「なんだか、良く分からないけれど嫌な感じ」か。


(自分が今まで長年試みてきたように)論理でいくら解体しようと、結論はでないでしょう。



どうしたらいいですか、というと、
「センスを磨く」
「嬉しい方向、ワクワクする方向」に向かえば間違いはない
と言うくらいしかありません。

心をきれいにしておくこと。
美しいものに涙できる心を持っておくこと。


そのためには、「これだと思う」上手くいっている人の教えや本を素直に学ぶことと、実行すること。

「人のために何かしなさい」といわれたら、「なんで?」とか聞かずに、やり続ければいいのです。
「いい言葉を話しなさい。悪い言葉を使ってはいけない」と言われたら、あれこれその場で考えこまずに素直に実行し続ければよいのです。
入門したての白帯が、師範に基本を徹底してやるように言われたら、「実戦で使わないから無意味だからやりません」などと言っていては本当の強さは身につかないし、しょせん何もできない人間です。


師を選ぶには、稽古を三年遅らせてでも遅くはないといいます。
愚直に従える師匠を見つけたいものです。


聖書に種をまく人のたとえがありまして、
「みことば」が心にまかれても、
それを受け取らないで腐らせてしまったり、
初めは喜んで受け取るが、忍耐がなく長続きしない、
あるいは、芽を出し成長するが、思い患いによって道をふさがれてしまったりする場合がある。
しかし、耐え忍んで信仰を実らせたら、その大きさはとても豊かなものだと。


信仰を死ぬまで貫いた人を聖人と呼ぶようで、私たちのほとんどはそうではない弱さを持っていますが、
裏切られても、やはり信じることをベースに生きていきたいと思います。




2013.12.04 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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