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本でいっぱいになった部屋の整理をしました。
ORさんの本ともお別れしようと、古書店に持っていったら、「買い取りできません」と、ゴミ出しで処分することになりました。

それはそうと、使わないものを溜めこんでおくと、悪霊がやってきて人生が重くなります。
「断捨離」が流行りましたが、お掃除は最高の神事なのです。


自分は、1600冊くらい本を読んできて、それを言うと校長先生にも驚かれましたが、
「そういうのを溜めこんでいたら、いざという時に何かやくにたつだろう」と思っていましたが、
「そういう溜めこんだものこそが、いざという時に自分の身を動けなくした」というのが、正直なところです(笑)


「学問ができる人が偉い人だろう」とずっと考えてきましたが、
たしかに、学問ができる人は偉いのですが、
楽しく明るく優しく面白く生きている人の方が、きっと幸せだろうな、と(笑)



使わない知識や学問は、思い切って棄ててみる。

というのがひとつ。



もうひとつは、「何を学ぶか」です。


素人の知恵は少なめでいいので、
歴史上の偉人や、成功者の言葉に素直に耳を傾ける。


無数のブログや掲示板が存在しますが、
多くが、「コミュニケーション」にはなれど、「無駄な知識」として切り捨てなければならないものです。

現代は情報化社会ですが、
「情報をたくさん持っているものが勝ち」なのではなく、
「必要な情報だけを取捨選択して、決断し行動すること」が必要なのです。

無駄な知識は、かえって生きることの妨げになりがちです。



ただしい学びにもルールというか、王道が存在します。


学ぶなら、
大学にいって講義を受ける、
ゼミで討論する、
講演会に行く
信頼に足る本を読む。

特に、古典を読みこまなくてはならない。

など、しっかりしたところで真摯に学び続ける必要があります。



知をインプットしながら、それを正しく受け止め、自分と擦り合わせ、対話し、血肉にする作業が不可欠です。


あるいは、
成功者の本は、しっかり学んで、世間の声と外れたことがあっても、我でさえぎらず、素直に学んでいけばまず間違いはありません。

何も実行しないうちから分かった気になって「あーだ、こーだ」と能書きを垂れていては成長は望めないし、きっとそういう人生しか送ることはできないでしょう。

行っていれば、「ああ、そういうことだったのか」と分かってくる。


武道の世界でも、役に立たないように見える型や基本を何回も反復しますが、
実は、強くなるためにはあの基本がなければ何もできないし、根っこのようなものだったのだと思います。

なので、素直になろう。



「学ぶルール」「発言のルール」もそこで身につける。

良い師につくことは、知識だけでなく「姿勢」も。

学問の世界では、「素直」は実は悪徳で、「批判的」が美徳なのですが、
社会に出ると、それがくるっと転回してしまう(笑)


なので、表面的な言葉の「素直」「批判的」ではなくて、
本当の意味で「開かれた」正しい「素直」「批判的」を身につけるべき尊敬する師を見つけたら、
どこまでもその人に対しては「我」を捨て去って、素直でありたいなあと思う。




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2013.11.28 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
とかく、宗教ほど悪霊の影響下に置かれやすい場所はないでしょう。

救済力の大きい宗教ほど、悪霊の巣窟になり、腐敗していくという現象があるのは奇妙なパラドックスです。

つまり、どういうことか。
「救われたがっている者」がこの「世知辛い世の中」ではあまりにも多すぎるのです。


某SNSにおいて宗教系の話題で、ネット上で一番荒れているのは、オウムでも、幸福の科学でもありません。
キリスト教とS会は酷い。

「自分は環境の被害者だ。自分は悪くない。自分がこんなに不幸なのはひとえにすべて相手のせいだ」と思いこみ、神の救済を待ちのぞんでいるパターン。
あるいは、「誰も何もしてくれない。誰も自分を救ってくれない」と、自己の中にあるコンプレックスを教団に向けるパターン。

攻撃的、批判的なやり取りにどうしてもなってしまうし、
そこにいる人たちは、不満を抱きながら本当はそこから離れたくない。


自分の本心や、心からの望み、神からの声が、
くだらないやり取りのなかに隠れてしまい、「神などいない」と言いだす。




テレビで、虐待を受けた子どもを預かっている施設の様子をやっていました。

その前日に、娘を溺愛するイクメンパパたちが映しだされていて、私はすっかりデレデレだったので、余計、惨憺たる気持ちにかられました。


暴力を受けた子どもは、同じように他人に暴力をふるったり、自分に自信が持てず、人と話をすることすらできない。
あるいは、自傷行為を繰り返す。


でも、くるしみ、悲しみ、必死で戦っている人間に、
「お前の心が間違っていたから、お前は苦しむんだ。お前には悪霊がついている」というようなことを私は言えないし、
もし、そういうことを平気で言える人間がいたら、その人間こそイエスが最も嫌った部類の人に他ならないだろう。

そして、多くの心ある人は、
傷ついた子どもの心を理解して抱きしめてあげたいと思うでしょう。


しかし、また同時に、

そういう子どもが大人になってからも、やはり傷は残るし、対人関係で躓き、社会に対して恨みを持つかもしれない。
心ある人であればあるほど、彼らを軽蔑し、冷たく当たらざるを得ないのです。

もし、私がそういう大人に嫌がらせや暴力をうけたとして、仮にそういう背景を知っていたところで、情状酌量はできないし、きっと多くの人と同じように縁を切るだろう。
少し非情なところもある人間なんだなと思いました。

私たちは、全員で、彼らを追いやっている。


執拗に嫌がらせをしている人の裏を取ってみたら、子どもの頃虐待を受けていた過去が分かったりして、
他人に対してはいていた暴言のすべては、本当はすべて自分に向けられたものかもしれないと思ったものです。

彼は、自分の苦しみを他人にも分かって欲しいとそういうことをするのであろうし、どこかに救いを求めているのだろう。しかし、きっと残るのは自己嫌悪しかない。


彼らは、自分を病気にして、「無力な存在」と認められることで、「優しくされたい、理解されたい」と欲する。
しかし、その手段によって愛を得ることはたいがいが徒労に終わる。


そういう人たちを立ち直らすことができる本物の愛を実践できる人でないと、資格はないのかもしれない。

愛に飢えた人がいるのは何も現代だけでなく、有史以来連綿と続けられてきた常である。


人は確かに自助努力によってどこまでも幸せを掴んでいくこともできるのですが、
「どうしようもできない人間の無力」は存在します。


私の場合は、「神との断絶」から抜け出したところに住んでいますので、いくらでも自由は利きますし、
「あのどうしようもできない不幸があったからこそ、今の俺がいる」という強さのようなものはあります。

そして、苦しんでいる人が、「もしこれをしたら運命が変わる」というのも分かるけれども、
「これをやれ」という上から目線の押しつけになり、「意味分かんねえ。説明しろよ」となり、さらに道が遠ざかるのを恐れているので、いうのには気を使います。


宗教霊や悪霊は、
神を見ていないし、人によって自分の苦しみを紛らわそうとしていたりするのです。

人の集まりに騙されず、批判せず、傷つけられず、
それが何の得にもならないことを覚った上で、自分の足元と自分の幸福をしっかり作っていくことこそが大切なのではないかと思います。

そして、祈ることです。

「私」がその人を「いい子に」変えようとかでは決してなく、
彼らが、自我によって隠れた、汚れのない自分の中の仏性に気がつき、それを発揮していけるよう。幸せな道を歩めることを。



神は、
ぶっちゃけ、自分のところにいる立派な兄のことはどうでもよくて、
自分を裏切って苦しんでいるどら息子の方が大好きなのです。

人間の一番の不幸は、「信がない」以外にないのではないかと思っています。


もし、
人と人の間に、素直な信があって、
お互いの心が温かく開けあっているなら、
この世に一切の不幸はないだろうし、
きっとそれを「神の国」とか呼ぶのではないでしょうか。




(まとまらない記事で申し訳ないです。)

















2013.11.22 Fri l 未分類 l COM(3) TB(0) l top ▲
昔学んでいたノートを見返していて足りなかったことに気がついた。

頭でいい話を知ってるだけじゃなくて。
ずっとカッコ悪いとか思ってたことだけど真実なこと。


もっと、人に優しくしよう。
自分から笑顔を作って他人に分け与えよう。
裏切られても与え続けよう。

自分に対しても、
他人に対しても、
真摯になろう。

話を親身になって聞いてあげよう。
喜んでたら一緒に喜んで、
悲しんでたら一緒に悲しもう。

完璧には無理だけれど、相手のことに関心を抱こう。

怒りや愚痴に対しては、
「わかるけれど、ダメだよ」。

人を裁いたり批判したりしないように気をつけたい。正論でも邪論でも。
忍耐強く許す心を持てるように。

人と人の間の恐れや不信を取り除きたい。

すべてのことに感謝して、
相手の幸せを喜べる自分でありたい。


2013.11.20 Wed l 未分類 l COM(3) TB(0) l top ▲
少し前になりますが、「夜回り先生」で知られる水谷修さんの講演の後、一緒に飲みました。

彼は、「心の病」に対する精神医療を批判し、スピリチュアルケアの必要性を強く訴えます。

いろいろと、質問や考えを述べる私に対して、
「お前は、語りすぎだ。言葉や学問に救いはない。」といわれて
「はい」と。

雄弁なうちは、私もまだ浅いのだなと。
まだまだ修行です。

私が、将来あれをやりたい、これをやりたいというと、
「まず、人を幸せにするためには自分が幸せになること」
「人には分相応がある。それ以上の不分相応のことをしたら不幸しかない」とおっしゃられました。


本当にその通りだと思います。

人の価値はやった仕事の大きさよりも、自分に与えられた使命をどれだけ大きな心を込めてやるかなのです。
愛がなければ、すべては無に等しい。



そもそも、私は青少年問題の助けにスピリチュアルケアが必要だとずっと考えてきましたが、
K会の教えが、子どもの苦しみに対して、ほとんど無力で、逆に苦しむ子どもたちを追い詰めるものであることは、ひしひしと感じ取っていましたが、
そのなかで出会った水谷修氏の「いいんだよ」は、衝撃的でした。
(詳しくは拙著に譲る。)

OR氏が「若者のリストカットは我慢することを知らずに、甘やかされたからだ」といっているのを見て、
怒りや悲しみを通り越して、反論する気もなく、呆れかえりました。


K会の「グリーフ・ケア」の精神のなさは、ほとんど暴走と言ってもいいかもしれません。
3.11に際しても、あの対応は・・・。


私以外に、K会の思想や教祖の欠点を分析されているかたがいるので、詳しくはその方たちに任せますが、
ORさん及び、K会は、単に「魂の力量がなかっただけ」ではないかと思っています。

OR氏が、分をわきまえて、単なるいち思想家だったら、私はファンとしてついていっていたかもしれない。
しかし、自らを、神やエル・カンターレと言い始めたとき、また、「映画の主人公」とのギャップを見たとき、
「明らかに違う!」と感じました。

教えにしても、かなり勉強はしているが、「ブッダ」や「救世主」のレベルの根本的な人間洞察が欠けていると当時の中学生ながらにも分かりました。


お金儲けにしても、組織作りにしても、一流の事業家から見たら、本当に力量不足で、「下手」なのです。
なので、トラブルが絶えない。

なによりも、魂にある徳のなさが根本にあり、
本人はそれを、読書量とか、講演回数とか、能力とかで隠そうとしているのではないかと思います。
それがかえって、信者だけでなく、本人の重荷になっている。

努力は、本当に素晴らしいし、見習ってもいいと思っていますが、
「すべてを棄てたところ」「直観」に真実が見えてくると自分の感覚で感じています。


小学生はそのままで素晴らしいのですが、もし、その小学生が先生をやるとなるとなると「不分相応」で、
あらゆるところに迷惑が及ぶでしょう。
小学生の存在が悪なのではないし、先生の存在が悪なのではありません。
「小学生が先生になる」から悪なのです。
「合わないことをやる」とき、その縁が悪になるのです。


マザー・テレサが、エレキギターを持って1億ドルを稼ぐロック歌手になってはいけないのです。
マイケル・ジャクソンが、プロレスラーになってはいけないのです。
冗談ですが、人には神から与えられたそれぞれの「分」があります。


「不分相応」で、「自分は神だ」「世界宗教だ」と言い始めるから、
「悪」がそこに生じるのです。

下手くそなお金儲けをするから、悪になるし、
下手くそな組織づくりをするから、悪が出てくる。


オウムにしろ、
あれが、単なる小さなヨガ教室で終わっていたら、麻原の被害妄想も拡大することはなく、
「どこでもいる詐欺師」で終わっていたはずです。



ただ、本当にそれに値するようなとてつもない器を持った本物の人はいます。
その人は自分で何かをわざとらしくアピールするよりも、周りに勝手に持ちあげられていくものです。
本物は必ずいますので、その人に出会ったときに、自分は準備が出来ているか。


キリストも、「いつ来るか分からないその時に備えて目覚めていなさい」と言います。
OR程度に騙されたからと言って、失望することは全くないのです。

淡々と、自分のなすべき仕事を「その時」にそなえてしておくことなのです。


私たちにできることは、K会の「いたらなさ」をあげつらい、責めることではないし、
それをすれば、私たちを本当に必要としている人に寄り添うことにはなりません。


K会を批判する人に「お前は、ORと同じことができるのか。お前はそんなに偉いのか。」と言う人は少なくありませんが、
少なくとも、ORの「できなかったこと」「できないこと」を皆さんはいくらでもできるはずです。
それをやればいいんです。
それを越えて幸せになってしまっていることも含めて、
「今世の修行の課題」です。

人に親切にしよう、楽しく生きよう、笑顔で生きよう、感謝をしようということ。

そうやって積極的にやっていくと、いつのまにかK会をあっさり越えて、もっともっと素晴らしい景色が見えてきますし、あれだけ大きくて煩わしかったかったK会の存在がどうでもよくなっているはずです。


魂の学びや成長や、輪廻はありますし、
そして、「光の使命」もあるんです。

絶望してはいけません。

叩けば開かれるし、
求めれば与えられます。


できれば、いろんな経験も罪もすべてが信じられなくなった苦しさも含めて、
すべては恵みなのです。

私が神さまだったら、絶対にあなたの罪くらい笑って許しますから、
本物の神さまがあなたを許さないわけはないんです。

そのなかで、成長したことや恵みをうけたことを告白し、
堂々と、神さまの前で胸を張って天に帰れるようにみなさんでがんばりましょう!










2013.11.19 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
心の眼でしか見えない世界・・・イデアとか、実相とか、空とか言いますけれども、
神は、すべての人、存在を招いています。

それが「イデオロギー」になってしまうと、神の招きではなく、人や欲得の招きになってしまいます。

「伝道」には、
神の霊の導きによるものと、人の我が混じっているものが混在します。


魂が魂に語りかけることこそが神の教えをつたえること。

神の教え、真理はそれ自体は是なのでしょう。

しかしそれを伝える人が、真理のうちに生きておらず、欲得や見返りのうちにそれをして、
信心や思想を押しつける形になると、
そこに「偽善」が生じます。

「宗教や神が嫌い」と言う人の多くが、
そこに「偽善」があるのを見抜いているからでしょう。
宗教者の多くが、「自分は選ばれた人間だ」と思い、人を見下していることを彼らは察知する。

つまり、彼(彼女)は真実の愛を求めながら、それは存在しないと観念している。

神を求めながら、人に躓き、ついにあきらめてしまうわけです。


押し付ける人も、反発を覚える人も、
両者は、真に神の内に生きていることを自覚しているとは言えない。

波風が立つ中で、迷いはますます大きくなる。



目覚めた人は、
どちらからも、静かに身を引きます。
そして、無視するわけではなく、ただ呼びかける。








・新約聖書のルカの福音書を通読していました。

とにかく、病気治しや、悪霊の追い出し、そして奇跡が何度も何度も繰り返されます。
以前は、「人生訓」として読みがちだった聖書ですが、
イエスの病気治しなどの奇跡をたとえ話でなく、「本当にあった」として読んでみると、
当時のイスラエルの人々のイエスの存在のインパクトの大きさが尋常でないことがわかります。
現代の宗教者は長い祈祷によって祈願をして、それでも治るか治らないかですが、
イエスは、手を触れただけで、あるいは服の裾を触られただけで、一生治らなかった病気がすぐに治ったり、です。
叱るだけで、大波を凪にかえたりします。
あるいは、周りが笑う中で、死人を何人も生き返らせています。
これを、目の前で見てしまったとしたら、「やばい」。「伝えずにはいられない奇跡」です。

イエスの中に、はかりしれないオーラや神の光が注がれて満たされていたことは容易に想像できます。

大学や教会では、道徳や哲学思想での解釈になりがちですが、
イエスの力には、人間の理性が有無を言えない衝撃があったのでしょう。

群衆が押し掛ける様子は、まるで熱狂した観客に失神者が出るまでのビートルズのようなイメージです。



イエスの周りに描かれているのは、
救いを求めたかと思いきや、次の瞬間にはイエスに激怒し、そうかと思えば、こぞって神を賛美する群衆。

そして、イエスに恨みを抱き、わずかな言葉尻でもあればそれを捉えて、裁き、殺そうとする、律法学者やファリサイ派の人々。

私が感じたのは、「自分の真意を覚ってもらえず、宣教に苦労する孤独な、しかし力強いイエス」というものです。
だれしも、集団圧力や「他人にどう見られているか」ということには非常に恐れるものです。

イエスの視点も、群衆の視点も、律法学者の視点も、イエスを裏切った弟子の視点も、
だれの視点も私たちは持ち合わせているのではないでしょうか。


もうひとつが、詳細が描かれていないお弟子さんのユダの像。
彼は、悪人ではなく、ごく普通の常識的な神経の持ち主であったのではないかと想像できます。
イエスは「裏切るものは不幸だ。生まれない方がそのもののために良かった」とひどいことを言っていますが、本当は、責めではなく、「お前もかわいそうになあ」という人間の弱さに対する哀しみの深さだったのかもしれません。

そして、引き止めることもせず、「あなたのすべきことをしなさい」と。



で、「押しつけ」の話ですが、
真理は、完全に自由が与えられた中で、主体的に選び取らないと嘘っぱちなんじゃないかと思います。

誰かに強制されたり、
心にもない形だけの信仰は、きっと本当の信仰ではないのでしょう。

命がけで伝道はしているのですが、強制改宗させたというイエスの話はきかない。
むしろ、いのちがけで伝道しながら、支配者に対して従順で、死刑になってしまった。



「そのために生き、かつ死ぬことができるような主観的な真理」をキルケゴールは語りましたが、世の中の95パーセント以上がそれを見つけられず「群衆」になっている不幸な時代なのかもしれません。


K会で燃え盛る心を抱き活動をしていた人も、「裏切られた」気持ちと、その反動で何かを信じることが怖くなって日常生活に支障をきたしている場合も多いと聞きます。

でも、不信が支配するような世界は地獄でしょうし、「命がけで信じることのできる」自分にとっての真理を見つけることは、それぞれ一人ひとり向き合うべき人生の課題なのかもしれません。








2013.11.14 Thu l 未分類 l COM(4) TB(0) l top ▲
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