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古代から悪の問題については様々な考察がなされてきていますが、哲学的な考察は別の機会に回すとして、
「悪は単に善の欠如に過ぎない」という考え方が新プラトニズムやアウグスティヌスにより言われてきており、
「そういう考えで行くと、楽になるんじゃないかな」くらいの気持ちで考えると、
一歩も二歩も先に進めるかと思います。


OR氏の「富の法」の著作を読んだら、
「嫉妬はいけない」とか「善い人は大金持ちになるべき」とか、富についての考え方が自分と同じで、そうだなと思いつつ。
ただ、最後に下心がちらほら見えるのが、サタンの隙。

内容は、成功哲学の本を数冊読んで、誰でも掴んでまとめられるエッセンスなのだが、信者の人はORオリジナルの思想と考えているのだろうか。


イエスは、「金持ちは天国に入れない」と言ったものの、「金儲けをしたものは天国に入れない」とは一言も言っていない。
「財産を貧しい人に売り払わないと天の国を引き継ぐことはできない」といったのは、
「世のため人のため、とりわけ、苦しんでいる人を助けないための金は持っていても仕方がない」ということだろうし、
自分のためだけに使うお金、自分の自尊心を満たすためだけに使うお金は、
本当は、「苦しみ」なんじゃないかなあと思います。


私は、見知らぬ人でもすぐに声をかけるタイプの人間で、
まだ就職活動期の頃、東京正心館で、ある会社の人事担当を続けているという信者さんにいつもの調子で、ニコニコと声をかけて、仕事の話に。
眼を細め、むすっとしたようなうすら笑いを浮かべながら、
「私だったらね、君採用しないわ。いじめられるタイプだろうねえ。」と。
「必要なのは、儲けさせたるという気概だよ。」
「こんなところに来て、幸福にならないやつぁいねえよ。」
と、人を見下したようなうすら笑いの顔で。


一度も笑顔のないあの人のどこをどう見たら幸福なのか理解に苦しみましたが(笑)
というか、あの厭味な顔から発される「幸福」という言葉の響きにぞっとしたりもしました。


「俺も、あんたみたいな奴がいる会社で働きたくはないっすねえ」と言い返してやろうと思いましたが、
イヤミに対して厭味に返さず、
「ありがとうございました!勉強になりました。」と頭を下げました。



今考えると、行く先々で出会う、「嫌な奴」というのは、自分自身の嫌なところの投影であって、
必ず、自分に直さなければいけない大切なことを教えてくれる、先生のような存在。
それを乗り越えることができず、文句を言っていると、必ずまた嫌な人(笑)が出てくる。

自分は、「人にされた嫌なことをしない」と決めることです。







やはり、最後に勝つのは、いい奴。
「いい奴は成功者になれない論」の本を、読みますが、私に言わせれば、あれは成功ではない。
幸せになって感謝されて、多くの人を笑顔にして、困っている人を助けて、はじめて成功なのだ。


「いい奴だったら、強くなれ。いや、強くならなきゃいけない」
というのが、私の信念。

暴力や怒りではなく、「強気」ということ。
悪に対しては一歩も引かないということ。


イエスが、「右の頬に対して左の頬も」「敵を愛せ」というのは、
いいなりになれというのではなく、
人間が悪に傾きやすい存在であることを許してはいるが、
悪そのものに対しては、一ミリたりとも許してはならないという強固な姿勢で行かないとだめだよ、
ということを伝えたかったのでしょう。


「力なき正義は無能なり」なんです。
負ければ、正論も愚痴でしかない。


善で、押し切って押し切って押し切らなきゃいけない。


いじめが教室にあったとして、「子ども同士のことだから子どもに任せよう」なんて言って何もできない先生はダメです。
「人を傷つけることはお前自身を不幸にするよ」、とバシっと言わなければならないし、
いじめられて自身を失ってる子には、「絶対自分をいじめたり責めたり悪いと思ったりするな。その代わり、人のために親切してごらん。」と言う。

いじめの解決方法はたくさんあるが、いじめが本当にダメな原因については「人権」以上の、確固たる原理がないし、人権の概念すらも軽視されがちだ。

要は、悪に対して引くな、ということ。





私は、
将来、お金儲けをして(しながら)、
教育事業と、ホームレス支援をしますが、
大原則は、
お金持ちは、貧乏人を軽蔑しない、
貧乏人は、お金持ちを僻まない、ということ。





K会を脱会してそこから何を学ぶかってすごく大切なことで、
「根っこから腐っていた」と見るか
「毒麦も混じっていた」と見るかでしょう。



自分は、K会からやられた嫌なことを絶対しない。


たとえば、
苦しんでいる信者を見下したり、笑い飛ばしたりとか、裁いたりとか、
お金の無理な負担や活動をしいたりとか、
しない。


逆に、
どうやったら、人が嫌がらないか、素敵で幸せな気持ちになれるかを、徹底的に考える。



それが出来ないK会は、もう潰れるしかない。

仮に、すべての過ちを詫びて、反省し、償いをしたら、
正しい心を持った大物アンチは、涙を流して喜び、教団の再建に関わるかもしれない。



唯物論的立場から見るK会と、
信仰の立場から見るK会では、
見方が違ってきます。

悪の組織(笑)と見るか、
足りないところがありすぎるけれど、それに気がつけていないで、どんどん自滅している、と見るか。



で、
なぜか、K会で得た「いいこと」も忘れようとしている人がいて、
「心の教え」まで否定してしまうと、かなりもったいない、
というか、成功は不可能と言ってもいいかもしれません。


神さまはいますし、自分たちの魂を助けてくれる存在もやはりいる。

真理は永遠に不滅で、問題なのは時代時代やTPOにおける説き方。





K会の嫌なことは何か痛みを覚えたところに、宝があります。
それを人にやらなければ、魂的にはそれだけで合格。


いいことを、人にしてあげれば、もっと高得点。


つまづいたところで、
転んだまま動かないか、
山を乗り越えてやるぞと思うかで、
意味のある学びの進む速さは違ってくるのかなと思います。







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2013.10.20 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
4年間教会学校に関わってきているが、きっとどこまでいってもそこが原点なのかもしれない。

子どもと接する時、私は最大限の注意と尊敬をはらって、子どもたちの心になにかを伝えようとする。

伝える、教えるというよりも、考えさせ、気づきを促し、それぞれの心のうちにあるなにかに小さな火をともして欲しいという。


子どもの心は白い。

私は間違ったことを教えているかもしれないが、
それでも、自分の中で信じていることを、幼子の目線にまで下っていき、まっすぐに分かち合う。

彼らは、私たちよりもはるかに進んだ魂であるのだ。


何かを信じることができずに、心が汚れきってしまったと感じる私は子どもたちと遊ぶたび、「戻ってきた」と感じる。

授業のプリントを作りながら、心があらわれる。


教会は宗教云々よりも、まずは「あたたかい第二の家」のような存在であって欲しい。

教義や、解釈よりも、人生の困難に出会った時、ヒントを得、乗り越えていく、支えの場所であってほしい。


「宗教」にまつわるドロドロさは一切ない。

昔からその地に根付いてきたホームのようなあたたかさ。



私は、「キリスト教」を教えるというよりも、
あなたがた一人ひとりは大切な存在だ、愛されているんだよというメッセージを伝えたかったし、
子どもたちは生徒というよりも、友人であった。


これから、この子どもたちの人生にどんなことがあって、友人たちとどんな感動や涙を綴っていくのだろう、
苦難もあるかもしれない、
でも、負けないでほしいと、切に願う。


ちなみに、観察しているところによると、
教会育ちは、中学生以降グレ率が高いのではないかと感じる(笑)

しかし、根はいい。
「裏切ってはいけないものがある。自分を信じて見守っている存在がある。」とどこか心の中に意識がある。

罪の意識を植え付け、「いい子」で育っていくよりも、きっとおそらくそっちの方が健全だ。

いざという時には、教会のイベントにかけつけてきて、手伝いながら、ときに酒を交わす。


本当に大切なものは、
「愛だ」「神だ」「真理だ」と、理屈とかにすると、いとも簡単に傷つけて穢してしまうような気がしている。
それができる人がすごいと思われがちだし、自分のやってきたことはそれに他ならないのだけれども、
最終的には沈黙して感じ取ることが「いき」や「聖」を守ることなのだろう。

普段は意識しないし、よく学んだこともない。
そして、言葉に出さなくても、そっと守っていけるような。


それでいい。

それでいいと思う。





2013.10.12 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
新約聖書のパウロの手紙を読んでいますと、
彼はどうもルサンチマン(怨恨)を棄てきることができず、
自分の弱さや罪にも苦悩していたのではないかと思われます。

「自分のような人間的な弱さを持ち、サタンの誘惑にかられるものが、神の使途として大役をつかさどっていいのか、
いや、弱い自分だからこそ神は選んでくださったのだ。」
というような。

おそらく、人間を苦しめる最も強い感情で、また棄てきることの難しいものは、
「憎しみ」「許せない」「復讐してやる」
という気持ちだと思います。

仏教では、「怒りは毒」であることを明確にし、
「怒らないことによって怒りに打ち勝て」と説きます。

一番弟子のサーリプトラに至ってはすごくて、ある嫉妬するバラモンからこん棒で殴られても「ああ、痛みが生じて消えていくだけだなあ」ということ以外頭になく、そのまますたすたと歩いて行って、
それだけで、そのバラモンを震撼させ、回心させた(勝手にした?)そうです。


ハンムラビ法典の「同害復讐」は、「復讐を認めるが、決められた以上にはしてはいけない」という戒めの法律だったようです。

キリストに至っては、
「歯には歯をと思うな。右の頬には左の頬もだせ。上着を取られたら下着も与えろ。」と常人ではできないようなレベルの道徳を説きます。



パウロはどうでしょうか。


「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。
『復讐は私のすること。私が報復する。』と主は言われる。

あなたの敵が餓えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば燃え盛る炭火を彼の頭に積むことになる。

悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。」
(ローマ信徒への手紙 12)


つまり、自分をいじめる人がいたら、イエスの説かれたように、親切にしなければいけない。
・・・が、やはり憎しみは消えないわけです。
思いっきり、復讐をしたり嫌がらせをしたりして、彼の苦しむ姿をみて
「ははは、ざまあ見やがれ、よくも俺を騙したり、苦しめたな。当然の報いだ」と高笑いしたいところですが、
復讐はいけないのです。
分かっているのですが、したくなるのです。
そこで、パウロは神に復讐をさせます。自分の怒りを神に代弁してもらうのです。


やはり、彼の心の中には復讐したくてしたくてたまらない気持が隠れていたとしか読み取れません。

そんな彼なりに苦しんだ結果、方便を言い聞かせたのでしょう。
実際に神の怒りや罰というのはなくて、ただ、自分のなした悪が苦しみとなって本人に尽き回るだけです。


(思うに、ユダヤ民族と言うのはいじめられていた民かつ、自分だけ神に選ばれた特別な民の自覚があって、
周りの強い民族に対して復讐心を抱いていたのではないか。
そして、父性的で厳格な裁きの神も、人間に完璧を求め、それ以外許さないという脅しがあり、
キリスト教も、人は皆「罪人」ということにしてしまい、鞭のあとのアメの、ダブルバインドで、すべての人を教会に取り込んでしまった側面も否定できないのではないかと。まるで、ACのできる家庭の映しのような。詳しくは別の機会に。)


「勝手に相手は自滅するからお前は手を下すな。したらお前も不幸になるぞ。」という。

親切をされた敵からは、「なんかおまえ別の動機が隠れてないか?たくらんでないか」と思うこと請け合いなのですが。
親切をすれば、やはり自分に返ってきますから、本当は復讐のためというよりも、「自分のため」でいいんじゃないでしょうか。



因果の理法から言いますと、
自分が親切にしたことはすべて自分に福楽となって返ってくるし、
相手がどんなに悪かろうが、他人にした嫌なことは、自分に苦しみとなって戻ってくるわけです。




アンチを辞めるのは、「それがいいことだから、悪いことだから」「人に辞めろと言われた」よりも、
一番は「自分が楽になるため」と考えたらよいのではないかと提案してみます。

2013.10.11 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
これまで、K会やスピリチュアリティについての批判的な考察がほとんどを占めていましたが、
それだけで終わってしまっていては、本当の意味で呪縛から放たれたとは言えません。

なので、今回は前向きなお話を。

私が必要だと思うのは、「エンパワメント」ということです。

人間は誰しも、「善いものとなりたい」「成長していきたい」という魂のうちなる声をもっていて、
それに喜びを感じるように出来ているはずです。

そして、それが人々を嬉しく楽しく喜ばせるものであれば、必ず神仏の助けが入り、インスピレーションや「ツキ」がどんどん来るようにできています。

ところが、多くの人がそれを抑圧して、そのなかで出口が見つからずに
「騙されるのではないか」と、盲信を避けるために疑いのうちに苦悩しています。

頭や理屈の声は嘘だろうと経験上感じますし、それが増えると自分自身が不自由になります。


「ワクワクする方向」
「自分の目が輝く方向」
が正解で、そして、それは人によって必ず違うようにできています。

ある人はお金儲け、ある人は政治、ある人は教育、ある人は芸術だったり。

その声に従えば、「客観的」に見ていくら不可能に見えるようなことでも必ず達成してしまうようになっています。

その声を邪魔するのが常識だったり、世間の声だったり、ダメだしだったり。

気にせず、あなたの魂が感じて、しっかりクリアに見えている「原因と結果の法則」を信じて疑わずに進むことです。


カルトの教祖などが信者を「疑ってはいけない」と動かすのもマインドコントロールなのですが、
実は、衝撃的なことを言えば、世の中の成功者のすべては(そういっても過言でない)、マインドコントロールの中にあります。
いわば、「ウキウキワクワク病」に罹ってしまっているのです。

伝説の野球選手も、事業の成功者も、格闘技のチャンピオンも例外なくそうです。


はっきり言いますが、マインドコントロールは悪くありません。むしろ、社会に有益です。
カルト教祖が使うか、成功者が使うかで、薬にも毒にもなります。

他人にコントロール「される」か、自分自身の無限性を信じるかの違いです。

私は、カルトの過ちを正すためにも、「正しいマインドコントロール」を学ぶ必要は不可欠だと思いますし、
カルトの闇は、「本当の光」のなかで明らかになると思っています。

傷つけられたことには、喜びと感謝で対抗しましょう。

カルトには、「本物のウキウキワクワクや喜び」がなく、
「あれ?どこか不自然だな」と思うことがあり、それはうまく理屈で固めてきます。
「信じさせよう」として、コントロールするのも、特徴です。


富士山に登るのと同じで、
麓からはなにも見えませんし、どれも怪しく見えます。
しかし、登り始めると、はっきり分かってきます。


感謝をたくさんしよう。
人のために親切にしよう。
前向きな言葉を使おう。

自分の中の無限の力を信じて、喜んで毎日を過ごそうというところから。


読んでくださってありがとうございます。

合掌。







2013.10.11 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
K会を去った後、私の中には一切の霊的なものに対する疑で満ちていた半面、心の奥底には「本当の真理・浄福に到達したい」という欲求が強く渦巻いていた。

疑というのも、罪にほかならないのであるが、盲信への堕落への堤防ということを考える限りでは役割はある。
とはいえ、疑のうちでは人は絶対に浄福に到達することは不可能だ。

幼子が親の愛を疑いもなく信じ、飛び込んでいくような信がない限り父なる真理には到達しえないし、
断言するなら、信のうちにしか幸福はあり得ない。



高橋信次の『悪霊』を読み、ああ、やはり悪霊はいたのだと感じる。
読んだからそう思うとかいうのではなく、悪霊の存在を前提にしないと解きえない運命や現象があまりにも多すぎるからだ。

ただ、いい方がきついと感じる。
これはK会の「悪霊を忌み嫌い、恐怖に陥れる思想」に相通じるものがあるとも感じた。
あるいは、悪霊の存在を持ちだすことは、多くの誤った宗教に利用されることもあるだろうなと思う。


悪霊が暗躍しているのは否定できないが、
苦しむ人を忌み嫌い遠ざけるような、あるいは恐怖に陥れるような「スピリチュアル・ハラスメント」だけは本当に心しなければいけない。
それがあるため、ほとんどの人が、霊の考えを遠ざけて、嘲笑するようになる。

私も、K会時代は常に悪霊の存在に対して神経質になっていたし、落ち込みの状態にあってそこから抜け出せない時は、「これは、悪霊か、あれは悪霊か」と、正体のわからぬものを恐れて、自分を責め、心が安らぐ時がなかった。

「迷いの中の是非は是非ともに非」である。



問題は悪霊の存在の証明よりも、
まずは、光溢れる魂を取り戻すことが先決なのである。







伝統宗教は、もっぱら学問と儀式に堕していて、魂の救済へのコミットメントは少ないのではないかと感じる次第だ。
ただ、それが、垣根を低くして、気軽に入れる雰囲気を作ることは歴史のなせるわざだろう。

教義の論争や、組織の在り方大きさなどで仮論を重ねることは愚の骨頂と言わざるを得ない。
それは、形を変えたエゴイズムなのである。
愛と信に基づかない組織は冷え切ったものである。
ただ、それを求めるあまり、一切を否定することは憎しみにも転化しやすい。
利権をいくら嫌えど、利権は持たねばならぬ。問題はその扱い方である。清濁を併せ飲むということが必要。



S会の折伏に何度もあったことがあった。
魂や霊の話題を心からシャットアウトしていた私は、宗教はどれもインチキおよび、それなりによい、と
S会の信心の誤りを「疑い」のなかで見つめることはあれど、それを喝破することはできなかった。
やはり、伝統宗教にそれをできるエネルギーもパワーもない。
学問は、日常の場からそれを奪い去ってしまった。


「宗教はどれも同じ。インチキ。」という立場からでは、決して本質は掴めない。

道理を知らぬと、素人は簡単に丸めこまれてしまうであろう。

そして、道理に従わぬまま、欲望を増幅し、悪霊を引き寄せるマントラを唱えても、それは余計に精神を破綻させていくのみである。



正しい、心と行いの法則を学び、魂のレベルを上げていけば、
「是は一理あるが、根本的にここで過ちがある」ということが見えてくる。

お経の意味を分かりながら繰り返し唱える行為は、
潜在意識や超意識にそれを染み込ませ、溢れかえらせる効果があり、それが達成されると、一切の願いが叶うようになる。

「ありがとう」を千回言うことも効果がある。


「信じる者は救われる」は過ちだと云う自力宗教の人は述べる。
曰く、「信じるだけで救われるのではなく、実践がともわなければならない。」と。
「盲信の行きつく先は、落とし穴」と。

私から言わせてもらえば、「信じる者も、信じない者も救われている」。
神の救いには人間は逆らえない。

神の救いに逆らおうという自由もある、救いが信じられない、というのが、地獄の姿。
(キルケゴールが、『死に至る病』で、自分自身であろうとしながら、なおも神に反抗するという絶望の段階を挙げている。言わば、絶望にある地獄の住人はどこまでも真摯であるということができる。)

信仰とは、いわば地上においてこの救いを受け入れ、次に道理を悟るきっかけに過ぎない。

からしだね一粒の信仰でよい。
神は我々をとにかく救いたがっている。
信仰とは神の光を全身に注ぐ切れ目でしかない。
ほんの小さな切れ目で神の愛は十分に満たされるのである。


我々が、十字架を切る、手を合わせるというのは、
私がそれをなしているのではなく、神や仏が、我にそれを為さしめているにすぎない。


善行による救いというのは、ただ、善いカルマを積んでそれが自分に返ってきている分にしか過ぎず、なんら救いの条件ではない。
根本には救われているという前提がある。

でも、やはり善いカルマは積んでおいたほうが幸福に生きることができる。





2013.10.07 Mon l 未分類 l COM(3) TB(0) l top ▲
私は哲学、宗教を学問として研究してきたし、その間は、霊や魂については敢えて遠ざけていました。
騙されるとも、オカルトだとも、ナンセンスだとも思っていた。

ただ、やはりどうしても無視できぬものがあり、それは霊や魂、神という概念を助けに持ち込むことですんなり理解できるようになった。
証明しようというものでなく、交わりとして確かにわかるもの。

大きな悪魔には、
ルシファーとアーリマンが。
前者が霊現象で幻惑させ、
後者が人を唯物論に導くという。

実は私は十年近く、そういうものと戦ってきたし、今でも誘惑にかられるし、負けたことも多く。



彼らとの戦いには、正しい知識と、正しい戦い方を習得しなければすぐに背後を掬われる。

敵は前ではなく、
私なのである。

K会がどう、S会がどう、
あいつの性格がこう、
はダミー。
私に害悪を及ぼす悪魔に見えるものは悪魔の誘惑。


許しと慈しみと感謝の心が魔に打ち勝つ手段。

馬鹿にされたとき、
あるいは、矛盾を指摘されたり、
あなたをコントロールしようとする人に出会い心が縛り付けられるときこそチャンスである。
修行である。


許す練習をしよう。
他人のために許すのではなく、自分のために人を許す。
やってみるととても気持ちがよい。


2013.10.05 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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