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「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全や信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」
(使途パウロのコリント信徒への手紙1 13章)



「スピリチュアルや宗教お断り」とか、苦手だという人が多いのも、
それが往々にして、「ハラスメント」と結びつくようになるからだろう。

それは、反動として人々をまた、無神論・唯物論という過ちへと駆り立てることにもなる。


ちくま新書の『現代オカルトの根源』(大田俊寛)に、「幸福の科学」が取り上げられていたのに驚く。

GLA,オウムも、またスピリチュアルや神智学の影響を受けている。
宇宙人論というのも、オカルティズムの世界的状況からすれば、実はそこまで奇異なものではないという。


要するに、常識外れのオカルトは何もK会だけの専売特許ではない。

神秘思想や、オカルトの類は、古代から連綿と続いてきている。

すべての、壮大な霊や魂、神や宇宙論が、「単なる誇大妄想」で一笑に付されるべきではない。


問題は、それが、「妄想の体系」になったとき、差別を生み、カルトを生み、被害者意識を生み、事件まで引き起こすということである。


そこで、私は冒頭に挙げたパウロの言葉を忘れてはいけないと思うのである。

どんなに壮大な世界観や真理を知識として知っていて、
議論で論破しようとも、
基本的な愛がなければ一切は無意味なのである。

パウロのこの言葉は、「カルト」を防ぐ防波堤である。

「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」というイエスのことばも、
つまりは、「倫理なき宗教、道徳なき信仰は無意味である」ということだ。


私は、神学を用いて議論や論争にふける学者よりも、
聖書を読めないものの、愛を知り、人に親切にすることができる子どものほうが立派なキリスト者であると信じる。


私たちは、どんなに壮大な世界観を知っても、(知らなくてもよいが)、
基本には、愛がなければならないし、
知識がその愛を妨げるようなことがあってはゆめゆめならない。

むしろ、愛を増すための知識でなければそれは偽りであろう。



ブッダは、死後の生命の存続や、宇宙の無限か否かという議論について、明言するのを避け、
その代わり、魂が穏やかになる方法を説いた。


一応、私は輪廻を肯定する立場であるし、オカルトも否定はしていないが、
それを追求するあまり、仮論にふけり、己の心と行いを見失うことは本末転倒と言わざるをえない。


あくまでも、魂や霊界という概念は、「追求」や「探究」の範疇ではなく、
私にとっては、魂の修行の上の「前提」や「仮定」として「あったら便利」「つじつまが合う」程度のものである。


神を「対象」にしてしまうことは、
神を自分の延長にして、理解の範疇に押し込めてしまう極めて傲慢なことだろう。
そして、謙虚さをわすれ、それを他人を裁くための道具とすることは、イエスが最も嫌ったことに他ならない。


私たちは、オウムの痛みを覚えていなければならないし、K会の痛みを忘れてはいけないと思う。
しかし、その痛みというのは、理論を超えて、実は人間にとって良心という本質的なものを示してくれる、魂の声なのだということ。


「キリスト教が上、仏教のほうが平和だ、いや、それらは過去の教えだ、これからは新しい救世主が・・・」
という議論は良いのであるが、それはどうでもいい。

「だから、何なのだ」という話である。

あなたの属する教団や宗教や教祖や開祖が偉かろうが、それはあなたの魂が優れていることを示すわけではない。
むしろ、入り込めば入り込むほど、それはあなたを盲目にさせる。

問題は、あなた自身の魂の世話をすることにほかならないし、
ブッダも、ソクラテスも、それを第一になすべき勤めと説く。



「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」
(ヨハネによる福音書 13章)


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2013.09.30 Mon l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
信者の母は、私にいった。
「私はいつでもあなたの幸せを願っているのよ。」と。

普通の人なら、涙を流して感動するのかもしれぬが、

そのきれいな言葉に、言いしれぬ気持ち悪さを覚えた。
人は、きれいな嘘というものに、ぞっとするような戦慄を覚えるものだ。


じゃあ、なんで私は不幸だったのだ?

どこの世界に、子どもの幸せを願いながら、
口答えをすれば、
「誰に飯食わせてもらってるとおもっとるんじゃ」と子どもを叩く親がいるのか。

少し気分を損ねただけで、家族全員に怒鳴り散らす。

そして、愛情深く振舞う。




子どもは、安心して「ありのままの自分」でいることができない。
生きている意味などないと感じるようになる。

私の家庭は、仮面の家庭だった。


どこまでも、宗教は親にとって、支配の道具でしかなかった。


私は、誕生日の日が嫌だった。

恩着せがましさに対して、喜んだふりをしなければいけない。
少しでも、自分に正直に厭な気持を表そうものなら、周りからも「この子は悪い子だ」と疎まれる。

私は、
自分の気持ちに正直になることが許されなかった。


子どもにとって、大人、とくに親は第二の神とも言うべき存在である。
だから、どんなに理不尽でも、自分の気持ちとは違っても、親の言うことは絶対である。


だけど、その「神」はとてつもなく弱い存在で、恐れたり怯えていた。

だから、無力な子どもを支配することで自分を保とうとしていたのだ。


もう、君は支配される必要はない。
恐れる必要はない。
君は君自身を肯定していいんだ。

あなたの内にある本当の神が、あなたを無限に愛している。

初めは、恐れや不安があるかもしれないが、勇気を出して踏み出そう。


あなたは、自分の本当の気持ちを「だしてはいけない」と思って抑圧していた。
あなたは裁かれることを恐れていた。

でも、安心しなさい。
キリストも言う。
「あなたを裁くものはだれもいない。」と。










きっと、だれしもが依存の対象をもとめているんだろう。

そして、自分自身の存在を、心を肯定したがっている。

その欲望に、悪魔はジャックして入ってくる。

「素直になれ」と説く。

本当に大切にすべきあなた自身の心の操縦席に、何か別のものが入り込むし、あなた自身がそれを許してしまったのだ。



心の痛みは、忘れちゃいけない。
それは、あなたの魂にとって、本当に大切なものを教えてくれる愛のメッセージだから。

痛みは、本当は心の財産と学びにほかならない。

でも、復讐に使ってはいけない。
それは、他人だけでなく、あなた自身を地獄に突き落とす。
他人を傷つけた分だけ、君はその報いを刈り取るまで苦しまなければならない。

自分の受けた心の痛みは、絶対に人に対してしないと誓うことだ。

そして、自分にして欲しかったことを、他人にもたっぷりしてあげること。
痛みの向こうで泣いて苦しんでいる魂に、慈悲を注ぐこと。

そうすることで、あなたは自分自身の幸福を取り戻す。
2013.09.28 Sat l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
あらゆる苦しみは、外界の事象をコントロールしようとして、それが思い通りにならないことから起こる。

この点を分かっていないとたとえいかなる優れた思想が出てきたところで、争いやいさかいはおこるだろう。


宗教というのは、他人の想いをコントロールしようとする試みに他ならない。
すなわち、「自分の思い通りに動いて欲しい」という。

それに対するアンチの活動もまたしかり。

国家が国民をコントロールすること、
国民が国家に不満を抱くこと。

親が子の言うことをきかせようとすること。
子どもが親には向かうこと。

カルト教祖や教団や信者が、信者や外部の考え方をあれこれ言うこと。
それに対して、外部があれこれ批判をすること。


相手を「嫌」と思い、攻撃することもコントロール。




本当は、コントロールできるのは自分自身の心だけなのである。

それを忘れると、自分自身がコントロールされ、苦しみに陥ることになる。


他人が私にあれこれ言うことはコントロールできない。

私が、他人に助言をすることはできるが、コントロールはできない。

コントロールできるのは、私自身しかいないのである。


一切の自由が失われたナチスの収容所において、
フランクル博士は、心の態度の自由だけは奪うことができなかったという。
そして、希望を持つことができる者のみが唯一生き残ったと。


私は、「正しさ」ほど愚かなものはなく、人間を迷いに導くものはないと思っているし、
人間心で決める「正しさ」のうちに悪魔がいるのではないかと感じる。

「私は正しい」というとき、
そこには、「私(私たち)は、ほかのものに勝りたい。他のものは皆私たちに従うべきである」というコントロールの意志が隠れている。

ドイツ語で、正しいとはgerechtという。
このgerechtと、「復讐が満たされた」というgeraechtという言葉はまさに同義である。



本当の自由とは、「自由」などに捉われなくなることだ。



他人というものは本当は幸せにはできない。

本人が、自ら幸せになる以外に幸せというものはないのである。

もし、他人を幸せにしようとおもうなら、
私自身が幸せの光をうちに灯すこと。

本人がその光を望めば、私のロウソクの炎を分けてあげることだ。



魂のうちにおける光とは太陽のようなものである。
私は、ただ自らの光を燃やす。
その結果、周りは輝く。

決して、周りに輝くように要求しない。
ただ、輝く。
自らのうちに満足して。

太陽は、照らすものが何を言おうが、
彼らの生き方に口をはさまず、尊重する。

太陽に顔を向けるヒマワリも、
土の下にいるモグラにも、
「それでいい」という。

太陽は、ただ充泌のうちにその生命を燃やし続ける。

2013.09.27 Fri l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲
K会の「とげとげしさ」「排他性」は何かというと、
OR氏とそれに集まる人に、やはりどこか「焦り」「恐れ」や「満たされなさ」が隠れているのではないかと。

彼らは、自分のうちを深く内省しそこから自然の神の光を発するのではなく、「光っているように見せる」。
これでもかというくらいに、わざとらしく光を発する。

彼らの説く「太陽」は人工の太陽。
そして、それが本当の太陽の眼隠しになっている。


悪魔とは何かという話に入りたいと思います。

悪魔と言うと、角やきばの生えた人外の生物が、悪さをして高らかに笑っている姿が定着していますし、
皆さんの中ですと、「自分の背後にいて、自分をコントロールしている黒い存在」のように怯えてしまう人もいるかもしれません。
それは実はごく一部でして、
本当は、「神にとって変わろうとする人間のエゴ」および、「エゴのつくる苦しみ」なのです。

恐れや、不安を抱かせるものは悪魔でしょう。


本当の悪魔は、「神を手なずけて、利用しようとする人間の心に巣くうもの」。

彼は、敬虔で従順であるふりをしながら、
その敬虔で信心深いふりをして、他者を従わせようと画策していますし、
他者が自分に従わないのが許せない。
そうしながら、自分は神に近く、選ばれた人間だと思っています。

いわゆる、「律法学者」といわれる連中もそうでしょう。
魔術を行う人もそうかもしれません。

神の名をかたり人々を支配する独裁者も、
カルト集団の教祖も、
またそれに追随していく人々も、
結局のところ神を利用して、人を支配し、「権力」を手に入れようともくろんでいるのです。

その裏には、思想とか社会とか大きなもの以前に、
人間としてごく原初的な「劣等感」「自己嫌悪」が横たわっている場合が多い。

思想や学問や集団の力を利用してその「満たされなさ」の正当化は進みます。



彼らにとって、悪魔というのは、「自分の立場に都合の悪い存在」です。
教条を絶対視し、人間が生きる上で真に大切にすべき光を自ら閉ざしてしまっているのです。
「自分の閉じたエゴを脅かすもの」を彼らは悪魔として退けます。
それは大きなエゴにほかなりません。

悪魔と言うのは、逆です。
彼ら自身が自らを悪魔に定めています。
そして、内心では怯えたり、苦しんでいたりするのです。


神というものはとても不確定でいて、もろい、そしてすぐに見えなくなる。
信じること、希望をもつこと、愛すること、
これらに証明や確定さを求めることはできませんし、どちらか一方がわずかでもそれを破れば取り返しのつかないことになる。
私は、だからこそ、それは尊いもので、それによって、それのなかで人間は真に生きるのだと思っています。



神に願望をかなえるための力をもらうことは悪いことではないのですし、
真剣に願い、行動すれば、運命は変わります。
しかし、その願望が、利己的であった場合、その願いに邪霊も多く集まってきて、その人の人生は狂わされていくことになります。

近頃のスピリチュアリティおよび、カルト宗教の危険性は、
あくまでも、「自己本位」であることだろうと思っています。
縦の関係しかないし、それで完結している。

横のつながり、思いやりや、愛による素朴な連帯というものが失われがちなのです。
もっとも、横のつながりが強調されすぎてしまうと、また「煩わしい人間関係」や「友達地獄」のような自体も起こるのですが。

カルトというものは、どうやら、縦の関係も横の関係も支配的であるようです。



心をつくし精神を尽くし神を愛する。隣人を自分のように愛する、
という掟は普遍のものだろうと思います。

問われているのは、「対象」同様に、「愛」の在り方だろうと思います。

神と私たちが呼ぶのは、隔絶された不可思議な対象でなく、
自己の根底にある「真我」です。
私たちは、「神の似姿」であり、神の創造した宇宙とおなじ性質を有している。
無限の愛と光の海である神の、分霊をいただいているのが人間です。
しかし、自我=神ではありません。
「偽我」を、神としてしまうところから過ちが起こる。

偽我の語る「愛」は、「束縛」であったり、「支配」の形をとってやってきます。

様々なところでそれは混同されがちです。


愛の形として、やはり「自分のして欲しいこと」は何なのか、アンテナを立ててしっかりと自分自身に問いかけることではないでしょうか。
それは、自己の根源に関わり、宇宙の根源に関わり、またすべての人を駆け巡るものなのです。

自分の他者になしたことは、宇宙の網を駆け巡って、すべて残らず自分に返ってきます。
苦しみが生じるということは、自分の思いと行いにまだ清くないものがあるから。

自己の根底に住まう神と、それぞれの宇宙を有して人格(ペルソナ)を持っている他者に対しての愛の行い。
いかに宇宙にある網を使うかです。

自分に対してして欲しい最も善い思いと行いを、惜しみなく与えることです。


本物の悪魔は、自分を苦しめる他者ではなく、それに対して反発や苦しみを抱く私の心自身にほかなりません。
悪魔に打ち勝つ方法は、感謝と慈しみです。

先にそれを成し遂げることができた人が、勝利します。



心より感謝しています。





2013.09.26 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
ロザリオを片手に、十字を切りながらイエス・キリストの助けを借りて、聞いてみましたが、
私の場合、完全なクリスチャンと言うわけではないので、どういう神さまかはわかりません。
キリスト教系の神さまだったら、きっぱり全否定かもしれませんが(笑)

一切に命を注いでいる、「愛と光の海」様に、K会についてうかがってみました。


・・・・
どうも、コアなところは、彼らに「自我の集まり」のような灰色の壁があって、さえぎられていました。
私のほうでは、光は満ちている状態で、私が自我意識に満ちているという感じではなかったので、「ハテナボックス」という感じでした。

この時点で、悪魔らしい悪魔は見つからず。

自称「エル・カンターレ」は何ものかというと、「救世主ではない」「仏陀ではない」と。

知ることのできるものはなにか、その霊が知らせてくれるものは何かというと、
確かにそれは、「一部の光」としての機能はあったが、それまでらしい。
なにか、彼らのうちにある自我が光の使命のキャパを超過してしまったという。

そして、現在、魔に操作されて、餌食になっているという状態だそうです。
格好の餌になるのは、「純粋な人たち」。

じゃあ、魔の正体って何ですか。
私の教えてもらう限りでは、そこまでおどろおどろしい巨大なものではなくて、劣等感や幸福感の欠如がそう。
つまり、生きている限り誰にでもあるものだそうです。

万物をつかさどる神は、そんなに軽く、「これからどうなるか」という「ものあて」には力を貸さないようです。

大悟館にのほうを見てみますと、
暗い煙、スモッグがおおっていて、その煙の奥に光がある、というわけではなく、
その煙の中に、まあ点々と小さな光も混ざっていたりするイメージでした。

何かが隠れているようには見えなかったです。


K会は、ごく普通の人が集まり、ごく普通の欲望に従い、その欲望・煩悩があつまり、没落していったといいます。
彼らは、無我なようでいて、実は無我ではない。
強烈な欲や煩悩が姿をかくしていて、それが教祖や教団によって引き出される形になった。

つまり、教祖が自分の本来の使命の身の丈に合わない言動が、それを引き寄せたという。


「愛と光の海」に、「これからすべきことはなにか」きいてみました。

己を反省すること。
内なる光を見つめること。
自分の良心の声をしっかり聞くこと。
そして、あたたかい方向に心をもっていくこと。

自分を見つめよ。
誰かに頼ったり、依存しないように。

その時、心の痛みを感じるかもしれないが、それに対しては慈悲とほほ笑みをあわれみを注ぐこと。
一切の衆生に偉大な仏の生命が宿っているので、それに敬意を払い合掌し、頭を下げること。
そして、仕える者になること。それが、神に奉仕することであり、神の心に従うこと。

アンチも、残っている人も様々な立場はあるが、集団の動向に流されてはいけない。
自分の心、良心が善と思うことをなしなさい。ただひたすらに、ひとりで、だれにも言われずに。人にもみせびらかすことのないように。

そうしていくうちに、魂の深いところで真実は分かります。
そして、最後に、どんなことがあっても私はあなたをみすてることはありません。


・・・・

・・・というメッセージをいただきました。


今回はまあ、「視察」という感じです。

あまり、バシッとものをいわない神さまで、全然たち入ろうともしないし、遠目で「ああ~、ちょっとなあ」という感じで、「正直興味はない」のかなと(笑)
というか、深入りすると、「たぶんヤバい!」と本能的に感じましたので。
種村さんによると、大川氏は「どんでもないものに操られている」と窺いましたので。

ひょっとしたら、のちのちどうなるかは分かりませんが。


「白か黒かはっきりしてくれ」というひとにはむっとするでしょうが、
外界の現象に対する判断でなくて、まずはそれは置いておいて、個人の修行をしておきなさい、そちらの方が大切ですよという。

んー、我々アンチもKKも仏の命に変わりないのですが、ただし、K会的なパースペクティブとは違う、もっとうにバーサルで普遍的なものです。


まあ、捨てる神あれば拾う神ありですので(笑)、
いつか出会う「本物」のために、落ち込まず、人に優しく、明るく、元気出していきましょう!!


ちゃおちゃお。







2013.09.16 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
あれから4ヶ月たって、
そういや!(笑)

つまり、悪霊があの教団にいた。
そして、教団や教祖は悪魔に支配されていて、信者もその恐怖によって従っていた。
と考えてよいのかな。

ものすごく安心して穏やかな気持ちです。

どんどんどんどん幸せになろうと思います。

今日がどんなにいい日でも明日には勝てない!

感謝しています。
2013.09.13 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
魂を感謝で満たしていくと、
光の中に生かされているあたたかい感覚を覚える。

自分のうちにつながっている神から、
愛と光をいただく。


現代は、魂の夜明け前。

いろんな観念や、間違った考え方が多種多様に生まれていった。
だけど、それが伸びきったら、またゴムのように中心をめがけてひとつの真理に戻っていく。

それがいま始まった。

K会も過ちとして、すごく重要な役割を果たしてくれた反面教師。
偽物があったから本物が分かる。

自分は、そのひとつの流れになれたらと思う。

今の時代の魂の学びは、過去最高のもの。


あと、何百年かしたら「地球村」が完成する。

ジョンが「イマジン」で歌った夢物語が現実になる。


本当にこれからが楽しみです。
2013.09.09 Mon l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
タイトルのことは本当だと思います。

大川さんは、信者に百パーセントの信仰を説いておきながら、
彼自身は、周りの人おろか信者をほとんど信じていなかったのではないでしょうか。

「この世に不信あるべからず」という彼の口から、人に対して、
「信じているよ」という言葉を一度も聞いたことがない。

一番、疑い深かったのは彼自身だったのではないか。

自分が信じていないのに、
一方的に信じろととく教祖もついて行かざるを得ない人も不幸だ。

教祖が信じない、脅して信者が信じさせられるのがカルトで、
神が命をかけて愚かな人間を裏切られても信じきり、人間がそれに応えるのが本物の宗教だと思う。
それが愛です。


人を愛し、人を生かし、人を許し、人を信じるところまで。


アンチの皆さんが、「もう信じない」という中、
私は敢えて皆さんを信じたい。
皆さんとは、大川さん、信者、アンチ、すべての人、そして私自身。
すべての人が正しい道に戻ることができると。

祈りにも似た思い。
2013.09.08 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
幸福の科学にしろ、創価学会にしろ、どこの宗教にしろたしかに「素晴らしいこと」は言ってると思う。

問題はそこに、「エゴ」が入り込んでしまうところだ。

彼らは、教団の大きさや、影響力や、資金などを誇るようになる。

世界を自分の価値観一色で塗り替えようとする。

いずれ、彼らの「エゴ」が「正義」となり、悟りの頂点となり、それに反対する者に対して口汚くののしり始める。

正義とは、「都合」にすぎない。


個人においては、救済や自己変革が真実である場合はよくある。
なぜなら、一部において、真理が実践されたからだ。

しかし、組織になると、エゴは暴走を始める。
個人において真実だったことが、組織においても絶対的に正しいと思いこまれるようになる。
彼らのエゴや都合こそが真理として支配をもくろむ。


彼らは、自分の心の声、神の声に耳を澄ますことができなくなり、
知らず知らずの間に、良心を何者かにコントロールされている。
そして、それを自分の本心と思い始める。

おかしいと感じていても、それを思うことも口に出すこともできない。
なぜなら、それを心にしたり、言葉にした時、自分が教祖や教団という「絶対的な他者」に否定されるのが恐ろしいからだ。

世間体を気にして、「あの教団きもちわるいわね~や~ね~」と言っているおばちゃんも、
みんなに真理を伝道しなくちゃと励む信者も、実は精神構造的にはなんら変わりがない。


宗教を勧誘される時、やはりそれは「いいもの」なのである。
断る理由もない。

だからこそ、自分は断るさしたる理由も見つけられず、「いいものだったら、もらっておこう」と、ほいほい無駄なものを溜めこみがちなのである。



しかし、誰にも言われず自分自身で決断したもの以外は、人生においてその価値は屑同然であることがほとんどだ。



たとえ、北朝鮮の人間であろうが、KKの人間であろうが、
自分の深い良心に従って、他人に左右されずに、自信を持って自分の意見を表明できる人を自分は尊敬する。

逆に、いかに人畜無害な団体でも、「善良な市民」のうちで、安全なポジションを確保することだけに汲々とし、他律的に生きている人に従うことはないだろう。



現代の世の中の人間は、実存的に不安を抱えているので、なんらかの他律的な価値観に従わなければその不安を埋められないのだ。
そんな時代の彼らの正しさの基準は、「誰誰がこう言ってたから」以外にない。

自分を他人や権威に肩代わりしてもらいたくて必死なのだ。
自分が正しいか間違っているかいつも不安で、自信が持てない。

コントロールされたのではない。
諸君自身が、コントロールされることを自ら望んでいるのだ。


「私はこう思う」も、せいぜいが他人の意見に対する反発でしかない。

絞り出された己の言葉は力強い。
それが、結果として、権威に適うものになったにすぎない。


キリストが述べた、「平和でなく、剣を」という言葉は、
世の中に惑わされず、自分のうちに燃え盛る神の炎を絶やすなという自己決断の呼びかけにも思われる。

群衆ほど、危険なものはないからだ。


ブッダは、「犀の角のようにひとり歩め」と言う。
誰かと交わっていなければ不安で仕方がなく、ハブられるのを極度に恐れる現代人にとっては、勇気のいる決断かもしれない。

しかし、孤独に耐えることのできる人間、そのなかで自分の心と向き合うことのできる人間はどこか神聖さを感じずにはいられない。


「他人のためを思って」は、実は他人をコントロールしようとしている己のエゴではないか。
他者のコントロールに従おうとしている私はいないか。
コントロールせねばならないのはほかならぬ私自身である。
人はそれぞれに、おのれのなすべき魂の課題がある。それは自分以外にしかとけないから、介入すべきではない。

それぞれが、おのれの勤めや善行にはげむことこそ、正しい道なのである。
2013.09.03 Tue l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
空海が心の段階を10段階に分けていたり、

キルケゴールが実存を3段階に分けていたりされているのですが、

私も、及ばずながら、自分の思うところの魂の段階を簡単にまとめておきたいと思います。

あくまでも、試論なのでちぐはぐはあると思いますが。







第一段階:わがまま
己のエゴのままに生きる魂。わがままに振舞い、人を傷つける。自分が一方的に環境の被害者であると信じている。



第二段階:いい人

道徳に目覚めて、「いい人」になろうとする。それは、環境からの圧力であったりして、自発的なものとは言えないが、良心はそれを是とみなしてはいる。



第三段階:真面目な人
より高い徳を目指そうとする。

すなわち、倫理的に生きることが幸福につながるという自覚とともに、主体的に善であろうとする。

しかし、やはり、「自分が中心」の善を抜けられず、他者に対してもその「善」を要求する。

未だに彼は己のエゴイズムに気がつくことはない。



第4段階:求道者
人間を超えた真理、神なるものを求める段階。

魂は、自分の起源である神、真理を希求する。そして、真理の前でまったき者であろうとする。

因果の理法を理解し、善行によって自らの魂を徳高きものとしようと戒を守ろうとする。



神を求めながら、その「神」を己のエゴの範疇に押し込めてしまう。彼は己の罪や傲慢さを自覚していない。彼は、聖書に捉われ、宗派に捉われ、人に捉われる。





第3、第4は、いわゆる「律法学者」とも言えるかもしれない。神や道徳を他人に押しつけながら、人を裁く。

「善良な市民」と言われるものが、第2から第3にかけての段階にいる魂であり、彼らは群衆になると第一の悪人よりも厄介だ。世の中の人間の大多数がそこに属する。





第五段階:絶望
神を真剣に求めるものの、まもなく彼は絶望に至る。罪と絶望の自覚である。

彼らは、「善良な市民」を憎みながら、本質的には彼らとおなじ次元で生きていることを知るからである。

己への絶望、罪の絶望。すなわち、あらゆる人間はエゴや欲望を棄てきることができない。

一切が罪のうちに捉われていくのだ。だれしもが「わがまま」の次元からなんら離れることができない。

神との断絶を感じる。彼はどこにも神を見出すことはできない。神を希求しながら、神と断絶していくという皮肉、矛盾。

誰よりも善に向かいながら、悪に捉えられずにはいない。

ただ、彼はひたすら「裁き」に恐れおののく。神の許しを信じることができない。

どこに神があるのかすらも見出すことはできない。



彼のいる「地獄」は、第1段階よりも苦しみに満ちている。そこから抜け出すことはできない。

否、「善良な市民」一切が、自らが地獄で生きていることを自覚していないのだ。



彼は己を知ろうとするが、群衆の裁き、人と人のうちにしか見いだせない。



太宰治もそうであったし、尾崎豊もそうであったのだろう。









第六段階:赦し

ここで、飛躍が生じる。

彼の精神は、泥沼の中で、自ら自身の魂の奥底に向かう。そこで「内なる神」を見出す。光を己の根底に見出すのである。そこにおいて彼は自己を見出す。

断じて、「私が神である」ということではない。

一切は神の計らいであるという恩寵を自覚する。

エゴを棄てきることはできないし、未だにエゴに捉われているものの、それにもまして、神の恵みは計り知れないことを知る。

彼は、己を肯定する。そのとき、神によって肯定されている。



第七段階:恩寵
私は私を棄てる。一切を神の計らいに委ねる。

私が生きているのではなく、神が私を生きているという覚りにいたる。

真理は、時間の延長の先にあるのではなく、現在の深奥に永遠なる神が生きていると知る。

彼は、すべてを肯定する。

彼はここで、再び、利他の心に目覚める。慈悲と善行の心で生きる。

一切の罪人に許しとあわれみをもたらす。



第八段階:無我
一切が、空虚であると知る。

五感によって捉えられる世界は、一切が変化し、自己自身も蜃気楼のものであり、滅びるものであり、幻想であると知る。

すなわち、「自分はない」。

無によってある有、有によってある無を覚る。





第九段階:万物一体

「一切がひとつ」という覚り。

すなわち、自分と他者、世界、仏は同じものであるということ。一切が神のうちにあり、つながりをもっている。

しかし、それは「均一化」ではないし、「没個性」ではない。

自己の魂の根源は、宇宙とつながっており、その根源において、あらゆるものはそこから生じている。





第十段階:?
言語化は不可能な領域で、人間には見ようとする資格すらないだろう。

神が言葉をあたえ、世界は成立している。人間がそこに言葉を与えることはできない。







魂が段階を重ねるということは、「上に行く」ということや「立派になる」ということとは言い切れない側面も存在する。それらは、「我」によるものだからだ。

罪の自覚と、謙虚さに恵みを注がれていると言った方がよいかもしれない。



上昇や飛躍と言うよりも、魂の根源に向かうダイナミズムといってもいいかもしれない。



2013.09.03 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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