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最近好きなのが、
カトリック司祭の晴佐久神父さまと、
納税額日本一の斎藤一人さん。


大川隆法さんは、確かに、すごいのですが・・・

「なにがいけないか」「どこでおかしくなったのか」
考え始めましたが、
それは他の方に任せることにしまして・・・
一言で言えば、
「やさしくない」「あたたかくない」。


信者とアンチの間にも、あらさがしをし合うような空気が流れていがみ合いは否定できないのですが、
そういうことをしているうちに幸せを見失ってしまう。



よく、カトリックの告解の場で、いろいろ人に言えないようなことを言うのですが、
心を向けるべきは、神の裁きではなくて、恵みと許しのほうなのです。

罪を自覚するのは、裁きではなくて、
神の愛ゆえに、自分が神を傷つけてしまったことを気がつくということ。

神は、何回過ちを犯しても、あなたの名を呼び求めて愛している存在であるということ。


私にも、「まともな人間なんて誰もいやしない。立派な風に振舞っているようで、実はエゴイストだ」と失望にかられることがあります。

でも、神の愛はそんなものはどうでもいいというほど大きなものであるということです。


幸福の科学の教えは、
「立派さ」や「非の打ちどころのなさ」を求めすぎで、息苦しいもの。


どの宗教が上とか、そういうことを言いたいのではないですが、
イエスの愛は、「神の似姿」として創られながら、「どんなに立派になろうとしても罪へ傾かざるを得ず、苦悩する人間ひとりひとり」に向けられている。

キリストという神さまの強烈な特色は、「あなたを罪に定めない」という宣言。

「いいのか?」と思うのですが、おそらく、「罪」とは、イエスのせっかく招かれた食卓に「俺にはそんな資格はない」と自分から背を向けることで、それはきっと「哀しさ」なんだろうと思う。

逆に、イエスが嫌ったのが、「律法学者」で、「立派に振舞おうとする人々」。
自分の罪を見ないふりをして、罪人を嫌い、遠ざけ、嫌悪し、排除しようとする人。


聖書に触れるたびに、何回も耳にタコができるほど聞いてきたイエスの「罪人を招く」発想に、驚く。
新たにさせられる。



本屋に並ぶ、KKの書籍はいつのまにかもっぱら心の教えが消えて、霊言ばかりが並ぶように。

興味をもって手に取って読んでみても、自分の「立派」を強調しすぎて、それ以外のものの「充分でない点」の指摘や、批判する者に対しては、容赦ないこき下ろし。

「人から立派に見られたい」とか、
そういう原理で彼らは動いているんじゃないかと思いますし、
反発を感じる人たちも、やはりその原理の中に取り込まれている。

彼らは、そういう弱さをついてくる。

人には、誰だって弱点や人間的な弱さはあるもの。


ありのままであることが恐怖なのかもしれない。

やっきになって批判をしだす人は、実は恐れている。


彼らこそ、実は「愛欠乏症」という名の病気で苦しんでいるのではないだろうか。

自分でも、何を守って戦っているのか分からなくなっているのではないか。
本当に大切にすべきものを見失ってしまっている。


きっと、大川さんやついていく信者もそれを自覚していない。


サルトルは、「地獄とは他人のことである」と述べたが、
彼らにとって、「地獄」とは、「幸福の科学という『閉じた世間・他人』からの軽蔑」。それ以外の何物でもない。


批判とか、相手を貶めて喜びたいわけではなくて、
昔は、憤りとかそういうものもあったけれども、
「彼らが、幸せでありますように。平安な心を取り戻せますように」と、願う。



唯一の武器は、
「神から無条件に愛されていることの自覚」。

心が、愛に満たされているなら、本当はもはや戦ったりする必要はない。

自分が戦うのではなくて、神さま、イエスさまに任せればいい。


教義とか、教団とかの争いで躍起になっている人たちはどこの世界にでも必ずいるのだけれども、
根底に、神の愛がなければ、語る言葉に神からの愛がなければ、それは神を自分のエゴのために利用しているにすぎないのではないか。

人の批判の奥には、自分が否定されることへの恐れがある。

根本的には、彼らも、やはり心から愛されていない、誰にも必要とされていないという意識があったりして、どこかで苦しんでいる。
それを、人に認められるとか、同じように批判する仲間を集めたりして、別の方法で見たそうとしているのではないだろうか。



恐れがあるということは、どこかで他人にコントロールされているということ。



他人の声とか、そういうものを取り払って、
裸の自分を、まるごと愛して、抱きしめて、いっぱい愛をそそぐことが必要なのだと思う。


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2013.08.27 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
神さまとか、聖霊、指導霊というのはやはりいるのだけれども、
「信じよう」「見よう」とあがいてると、かえってよく分からなくなってるので、そこに縛られなくても良いと思います。

外側でなくて、自分の心のうち、因果の道理を丁寧に観察してみることです。


その社長さんの心の教えの本が好きで、ある、有名な健康食品販売店にお邪魔しました。
お話しながら、すごく楽しいひと時を過ごさせていただいて、健康食品も購入。
飲んだら、今朝はすごく身体の細胞が生き生きしていて、目覚めも違う!

その社長さんも神さまのお話をよくされて、宗教に近いことをやっている。ただし、お金は取らないけれど。


帰って、すこし心に引っかかりが。

あの、楽しいうきうきした「光」の感覚は、かつての幸福の科学でも体験したものでした。

だから、「また、信じたものに裏切られるのではないか」という恐れがあり、いろいろなことを考えていた。


幸福の科学のすべてがすべて間違っていたとは言い切れない部分はあるし、
それを言うなら、オウムのようなカルトだってはじめから狂気の様相を呈していたら誰一人として入りはしない。

だからといって、宗教がダメだとか、神さまのことを言い始めると、それは危険だと判断するのは、ステレオタイプな見方だ。

分からないことをあれこれ議論して、何も実践しない道理は空想であり、迷妄でしかない。
掲示板などで、いくらいいことを書いても、たぶんそれは「豚に真珠」になってしまう。


自分は、他人にどう馬鹿にされようが、幸福の科学を守るつもりだったし、多少世の中から奇妙に見えても、心の教えは守っていくつもりで、周りの人を幸せにしたかった。
でも、最終的には、道理で打破されたし、そして、教団や教祖自身が心の教えを忘れ、内部崩壊していった。
謙虚さを忘れ、高慢になっていった。

どこかで、自分たちのエゴが「神聖さ」を纏って暴走していったのだろう。


宗教や神を判断する基準は、奇妙とか常識に反するとか、そういうことは二次的なもので、
基本は、盗まない、人を傷つけない、邪淫をしない、嘘をつかないということ。

仏典や、古典に立ち返ってみても良いかもしれない。


「全体」を掴む必要はないし、「仏教もキリスト教も、真理はつまるところ同じ」ということも言おうとする必要はない。

自分にとって、心が穏やかで、安らぐものを選び、実践する。
それが、早い。
それが、「普遍」に至るための近道。
2013.08.17 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲


私は、今まで三人の師に裏切られてきました。

ひとり目が、母親。
とても、教育熱心で、たくさんの本を読み、成長の家の集まりにもよく連れて行ってくれました。
でも、最後には、世間の目や親のエゴが強く、私にとってそれは虐待以外の何物でもなかった。


二人目が、幸福の科学の大川隆法さん。
彼の本は片っ端から読みふけり、ユートピア建設の一員となることを夢見ていた。
でも、幸福の科学は、人の心や本当に大切なことなんかどうでもよくて、結局金と権力。
信じる人の気持ちを完全に踏みにじった。
反対するものはたとえ良心的な人でも、あらさがしのような霊言で叩きおろして批判。


三人目が、母校のカトリックの高校の社会科、宗教の先生。
学生時代、父親のように慕っていて、暇さえあれば先生の部屋に行って、話を聞いていた。本もたくさんもらった。悩んだ時は、いつでも電話していた。

でも、教育実習のとき、全く違った姿をみた。
聖書や資料集で生徒を叩いて、その本はヨレヨレになっていた。
生徒一人ひとりよりも、学校のメンツを保とうと、不都合があると隠蔽しようとする。いじめを肯定する発言。
それが、少しでも脅かされると、「何でこんなことで」と思うようなことでも激昂する。


ショックだった。
世の中に信じるに値するべきものはないと知った時、そこには絶望しかなくて、死まで考えた。

また、恨みや復讐の気持ちも。
心は怒りにうちふるえていた。

そして、「素晴らしいことを説く人はみなそうなってしまうのだ。自分もそうなってしまうのでは」という恐怖といつも戦った。

「すべてはきれい事なのだ。世の中は、狡猾で人を蹴落とし傷つけることができる人間が勝つ社会なのだ。人間の存在は間違いなく悪だ。だったら、自分も悪に徹してやろう。」と堕していった。

「そうでもしなきゃやってられない。」と。


でも、本当は許すことが私の魂の修行。

いまでも、心はそちらの方向に揺れることがある。


でも、裏切るほうより、裏切られる人のほうがマシ。

魂の苦難は、あなたを磨くし、そのなかで人は「ホンモノ」は何かということを分かっていく。
それはきっと、お金とか名誉なんかよりもはるかに大切なものなんじゃないかなあ。


人がどうだろうが、自分が大損をここうが、
人を数ではなく、「人格」として、仕えるものになれるよう、神に祈りたい。


今は、思う。
どんなにどん底にあっても、命を脅かされても、魂は無垢であれ、と。


大切なのは、人に依存することじゃない。

自分が真実だと思うことを、心の底からしっかり確認して、その道を歩むこと。
人は間違うし、裏切る。
だからって、自分もそうでいいというのは、悪魔の誘惑だ。

正しいのは、仏、神とその法則、生命のみ。
それは、あなたが祈り、しっかり生きることによってのみ確認できる。


「太陽の法」のすべてが間違っていたわけではないし、実在界もないわけではないことは、
心の修行を深めていくうちに、実感できる。

じゃあ、大川隆法に再び帰依しろというのは違う。

カルトにいく人間は、「それが正しい」と確信し感動を覚えたから、そこに飛び込んでいき、信じられないものまで信じようとした。

そして、苦しむ。


確かなものは、知らないことの中にではなく、
また、形而上の机上の論理のなかにでも、呪文のなかにもない。
善の実践と、瞑想の中にはっきり確認できる。

何が幸せのリアリティであるかなんて、人や世間が決めることではないし、他人にちょっかいをだすことでもない。

そのまま、満足して感謝して死んでいけたら、「大きな迷妄」に縛られて苦しみながら人生を終わるよりも、はるかに豊かだし、
細部に無限の慈悲を注ぐことで、はっきりとそこに神や仏を観ることができる。
2013.08.15 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
矢継ぎ早に出される霊言をはじめ、幸福の科学の出版物を見るたびにいつも、窮屈な感じといいますか、すこし気が重くなる感じを受けていました。

彼らは、自分と敵対する思想や団体の「あらさがし」をすることが多い。
そして、都合の悪いものは「地獄」や「悪魔」のレッテルを張る。
そして、自分の団体や思想の優位をとくパターンがほとんどだからです。

彼らは、「完璧」を要求し、いつでも、自分に反対するものを断罪し、「この思想の落とし穴」を探し、
あの手この手を使って、幸福の科学に屈服させようとするわけです。

幸福の科学に縛られた頃は、「等身大の自分」で生きることが罪のように思えていたりしました。

息が詰まるような想いでした。


でも、そこから離れること。

彼らのことが、「哀しい人たちだな」「つまらない人たちだな」と思えるようになってくる。


やはりどこかに、教祖にも、信者にも、「棄てられないエゴや欲望」が形を変えて彼らの行動原理を縛っている。



純粋な心の持ち主ほど、その世界を傷つける者に対しては暴力的になる。


あらゆる宗教に問題があるからといって、「実在の世界」や「道理」そのものに問題があるわけではない。
それを見抜く知恵を、静けさの中で確かめて生きていきたい。


蛇のように賢く。鳩のように素直に。


結局のところ、どの団体に属しているかよりも、自分自身がどう善い生き方をできるかこそが問題なのだ。


世の中がどうとか、社会がどうとか、他人からされたことではなく、
自分のしたこと、自分のしなかったことだけに心を向けて生きていきたい。
2013.08.09 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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